第七章 The Ending and the Commentary
私たちは全員、木曜日に法廷に出頭するよう通告されていたが、その木曜日が来ても、私たちが証言台に立つことはなかった。
この事件は、もっと高みにある審判者の御手へと委ねられることとなり、犯罪者メネラオス・ヘレネーは法廷よりも厳正な裁きの場へと召されていった。逮捕された日の夜、私たちに事件の経緯を語った後に動脈瘤が破裂し、翌朝、独房の床で冷たくなっているのが発見されたのだ。有意義な生涯だったと、見事に仕事をやり遂げたとでも言うように、顔には安らいだ微笑みが浮かんでいたという。
「グレグスンとレストレードは、メネラオスに死なれて大騒ぎだろうな」
次の日の晩、食事をしている時にホームズが言い出した。
「折角の大手柄を大々的に宣伝するチャンスがふいになったわけだからね」
「でもあの二人は、今回、大した働きをしていないぞ」
「実際にどれだけ仕事をしたかなんて、あの連中の場合は問題にならないんだ」
手にしたフォークを振りながら不満げな様子でホームズが続ける。
「彼らにとっては、これだけのことをしました、と世間に信じ込ませる方法を考えることの方が重要な問題なのさ。裁判を開けばすぐに功績を広めることができたわけだからね。もっとも、私にとってはどうでもいいことさ」
それからは、牛フィレ肉のソテーを黙々と口に運んでいたホームズだったが、料理のお陰なのか気を取り直したらしく、明るい調子で言った。
「だが、こういう事件なら大歓迎だ。私の記憶でも、これほどの面白い事件はちょっと見当たらない。単純ではあるが、いろいろと貴重な教訓があったし、まだ楽しめそうなこともある」
「単純だって!?」
私は思わず大声を上げていた。
あれほど異常な事件を経ているにも関わらず、彼女はあっけらかんとしていた。
「そうさ。他に言い様がないね」
驚きのあまり、ぽかんとしている私の様子をホームズは面白がった。
「それほど驚くことでもないさ。本質的には単純であるという証拠に、私は極めて初歩的な推理を二、三しただけだし、たったの三日で犯人を捕まえたじゃないか」
「まあ、確かにそうだが」
言葉にしてみれば明らかだが、それを実行するのは簡単なことではないだろう。
「いつかも話したように、異常なことというのは手掛かりにこそなれ、決して推理の邪魔になることはない。こうした問題を解く時に一番重要なのは、『あと戻り』の推理ができる能力だ。これは実に有効で、しかも非常に簡単なんだが、世間じゃあまり活用されていない。日常生活では未来に起こることを推理、予測する方が遥かに役立つ機会が多いから、過去へあと戻りする推理の方はどうしてもなおざりにされてしまいがちだ。総合的な推理のできる者が五十人いるとすれば、そういった分析的な推理のできる者は精々ひとりというくらいの割合さ」
「正直言って、その話はどうもよく分からんな」
「まあ、そうだろうとも。見たところ、君は先を推理することに長けているようだしね。さて、どう言えば分かりやすいかな。例えば、ある子供が部屋にある花瓶にぶつかった、と聞かされれば、その結果がどうなるかは大抵の人に分かるだろう? つまり、それらの出来事を頭の中で総合し、次に起こることを推測するわけだ。ところが逆に、部屋にあった花瓶が割れていた。傍にはこぶし大の石が転がっており、閉めたはずの窓は開け放たれていた、と聞かされて、その結果が出るまでにどんな段階を経てきたのかを論理的に調査、推理できる人はほとんどいない。これが私の言う、あと戻りの推理、つまりは分析的な推理というヤツだ」
「なるほど、それなら分かる。先ほどの例で言えば、こぶし大の石や開け放たれた窓は偽装で、実際には子供がぶつかっただけだった、というわけか」
