第五章 Death and Ending of the Past

 レストレード警部が出し抜けに伝えたニュースはあまりに重大かつ意外なもので、私たち三人はしばし口も聞けなかった。グレグスン警部などは茫然自失と立ち尽くしている。


 無言のままホームズを見ると、彼女は固く唇を閉じ、目に覆い被さるほどにぎゅっと眉を寄せて低い声で呟いた。


「パリスもか!」


 沈痛な面持ちから察するに、パリス氏が狙われていたことは承知していたらしく、それを防げなかったことを悔やんでいるように見える。


「いよいよ込み入ってきたようだ」


「とっくに込み入ってましたよ」


 レストレードは手近な椅子を引きながら、ひどく疲れた様子で続けた。


「どうやら私は作戦会議の最中にでも飛び込んでしまったようですね」


 ようやっと自失から立ち直ったグレグスン警部が口ごもりながら言った。


「き、君、つまりその、君のその情報は確かなんだろうね?」


「私はたった今までパリスが殺された部屋にいたんだ。しかも、この私が死体の第一発見者なんだよ」


 再び口をあんぐりと開けたまま固まってしまったグレグスン警部を押し退けて、ホームズが口を挟んだ。


「実は今、この事件についてグレグスン君の、それはそれは素晴らしい! 意見を拝聴していたところなんだが、今度は君の捜査内容を聞かせてくれないか?」


「ええ、もちろんですとも」


 ゆっくりと椅子に腰掛けると、警部は訥々と死体発見に至る経緯を語り始めた。


「正直言って私は、パリスがプリアモス殺しの犯人だとばかり思っていました。まあ、それもこの新たな展開で完全に間違っていたと分かりましたがね。とにかく最初はそう思い込んで、必死で秘書の行方を追いました。この二人は三日の夜八時半ごろにユーストン駅で一緒にいるところを目撃されています。そして真夜中の午前二時に、プリアモスはブリクストン通りで死体となって発見されました。


 そこで問題となるのが、夜八時半から犯行時刻までの間、パリスはどこで何をしていたか、そして犯行後どこへ消えたかということです。まずリヴァプールに電報を打って、パリスの人相を知らせ、アメリカ行きの船を十分警戒するよう依頼しました。それから自分は、ユーストン駅近くのホテルと下宿屋をしらみつぶしに調べて回りました。これはもちろん、もし何かの都合で二人が別れたのだとすれば、パリスは当然その晩は近くに宿をとって、翌朝また駅で主人を待つだろうと考えたからです」


「そういう場合は、あらかじめ落ち合う場所を決めておくんじゃないかな」


「いや、まったくホームズさんの言う通りです。夕べは散々歩き回って無駄足でした。今朝も早くから調べ始め、八時にリトル・ジョージ街のハリデイ・プライベート・ホテルに行きました。パリスという客はいないかと訊くと、「いる」という答えがすぐに返ってきました。


『では、パリスさんがお待ちしてらした方ですね。もう二日もお待ちでございますよ』


と、こうでしたよ。


『今どちらに?』


『まだ、お部屋でおやすみでございます。九時に起こすように言いつかっております』


『じゃあ、すぐに会ってこよう』


 不意を襲えば、相手はびっくりして何か不用意なことを口走るかもしれないと思ったのです。雑用係ブーツ――ホテルの雑用一般を行う使用人で、主な仕事は客の靴を磨くこと――が案内を申し出てくれました。部屋はホテルの三階で、狭い廊下が続いていました。雑用係の案内で部屋の前まで辿り着いた時、私はあるものを目にして、この道二十年というのに不覚にも吐き気を催してしまいました。ドアの下からどろっとした赤黒い血がひと筋、くねるように流れ出て廊下を横切り、反対側の壁下に小さな血の池が出来ているんです」


 その光景を思い出したのか、レストレード警部は青い顔をして、嫌な記憶を振り払うように頭を振ってから続ける。


「私の叫び声に振り返った雑用係も、それを見て卒倒しそうになっていましたよ。内側から鍵の掛かっていたドアを体当たりで押し破ると、部屋の窓が大きく開け放たれ、窓際に寝巻き姿の男が身体を丸めて倒れていました。完全に事切れていて、しかも手足が硬直して冷たくなっているところを見ると、死後数時間は経っているようでした。死体を仰向けにすると、雑用係はひと目で彼がアレクサンドロス・パリスと名乗ってこの部屋に泊まっていた人物に間違いないと認めました。死因は左胸部の深い刺し傷で、心臓まで達していると思われました。ところがです。そこからが実に奇怪なところなんです」


 レストレード警部はこちらを窺うような目つきで見上げながら、一呼吸おいて問い掛けてきた。


「死体の上に何があったと思います?」


 背筋を悪寒が走るような話だった。余人ならば恐怖におののくような冷たい空気が辺りを包み込んでいた。


 だが、ホームズは実にあっけらかんとした様子で言った。


「赤い血でRACHEと書いてあったのでしょう?」


「その通りです」


 驚いたように目を瞬かせ、短く言ったレストレードの眼差しは、尊敬あるいは畏敬に類するそれだった。一同はしばし沈黙した。


 この姿なき殺人者の犯行には、何やらひどく計画的でありながらも、所々で感情的になっているような、不可解なところがあり、それゆえに事件はますます不気味さを増していた。


