第六章 At the result of revenge

 我々が捕らえた男はもの凄い勢いで抵抗したが、こちらに暴力を振るう意図はなかったようだ。もはや無駄だと観念すると、人なつこい笑顔を見せて「誰にも怪我はなかったか?」とこちらを心配してきた。


「俺を警察へ連行するんでしょう?」


「もちろんだとも」


「なら、表に俺の馬車がある。この足の縄を緩めてくれれば自分で歩いていきますよ。この通り、すっかりと太っちまったから担いで運ぶのも大変でしょう」


 グレグスンとレストレードの両警部は、なんと図々しい申し出かと言わんばかりの表情で互いに顔を見合わせていたが、ホームズは男がこれ以上暴れることはないと確信しているのか、すぐに足首を縛っていたタオルを解いてしまった。


「助かりました」


 そう言って立ち上がると、男は足の具合を確かめるように軽くジャンプした。改めて見ると、立ち上がった男の背丈は今この場にいる誰よりも高く、日に焼けて黒々とした顔には、頑健でたくましい肉体に劣らないほど強い、凄絶なまでの決意と力が漲っていた。


「どっかに警察署長の椅子でも空いていたら、アンタこそ適任だろう」


 男は、私の同居人であり、自称名探偵の少女に真っ直ぐな称賛の目を向けていた。


「この俺を見つけ、あろうことか罠に嵌めて追い詰めた手際と来たら、いやいや、大したもんだ」


 その言葉にまんざらでもない顔をしながら、ホームズは二人の警部に視線を向けた。


「どうせ警察署に行くんだ。君たちも一緒にどうぞ」


「では、私が手綱を取ろう」


 言いながら、レストレード警部が先頭に立って部屋を出ていく。


「それはありがたい。では、グレグスン君と私は中に乗らせてもらおうかな。それから君もだ、ドクター。熱心に見ていたようだからね、一緒に来るといい」


 私は喜んでそれに応じ、残る全員が揃って階段を下りた。捕まった男は逃げようとする素振りも見せずに大人しく自分の馬車に乗り込んだ。全員が乗ったのを確認したレストレード警部が御者台で馬に鞭をくれると、馬車はあっという間に警察署へと到着した。


 両警部の先導で狭い取調室へと通されると、そこで取調官がグレグスン警部の指示に従って、容疑者と殺された被害者の氏名を書き取った。


 それを確認したグレグスン警部が振り返った。


「被疑者は今週中に判事から正式な取り調べを受けることになるが、メネラオス・ヘレネー、その前に何か言っておきたいことはあるか? ただし、お前がこれから話すことについては全て記録され、後で不利な証拠となるかもしれないから、そのつもりで」


「言いたいことは山ほどあります」


 そう言って微笑んだメネラオスがゆっくりと言った。


「ここにいる皆さんには、何もかも話しておきたいんです」


「裁判の時まで待った方がいいんじゃありませんか?」


「それもそうだな。どうせ裁判でまたイチから話すことになる」


 取調官の言葉に頷いたグレグスン警部を見て、メネラオスは首を横に振った。


「俺が裁判にかけられることはないと思うんです。いや、そんなにビックリしないでください。別に自殺なんかするつもりはありませんから。こちらはお医者さんでしたよね?」


 彼は黒い鋭い目を私に向けた。他の面々も何事かとこちらへ視線を寄越す。


「ああ、私は医者だが」


「じゃ、ここんとこに手を当ててみてください」


 薄く笑いながら、メネラオスは指先で自分の胸を叩く。


 首を傾げながら言われた通りにしてみると、彼の心臓は鼓動が異常なほどに激しく、そのリズムも大きく乱れていることがすぐに分かった。胸壁がブルブルと震えて、まるでボロ小屋の中で飛行機のエンジンでも吹かしているようだ。これでは、いつボロ小屋が壊れてもおかしくない。


「これは……大動脈瘤か!」


 身体を走る血管の内、最も太くて長い大動脈の血管が怪我や病気で弱り、血管の一部が風船のように膨らんでコブのようになった状態のことだ。最初は小さくコブでも、次第に大きくなって最後には膨らみ過ぎた風船のように破裂してしまう。死に至る病である。


「そう、そんな病名らしいですね」


 見上げたメネラオスの表情は実に落ち着いたものだった。既に覚悟は出来ているということなのだろう。


「先週、医者に診て貰ったら、そう遠からず破裂すると言われました。数年前からかなり具合が悪かったんですが、山の中で風雨に打たれたことやら、栄養不良やらが祟ったんでしょう。もう目的は果たしたからいつ死んでも構わないんですが、ただ、この事件の経緯だけは話しておきたいんです。ただの人殺しと思われて死にたくはないんでね」