「その通り。無論、外から石を投げ入れたという可能性もあるから、調査は必要だがね。今度のは、それこそ結果だけが与えられて、あとは全部こちらで究明しなければならない事件だった。そこで、私の推理がどんな段階を辿ったか、ひとつじっくりと説明してみようか」
ナプキンで口元を拭ったホームズは、以前購入したジパング製の煙管をひと吹かしした。どうやら気に入ったらしい。
「最初からいこう。君も知っているように、私は先入観を持たないように頭の中をまったくの白紙にして、歩いてあの家に近付いていった。もちろん、道路のところから調べ始めていたわけだがね。そこで馬車の轍を発見し、それが夜の間にできたものだと確認した。しかも、車輪の幅が狭いから、自家用馬車ではなく辻馬車だ。ロンドンの辻馬車は、ブルーム型――シートよりも一段高いところに御者席がある――の自家用馬車より車輪の幅がかなり狭いからね。ひと目で分かったよ。そしてもう一つ、これは君にも訊ねたが、馬車の轍を見て気付いたことがあった」
「ああ、随分と歪んだ轍と馬の跡が残っていたアレか」
「そう。あの家まで辻馬車が来たことは間違いがなく、仮に辻馬車に御者が乗ったままであったなら、あのように蛇行した轍が残ることも、馬がぶらぶら歩きまわった跡も残るはずがない。すると御者はどこにいたのか。だから、あの家でどんな事件が起こったにせよ、辻馬車の御者が関わっているだろうことはすぐに予想できた。これが最初の収穫だった」
確かに言われてみればその通りだ。馬車を家の前に留めておくとしても、御者がいれば馬が勝手に歩いたりすることはない。御者がある程度の時間、その馬車を離れていたことは想像に難くない。それでも、たかが轍と馬の足跡でそれだけの推理ができるのは流石と言う他ない。これが先ほどホームズが説明していた、あと戻りの推理というものなのだろう。『馬車の跡』という結果から、その跡が出来る過程と理由を論理的に推理したわけだ。
「それから、庭の小道をゆっくり歩いていくと、運よくそこの土は足跡がはっきりと残る粘土質のものだった。君にはただの踏み荒らされた泥道にしか見えなかったかもしれないが、訓練を積んだ私の目には、ひとつひとつの足跡に明確な意味があったんだ。
そもそも探偵学の分野で、足跡を鑑定する技術ほど重要でありながら無視されているものはないんだよ。宙に浮きでもしない限り、足跡というのは必ず付くものだからね。私の場合は、幸いにも早い段階からこれを重要視して訓練に励んできたから、今では後天的な才能と言っていいくらいに鑑定眼が身に付いている。
あの泥道には、警官たちが無遠慮に付けた大きな靴の跡に混じって、それ以前にそこを通った二人の男の足跡も残っていた。警官の大きな足跡に踏まれて、ところどころ消えていたから、二人の男の方が先に来ていたってことはすぐに分かる。こうして第二の事実が明らかになった。つまり、夜の間に二人の訪問者があり、ひとりはかなりの長身だ。これは歩幅から推定できる。もうひとりは小ぶりな流行りのエナメル靴の跡からして、流行の身なりをした男ということだ。
家に入ると、最後の推理が正しかったことがすぐに証明された。しゃれたエナメル靴を履いた男が部屋で倒れていたからだ。すると、もしこれが他殺事件であるならば、長身の男が犯人だということになる。
死体に外傷は見当たらなかったが、顔に張り付いた恐怖の表情から、自分が殺されることを知っていたことが見て取れる。心臓麻痺なんかの突然死や事故死の場合には、あそこまで恐怖に満ちた顔が残ることはない。そこで死体の口辺りを嗅いでみると、微かに酸っぱいような匂いがした。このことから、強制的に毒物を飲まされたという結論が出る。強制的にというのは、既に見て取った憎悪と恐怖の表情から推定したわけだ。自ら望んで毒物を口にしたのなら、憎悪なんて浮かんだりしないだろう。私はこのように消去法によってこの結論に達した。つまりは、これ以外、事実にぴたりと当てはまる解釈はないということだ」