 先が短いことを知った取調官と二人の警部は、身の上話をさせるべきかどうかを急いで話し合い始めた。


「ワトスン先生。容態急変の恐れはあるんでしょうか?」


「きわめて危険な状態ですね。いつ急変してもおかしくない状況です」


 取調官の質問にそう答えると、取調官は警部たちを見た。


「でしたら、公正な裁判のためにも、ここでこの男の供述を取っておくことが我々の義務ということになります」


 水を向けられた二人にも異論はないらしかった。取調官がメネラオスに向き直った。


「では、何でも自由に話してよろしい。ただし、繰り返すが、お前の話したことは全て記録されるからそのつもりで」


「むしろ記録してくれた方がありがたいですよ。それじゃ、座らせてもらいます」


 備え付けの椅子に腰を下ろしたメネラオスが笑う。


「いや、動脈瘤のせいですっかり疲れやすくなってる所にさっきの格闘だ。大分堪えましたよ。棺桶に片足突っ込んでるようなもんですからね、いまさら嘘なんか言ったりしません。これから話すことは全て真実です。まあ、それをどう扱うかは皆さん次第ですが」


 そう前置きして、メネラオス・ヘレネーは椅子に深く身体をもたれさせて供述を始めた。内容の凄絶さとは裏腹に、まるで昨日の夕食の献立でも語るかのような気軽さで、それでいて献立を上から読み上げるような順序正しい話しぶりだった。


 以下の内容は、メネラオスの言葉をそのまま筆記したレストレードの手帳に基づいて記す。なお、筆記の正確さは絶対の保証付きである。


「俺が何故あの二人をあれほど憎んだのか。そんなことは皆さんにはどうでもいいことでしょう。要するに、奴らには二人の人間を――ある父親と娘を――殺した罪があり、その罰として命を落とした。それだけの話です。二十年も前の犯罪ですから、今更どこの法廷に持ち出そうとも、奴らを裁くことはできないものだった。でも、俺はその罪を知っている。だから、裁判官と陪審員と死刑執行人の三役を俺自身が務めることを決心したんです。皆さんに男の誇りがあって、俺と同じ立場に立たされたら、やっぱり同じことをなさったことでしょうよ。


 その殺された娘は、俺と結婚するはずでした。だのにあのプリアモスと無理やり結婚させられて、悲嘆のあまり息絶えたんです。娘の遺体から結婚指輪を抜き取った俺は、プリアモスの今わの際にその指輪を目の前に突き付けて、息を引き取る最後の最後に自らの罪を思い知らせてやろうと誓いました。


 俺は指輪を肌身離さず、ソルトレークを離れたプリアモスとパリスを追い掛けて二つの大陸を渡り歩きました。そして、とうとう捕まえたんです。奴らは逃げ続けていればその内にへこたれて諦めるだろうとでも思っていたんでしょうが、とんでもない。俺は明日にでも死ぬかもしれませんが、これでこの世での自分の仕事をやり遂げた。それも立派にやり遂げたと満足して死んでいけます。もう思い残すことはありませんとも。


 思い返すと、追いかけ続けるのは楽じゃありませんでしたよ。決意はあっても金はありませんでしたからね。奴らはたんまりと金を持っているから気軽に移動するが、こっちは貧乏でしたから、ロンドンに辿り着いた時には財布はほとんど空っぽで、食うためにも職探しをしなくちゃなりませんでした。


幸いにも良い出会いに恵まれたお陰で、すんなりと馬車屋で雇ってもらえました。馬車や馬の扱いならお手のもんですからね。毎週一定額を納める必要はあったんで大した稼ぎにはなりませんでしたが、どうにか食ってはいけました。一番困ったのは、道を覚えることです。このロンドンはとにかく道がややこしくて、覚えるまでに時間が掛かりました。地図を頼りに、なんとか主なホテルと駅を頭に入れてしまえば、随分とやりやすくなりましたがね。


 目指す二人が川の向こうのカンバーウェル地区の下宿屋にいることを聞いた時には喜びに身体が震えましたよ。居所さえ突き止めりゃ、もうこっちのもんだ。俺はひげを生やしていたし、以前よりも太っていましたから、奴らに気付かれる心配はありません。あとはずっと付け回して、チャンスを待てばいいんです。今度こそ絶対に逃がすものかと固く決心しました。