じっと見つめられていることに気付いたホームズは、私が彼女の推理に疑問を抱いているとでも思ったのか、苦笑して言った。
「―――と、おいおい。そんな殺し方なんか聞いたことがないなんて言わないでくれよ? 無理やり毒を飲ませるというのは、犯罪史上でも決して珍しいことじゃない。オデッサのドルスキー事件や、モンペリエのルトリエ事件あたりは、毒物学者ならいの一番に思い浮かべるところさ」
こほんと咳払い。
「さて、お次の大問題は、殺人の動機だ。何も盗られてはいないから、少なくとも盗みが目的ではない。盗みならわざわざ毒を飲ませる必要もないからね。では、政治的犯行か、あるいは女性関係だろうか。ここは私も少々迷ったところではあるが、私は最初から女性関係だと考えた。
政治がらみの暗殺であるなら、余計な手間は掛けず、素早く目的を達して速やかに逃走するはずだ。仮に見せしめだとしても、惨たらしく殺しこそすれ、時間を掛けるようなこともないだろう。ところが、この犯行にはたっぷりと時間が掛けられている。しかも、犯人は部屋中に足跡を残していたから、かなりの時間、あの部屋にいたと推測できる。これほど念入りに復讐するというのは、どう考えても政治的犯行ではなく、個人的な恨みによるものに違いない。
それから壁の血文字が発見されたことで、私の考えはますます個人的恨みの線に傾いた。血文字はどう見たって偽装だ。だが、指輪が発見されるに及んで、この問題も一挙に解決した。犯人は、既に死んだか、それとも行方不明の女性のことを、その指輪で被害者に思い出させようとしたんだ。だからあの時グレグスンに、クリーヴランドへの電報でプリアモスの過去について何か特別なことを問い合わせたかと訊ねたんだよ。君も覚えているだろうが、別に問い合わせてはいないという答えだったね。
それから私は、部屋の中をじっくりと調べてみた。その結果、犯人はやはり長身であり、トリチノポリ葉巻を吸うことや、指の爪が伸びているといった細かい事実まで掴んだ。床に付いたおびただしい血痕は、部屋に格闘した跡がないことから、興奮した犯人の鼻血じゃないかと早くから考えていたんだが、調べてみると、案の定、残された血痕の流れと犯人の足跡がぴたりと一致した。
それにしても、いくら興奮したからといって、あれほどの鼻血が出るとなると相当に多血質な男に違いない。それで私は、犯人はおそらくがっしりとした赤ら顔の男だろうという、やや大胆な意見を持ち出したんだよ。結果的にその推理は当たっていたわけだがね。
家を出ると、私はまず、グレグスンがすべきだった仕事を片付けた。ポルダケス・プリアモスの結婚関係にだけ絞って、クリーヴランド市の警察署長に宛てて照会する電報を打ったんだ。戻ってきた回答は、君にも説明した通り、メネラオス・ヘレネーという昔の恋敵に命を狙われているという理由で警察に保護を求めたことがあり、メネラオスはヨーロッパにいるという。これで事件の鍵は握ったと思ったね。あとは犯人を捕らえるだけだ。
ところで、先ほど辻馬車の御者が事件に関与していると話したが、プリアモスと一緒にあの家に入って行ったのは、その御者に間違いないと睨んでいた。家の小道には二人分の足跡しか残されていなかった。仮に御者ではなかった場合、馬車も客も放ってどこかに行っていたことになるし、裏切る可能性のある第三者が近くにいるのに、犯罪にあれほどたっぷりと時間を掛ける間抜けがいるかい?
最後にもうひとつ、もしロンドンで不審に思われずに誰かを付け狙おうとしたら、辻馬車の御者になるのが一番なんだよ。こうした考察によって、メネラオス・ヘレネーはロンドンで辻馬車の御者をしているに違いないという揺るぎない結論に達したんだ。そして、そのメネラオスが私たちが何度か利用した辻馬車の御者であるということもね」
「それも分かっていたのか?」
「もちろんだとも。あの御者は犯人の特徴と一致していたし、迂闊にも私たちの会話を耳にして動揺していた。それに、彼の辻馬車を引いていた馬の蹄鉄はひとつだけ新しいものだった。十中八九、彼だと思ったよ。思い出してみれば、指輪を受け取りに来た老婆が利用した辻馬車の御者も彼だった。座席の陰に隠れていた相棒の姿が見つからないフリをしたのさ。酔っ払いの真似といい、随分と演技派な男だよ。
とはいえ、いなくなった老婆に気を取られ過ぎて御者に注目していなかったのは失態だった。まあ、あの場で捕まえようとしたところで、相棒が飛び出してきて返り討ちにされていただろうけどね。
それはさておき、当時の私は、彼が犯行後すぐに御者を辞めた、とは考えていなかった。急に辞めたりすればかえって怪しまれると考えて、しばらくはそのまま仕事を続けるだろうからね。また、名前を変えているということも考えられない。本名でさえ知る者のない土地にいるのだから、わざわざ変名にする必要などあるものか。そこで、ただちにあの少年たち、ベイカーストリートイレギュラーズに指示して、ロンドン中の辻馬車屋をしらみ潰しに調べさせ、とうとう目指す男を突き止めたというわけだ。あの子たちがいかに見事に任務をまっとうし、それを私がいかに迅速に活用したかは、君の記憶にも新しいところだろう。
パリスが殺されたのはまったくの予想外だったが、犯人の行動力からして避けられるものでもなかっただろう。ただ、君も見ていた通り、あのお陰で私はプリアモスの犯行に使用された丸薬を手に入れることができた。きっとあるだろうと予想していた通りにね。どうだね、一点の綻びもなく、全てが完璧な論理で繋がっているだろう?」
「素晴らしい!」
私は思わず大声を上げていた。
「感服いたしました! まさか貴方の探偵としての技量がこれほどとは!」
むせた拍子に、煙管を口にしていたホームズの口元から煙が立ち昇った。
「いきなりどうしたんだ、ワトスン君。いきなり敬語を使われるとむず痒いんだが」
「いえいえ、ホームズさんは最上の敬意を送るに相応しい人物です!」
「おぉう。せめて『さん』付けはやめてくれないか。よそよそしくて落ち着かない」
「では、ホームズ。貴方の功績は世間に広く知らせるべきです。是非ともこの事件の記録を公表してください。もし貴方にその気がないのであれば、私が代わりにやりましょう」
「はぁ。好きなようにしたまえ、ワトスン君。だが、その前にこいつを見るといい」
まだ私の敬語に慣れないのか、お尻の辺りをもぞもぞとさせながら、新聞をこちらに寄越した。その新聞は、この日の夕方に出されたばかりの『エコー』紙だった。
「ほら、ここだ」
ホームズが指差した欄には、今回の事件のことがこんな風に書かれていた。
ポルダケス・プリアモス氏およびアレクサンドロス・パリス氏殺害の容疑者、メネラオス・ヘレネーが急死した。高まった世間の関心に水を差す形となり、事件の詳細は闇の中となった。信頼筋の情報によれば、犯行は恋愛問題とモルモン教とが絡んだ古い怨恨によるものだという。被害者はいずれも青年時代にモルモン教徒であり、死亡した容疑者もソルトレーク・シティの出身である。いずれにせよ、今回の事件では我が国の警察の優秀さが見事に証明された点に大きな意義がある。とりわけ外国人に対しては、自分の恨みは自国内で処理する方が易く、英国に持ち込むべきではないという、極めて有益な教訓となるだろう。
今回、これほど迅速に犯人を逮捕できた裏には、スコットランド・ヤードの名立たる敏腕、レストレード、グレグスン両警部の功績があったことは隠す必要もない。犯人はシャルロット・ホームズ氏なる人物の家で逮捕された模様であり、同氏も多少アマチュア探偵としての才能を発揮して捜査に協力したとのこと。優秀な両警部の薫陶の下、あるいは将来その優秀な技能を幾分かは学べるのではあるまいか。なお、今回の功績によって、両警部には近々しかるべき表彰が行われる予定である。
「どうだい、私が初めに言った通りだろう?」
明るく笑ったホームズが、大きな声で皮肉たっぷりに言った。
「我らが緋色の習作の一番の成果は、両警部の表彰ってわけさ!」
「いいえ。ご安心ください」
私は笑みを浮かべて言い返した。
「事件のことは詳しく日誌に付けてありますから、私がその内、世間に公表することとしましょう。それまでは私が、貴方の活躍の全てを記録しておきます。ですから、これからも安心して事件を解決してください」
「やれやれ、とんだ変わり様だな」
日誌の予備を確認すべく立ち上がった私の背中を見送りながら、ホームズがひとりごちる。
「とはいえ、結局メネラオス・ヘレネーの協力者、いや、この事件の『黒幕』については分からずじまいか。まったく―――まだまだ楽しめそうじゃないか」
微笑みを浮かべながら、シャルロット・ホームズはゆっくりと煙管を吹かすのだった。
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