 ですが、奴らもぬかりありません。ひょっとすると付け狙われているかもしれないと感付いたらしく、ひとりでは外出しないし、夜間は絶対に出歩かないんです。二週間ずっと付け回していましたが、その間、二人が別行動を取ることは一度だってありませんでした。プリアモスの奴はいつも酔っぱらっていましたが、パリスの方はなかなか隙を見せません。でも、いよいよ復讐を果たすことができるという予感みたいなものがあって、別段と気落ちはしませんでした。ただひとつ心配だったのは、目的を果たさない内にこの胸が破裂してしまうんじゃないかということでした。


 そして、ある晩のことです。奴らが下宿している通りを馬車で行ったり来たりしていると、一台の馬車が下宿の前に止まりました。間もなく、家から荷物が運び出され、続いてプリアモスとパリスが乗り込むと、馬車はすぐに走り出しました。


 奴らがユーストン駅で馬車を降りたので、俺も近くの係に馬車を預けてプラットホームまで追い掛けました。すると、リヴァプール行きの列車はないかと訊ねるパリスに、車掌がたった今出たばかりだから次は数時間後だと答えているのが聞こえました。


 パリスはひどくがっかりした様子でしたが、プリアモスの方はむしろ喜んでいるようでした。雑踏に紛れて近付くと二人の会話がすっかり聞き取れましたよ。プリアモスが、ちょっと個人的な用事があるからここで待っていてくれ、すぐに戻るから、と言いますと、パリスは絶対に別行動はしないという約束じゃないか、とたしなめました。でもプリアモスは、これはデリケートな用事だから、どうしても自分ひとりで行く、と言い張ります。次のパリスの言葉はよく聞き取れませんでしたが、プリアモスが突然怒りだしました。お前は俺の使用人なんだぞ、主人に指図するとは何事だ、と怒鳴ります。これで秘書は諦めたらしく、もし最終便に間に合わなかったら、ハリデイ・プライベート・ホテルで落ち合おうとだけ約束しました。プリアモスは、十一時までにはきっとホームに戻ると言い残して駅を出ていきました。


 待ちに待った機会がついに来たんです。敵は既に手中にある。二人一緒にいると厄介だけど、ひとりずつならこっちのもんです。それでも俺は軽率にことを急いだりはしませんでした。事前に立てた計画がありましたし、自らの罪をあの悪党どもにたっぷりと思い知らせてやらなければ、復讐の意味がないからです。


 数日前にブリクストン通りにある空き家の鍵の複製を手に入れていましたから、この大都会に少なくとも一か所だけは、誰にも邪魔される心配のない場所があったわけです。だから、プリアモスをその家に連れ込むつもりでした。


 道すがら飲み屋に一、二軒立ち寄って見知らぬ男と楽しげに酒を飲んでいたプリアモスは、出てきた時にはもう足元がふらつくほど酔っていましたが、最後の店を出てきてすぐに、俺の前に止まっていた馬車に乗り込みました。もちろんその後をぴったり追いかけました。まさかとは思っていましたが、驚いたことにプリアモスは、ついさっきまで奴が下宿していたトーキー・テラスに戻ってきたんです。そのまま後を付け、下宿屋から百ヤードほど離れたところに馬車を留めました。プリアモスは下宿屋に入り、辻馬車は走り去りました。 ――あの、すいませんが水を頂けませんか? 話している内に喉がカラカラになってしまって」


 水差しから水を注いだグラスを手渡すと、メネラオスは本当に喉が渇いていたらしく、一気にそれを飲み干して一息ついた。


「これで楽になりました。それから、そこで十五分ほど待っていると、突然、家の中から取っ組み合いでもしているような物音が聞こえてきて、玄関のドアがバッと開くのと同時に二人の男が飛び出してきました。ひとりはプリアモス、もう一人は知らない若い男です。若い男はプリアモスの襟首を掴み上げると、通りに向かって突き飛ばしました。


『この野郎! 純真な妹を侮辱すると承知しないぞ!』


怒り心頭といった具合で叫びながら、若い男は杖のような細長い棒を振り上げました。それはもう大変な剣幕で、プリアモスの奴が泡を喰って逃げ出してなかったら、本気で殴り殺していたでしょうね。プリアモスは通りの角まで逃げてくると、俺の馬車を見つけて慌てて飛び乗りました。『ハリデイ・プライベートホテルまでやってくれ』と言いました。


プリアモスが安心した様子で馬車の椅子に腰を沈めた時、嬉しさのあまり胸が躍り、いよいよという時に動脈瘤が破裂するんじゃないかと心配したほどです。最後の対面をする場である空き家に向かって、心を落ち着かせながらゆっくりと馬車を走らせていると、またしても酒が欲しくなったのか、ちょうど通りかかった酒場の前で馬車を止めろと言ったんです。ここで待て、と言い残して、奴は酒場に入って行きました。結局、酒場が看板を下ろすまで飲み続けていたんですから、奴はもうぐでんぐでんでしたよ。一応、奴を酔わせるために酒を何本か椅子の下に用意しておいたんですがね。ともあれ、いよいよこっちのなすがままです。


 とはいえ、わざわざ残酷な殺し方をするつもりはありませんでした。たとえ残酷な死に方をするとしても当然の報いってやつでしょうが、そこまでする気にはなれませんでした。それどころか、奴が望むなら、生きるチャンスを与えてもいいと、ずっと前から決めていたんです。


 奴らを追いかけながら、俺はそれこそ様々な職に就いたんですが、ある大学の実験室の雑用や掃除をしていたことがあります。その時、毒物に関する講義でアルカロイドという話を耳にしました。なんでも、南アメリカの先住民の毒矢に使われている代物で、ごく微量でも人間を即死させるほどの猛毒だという話です。その毒薬を、掃除の最中にほんのちょっぴり頂戴しました。


 かつての生活で、薬の調合などは何度もやっていましたから、このアルカロイドを混ぜた水溶性の丸薬をいくつか作り、同時に、見分けが付かないくらいそっくりの無毒な丸薬も作って、それぞれをひとつずつ小さな箱に入れておきました。いよいよという時には、奴らにこの箱からどちらか一粒を選ばせ、残った方を自分で飲むことに決めたのです。これなら、ハンカチで包んだリボルバー式拳銃で順番にこめかみを撃ち合うのと同じくらい確実で、しかもずっと静かに済ませることができます。その日以来、その箱をふたつ、肌身離さず持ち歩いていました。そして、ついにそれを使う時が来たのです。


 とうに十二時を過ぎ、そろそろ一時になろうかという頃でした。土砂降りの雨が横殴りに吹き付けてくる気味の悪い夜だったんですが、俺の心中は歓喜に打ち震えていました。あまりの嬉しさに大声で叫びたくなる気持ちを抑えるのが大変でした。もし皆さんの中に、この世でたったひとつのことを二十年もの間ただひたすらに願い、それがとうとう手中に転がり込んだという経験をお持ちの方がいましたら、あの時の私が味わった気持ちを分かってもらえるでしょう。


 気を鎮めようとして、愛飲しているトリチノポリ葉巻に火を付けてゆっくりと吹かしました。けれど、あんまりにも興奮していたせいで手はブルブルと震え、笑いを堪えた頬がぴくぴくと引きつっていました。


 馬車を走らせている間、あのテュンダレオスとマティルダが、隣に座って俺に笑いかけてくれていました。こうして今ここで皆さんの顔を見ているようにはっきりと見えたんです。二人は道の先を指差します。その先にあるのはブリクストン通りの空き家です。


 空き家に到着すると、テュンダレオスは俺の肩を叩き、マティルダは優しく額に口づけをしてくれました。俺にはそれがまるで祝福のように感じました。


 通りには人影がなく、降りしきる雨の音以外は物音ひとつ聞こえませんでした。馬車の窓から中を覗くと、プリアモスはぐったりと酔い潰れて眠りこけています。俺は奴の腕を揺さぶりました。


『さあ、着きましたよ』


『ああ、分かった』


 多分、自分が告げたホテルに着いたと思ったんでしょう。黙って馬車を降りたんですが、まだ足元が覚束ないので、脇から支えてやらなけりゃなりませんでした。玄関の扉を開けて正面の部屋に連れ込むまで、ずっとあの親子は私の前を歩いて先導してくれていました。本当です。


『いやに暗いな』


『すぐに明るくなる』


 マッチを擦り、持ってきたロウソクに火を付けた俺は振り返って言いました。


『やあ、ポルダケス・プリアモス! 俺が誰だか分かるか!』


 ロウソクの明かりで照らした俺の顔を見たプリアモスでしたが、しばらくは虚ろな目でこちらを見ていました。ですが、突然、目に恐怖の色を浮かべると、口を魚のようにパクパクとさせ始めました。俺が何者か気付いたんです。真っ青になってよろよろと後ずさると、顔に冷や汗を噴出させながら歯をガチガチとやっていました。


 俺はゆっくりとドアにもたれかかりながら、心ゆくまで笑ってやりましたよ! 復讐してやったらさぞかしすっとするだろうとは思っていましたが、まさかこれほどまでの快感を味わえるとは思ってもいませんでした。


『この極悪人め! ソルトレークからペテルブルクまで追い掛けたが、いつも逃げられていた。だがな、ついに貴様の逃亡生活もおしまいだ。貴様か俺か、明日の太陽を拝めるのはどちらか一方だけだ!』


 俺の話を聞きながらも、プリアモスはさらにあとずさりしていき、頭のおかしい男でも見るような目つきで俺を見ていました。まあ、確かにあの時の俺は気も狂わんばかりでした。こめかみがハンマーで殴られているようにガンガン脈打っていましたし、いつの間にかボタボタと鼻血が床にしたたり落ちていました。あの時、もし鼻血が噴き出していなかったら、きっと発作を起こしてぶっ倒れていたことでしょう。これも二人の加護のお陰です。


『貴様、今、マティルダのことをどう思っている?』


 俺はドアに鍵を掛け、一歩ずつ奴に近付いていきました。


『天罰が下るのが少々遅れたが、とうとう捕まったな』


 そう言うと、目の前の意気地なしは背中をぴったりと壁にくっつけたまま、青くなった唇をブルブルと震わせました。もはや命乞いも無駄だと分かっていたのでしょう。


『ひ、人を殺す気か?』


『人殺しなどするつもりはないとも』


 笑みを浮かべながら、さらに一歩プリアモスに近付くと、奴は安心したようにだらしなく頬を緩めました。


『狂犬を殺したところで人殺しにはならないさ! 父親を殺して娘を無理矢理連れ去り、あのおぞましいハーレムに押し込めておきながら、貴様は一度でもマティルダを可哀想に思ったことがあるのか? このケダモノめ!』


『父親を殺したのは俺じゃない!』


『あの子の純真な心を引き裂いたのは貴様だ!』


 知らず拳が壁を殴り付けていました。叩き付けるように言い捨てた俺は、あの箱を奴の目の前に突き付けました。


『さあ、神の裁きを受けろ。どちらかを飲め。ひとつには死、ひとつには生が待っている。残った方を俺が飲もう。この世に正義があるか、それとも運だけの世界なのか、これではっきりするぞ』


 狂ったように笑う私を見て萎縮しきったプリアモスは、この期に及んで泣き喚いて命乞いをしましたが、胸倉を掴み上げて箱を顔に押し付けると、震える指で一粒を摘まみ、そのまま口に放り込みました。手を放した私も残った方を飲み、一分ほど無言で睨み合ったまま、どちらが助かり、どちらが死ぬか、決着を待ちました。


 最初の激痛が訪れ、毒を飲んだのが自分だったと知った時のアイツの顔を、俺は死ぬまで忘れませんよ。俺は高笑いしながら、かねてからの念願通り、マティルダの結婚指輪を奴の目の前に突き付けてやりました。ただ、アルカロイドの効き目が思った以上だったので、それもほんの数瞬のことでしたが。


 襲ってくる激痛に顔を歪め、両手で空を掴みながら二、三歩よろよろと歩いたかと思うと、掠れたうめき声を上げてそのままドサリと床に倒れました。俺は足でその身体を仰向けにし、胸に手を当ててみました。心臓が動いていない。ついに死んだんです!


 その間もずっと俺の鼻からは血が流れていましたが、まるで気になりませんでした。そして、次の標的であるパリスを殺すための時間稼ぎとして、計画の通り、壁に『RACHE』という文字を書きました。妙にうきうきした気分になっていたせいか、持参したインク壺ではなく、自分の鼻血を使ってしまいましたけどね。


 昔ニューヨークでドイツ人が殺された事件があって、死体の上に『RACHE』という文字が書かれていたものだから、これは秘密結社の仕業に違いないと当時の新聞が大騒ぎしたそうで、ニューヨークの人間が惑わされたなら、ロンドンの人間だって騙されるだろうと思いました。


 それから悠々と馬車へ戻りましたが、相変わらず辺りには人影もなく土砂降りの雨ともの凄い風でした。馬車を走らせてからしばらくして、いつもマティルダの結婚指輪を入れていたポケットにふと手を入れますと、なんと指輪がありません。ぎょっとしましたよ。今となっては、あの娘の唯一の形見だというのに。もしかしたら、あの家で落としたのかもしれないと思って、すぐ引き返しました。あの指輪を失うくらいならどんな危険でも飛び込むつもりでした。ところが、門の所でちょうど中から出てきた警官にばったり鉢合わせた。咄嗟にぐでんぐでんの酔っ払いのフリをして、どうにか怪しまれずに済みました。


 ポルダケス・プリアモスの最期はそのようなものでした。残る仕事はただひとつ、パリスにも同じようにして、ゼース・テュンダレオスの恨みを晴らすことです。


 あいつはハリデイ・プライベートホテルにいると分かっていましたから、その日の間ずっと見張っていましたが、一向に出て来ませんでした。プリアモスが姿を見せないので何かあったと感付いたのかもしれません。何しろパリスという男は実に悪賢く油断のない奴でしたから。だが、部屋に引きこもっていれば安全だと思ったら大間違いだ。


 俺はすぐにあいつの寝室の窓がどこなのかを訊ね、翌朝早く、陽の昇る前に、ホテルの裏の小道にあるはしごを使って忍び込みました。そしてあいつを叩き起こし、ずっと昔に犯した人殺しの罪を償う時が来たことを告げました。プリアモスの最期の様子を聞かせ、同じように丸薬を一粒飲むように迫りました。


 ところが、あいつは折角与えてやった助かるチャンスを掴もうとはせずに、いきなりベッドから俺の喉元を掴もうと飛び掛かってきた。やむを得ず、自分の身を守るためにあいつの心臓を突き刺しました。ですが、どちらにせよ同じことだったと思いますよ。神が、罪に汚れたあいつの手に必ずや毒を取らせたに違いないんだから」


 二度に渡る殺人の経緯を一気に語り終えたメネラオスが一息吐いた。コップに水を注いでやると、再び喉を潤してからその場の皆を見回した。


「これでもう話すことはありません。もう疲れ果てていますから、ちょうどいい頃合いです。パリスを殺してから一日、二日は、不審がられないようにするためと、アメリカへ帰る旅費を稼ぐために御者の仕事を続けていました。すると今日、御者だまりで休憩している所へ、身なりの薄汚れた子供がやってきて、メネラオス・ヘレネーという御者をベイカーy221のお客さんがお呼びだと言います。やるべきことも済んでいましたし、そこの住人とは何度か顔を合わせてもいたので、別に怪しみもせずに出向いたんですが、気が付いた時には、この若いご婦人に手錠を掛けられていたというわけです。まったく見事な早業でしたよ。


 さて、これで俺の話は本当に終わりです。皆さんはただの人殺しだとお思いでしょうが、俺はあくまでも自分を皆さんと同じ正義の担い手であると考えているんですよ」


 男の話はスリル満点で、身振り手振りも交えた話しぶりは堂に入っていたので、私たちは息を殺してじっと聞き入っていた。犯罪話など聞き飽きているであろう本職の刑事たちまでが、この犯罪者の話には非常に興味をそそられたようだった。話が終わり、しばらくは誰も口を開こうとはしなかった。


 そんな中、目を瞑ったまま彼の話に聞き入っていたホームズが口を開いた。


「ひとつだけ訊きたいことがあるんだが、いいかな?」


「なんでしょう」


「私が出した新聞広告を見て指輪を取りに来た、あの協力者は何者だね?」


 一瞬驚いたような顔をしたメネラオスは、ふいにおどけた表情でホームズにウインクした。


「自分の秘密でしたら何でも話しますがね、恩人に迷惑は掛けたくありません。あの広告を見た時は、罠だろうか、本当に指輪を拾ったんだろうかとひどく悩みましたよ。そこへ彼が、確かめてきてやると言ってくれたんです。どうです。あの男、なかなか上手くやったでしょう?」


「いや、見事だったよ。君の演技もなかなかのものだったとも」


 そう心からの称賛を口にしたホームズは良いものを見たとばかりに笑い声を上げた。


「では、皆さん」


 取調官が咳払いをして言った。


「法の手続きには従わねばなりません。木曜日に判事の取り調べがありますが、その時は皆さんにもご出席願うことになるでしょう。それまでは、本官が責任を持ってこの男の身柄を預かります」


 そう言って、手元のベルを鳴らすと、二人の看守が現れてメネラオス・ヘレネーを牢へと連れていった。ホームズと私も警察を後にして、彼のものとは別の辻馬車でベイカー街へと帰ったのだった。

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