 レストレード警部がさらに続けた。


「ただ、牛乳配達の少年が犯人らしき男を見かけていました。搾乳場へ向かう途中、ホテル裏の厩から続く小道を歩いていると、いつもは横に倒して置かれている梯子が、三階の窓にひとつ立て掛けられていて、窓が大きく開いているのに気付いたそうです。通り過ぎてから振り返ってみると、男がその梯子を下りてくる。しかし、あまりにも落ち着いて大っぴらに下りてくるもんだから、雇われた大工か指物師だろうと、格別気にも留めなかったそうです。記憶に残っていた印象としては、その男は背が高く赤ら顔で、茶色っぽい長いコートを着ていたのではないか、と。


 男は犯行後しばらく部屋にいたらしく、おそらく手を洗ったのか、洗面器の水が血に染まっていて、シーツには丹念にナイフを拭った跡がありました」


 男がホームズの言っていた犯人像とぴったり重なるので、私は横目に彼女の顔を盗み見た。しかし、嬉しそうな気配も満足そうな様子も見られない。それどころか、顎に手を当てて、まだ何かを考えている様子だった。


 ふいにホームズが口を開いた。


「部屋には、犯人の手掛かりになりそうなものは何もなかったのかな?」


「ありませんでした。パリスのポケットからプリアモスの財布が出てきましたが、支払いは全て彼がしていたんですから、別に不思議はない。財布には八十ポンドあまり入っていて、何か盗られた形跡はありません。被害者のポケットから出てきた書類やメモの類は、短文の電報が一通だけでした。一か月ほど前に発信されたもので、電文の内容は『M・Hはヨーロッパにいる』というものです。差出人の名前はありませんでした」


「他には何も?」


 何か思い当たる節でもあるのだろうか。ホームズがしつこく食い下がる。


「めぼしいものはそれだけです。おそらくはパリスが寝る前に読んでいたらしい小説がベッドの上に転がっていて、死体の傍の椅子には彼のパイプがありました。それから、テーブルの上に水の入ったコップがひとつ、窓敷居の上に経木の小箱があって、丸薬が二粒入っていました」


 その瞬間、ホームズが歓声と共に飛び上がった。


「ようやく最後の環が見つかった! これで万事解決だ!」


 勝ち誇った声だった。二人の警部は突然嬉しそうにスキップで部屋をぐるぐると回り出した彼女の顔を唖然として見つめている。視線に気付いた彼女は自信に満ちた声で言う。


「随分ともつれた糸だったが、これで、そのもつれも綺麗に解けた。もちろん、細かい点はこれから突き詰めなくてはならないが、大筋は完全に掴んだよ。プリアモスが駅でパリスと別れてから、パリスの死体が発見されるまでの出来事が、この目で見てきたようにはっきりした。その証拠をお目に掛けよう。レストレード君、その丸薬は押収したろうね?」」


「ここにありますよ」


 そう言って、レストレード警部は懐から白い小箱を取り出した。


「こいつと財布と電報を、署の安全な場所に保管するつもりだったんですが、この丸薬を持ってきたのはほんのついでです。こんなものに重要な意味があるとは思えませんね」


「それをこちらへ」


 警部から小箱を受け取ったホームズが、私の方を向いた。


「さあ、ワトスン君。これは普通の丸薬だろうか?」


 開かれた小箱に収められている丸薬をまじまじと観察するが、確かに彼女の言う通り、普通の丸薬ではなかった。真珠のような灰色の小さな丸い粒で、手に取って光にかざしてみると透き通るような透明感があった。


「軽くて透明なところを見ると、水溶性があるようだ」


「その通りだ。すまないが、下へ行って、あの可哀想なテリヤを連れてきてくれないか、随分前から病気で、昨日も下宿の女将が早く楽にしてやってくれないかと言っていたね」


 私はすぐさま階下へ行き、女将に事情を説明して犬を抱いて戻ってきた。苦しそうな呼吸や濁り切った目を見るに、もう長くはなさそうだ。それに、雪のように白くなった鼻づらが、犬としての寿命を既に超えていることを物語っている。私は敷物の上に柔らかいクッションを置き、そこに優しく犬を下ろした。


「さて、この丸薬を半分に割り―――」


 ホームズは小刀を取り出して、ふたつある丸薬の内、ひとつを半分に割った。


「半分はあとのために箱に仕舞っておこう。残りの半分を、このスプーン一杯ほどの水の入ったワイングラスの中へ。ご覧ください! 我が友ワトスン博士の指摘通り、みるみる溶けてゆく!」


 レストレード警部は自分がからかわれているとでも思ったのか、むっとして言った。


「確かに面白い実験かもしれませんが、これと事件と一体どういう関係があるんですかね」


「まあまあ、そう焦らずに。レストレード君、大いに関係があることが分かりますよ。では、これに牛乳を少々加えて飲みやすくします」


 そう言いながら、彼はワイングラスの中身を受け皿に入れて、テリヤの鼻先に置いた。犬はたちまち綺麗に舐めてしまった。


 ホームズの態度があまりにも大っぴらだったので、二人の警部は何か驚くべき変化が起きるものと期待して、息を殺して犬を見守っていたが、一向に何も起きない。テリヤは相変わらず苦しそうな様子でぐったりとしていたが、丸薬を飲んだために容態が良くなったとか、逆に悪くなったとも言えなかった。


 ホームズはポケットから時計を取り出してじっと見つめていたが、数分が経過しても何の変化も現れないので、いかにも悔しそうな表情でぎゅっと唇を噛み、必死で頭を回転させているようだった。あまりにも普段の様子とは異なる姿に私は心から同情し、失望も感じていたが、二人の警部は彼女の苦境を面白がっているように嘲笑を浮かべていた。


「偶然の一致だなんて、そんな馬鹿なことがあるか!」


 とうとう限界を超えたホームズが叫んで、テーブルの上にある砂糖の瓶を引っ掴んで、中の角砂糖を全て口の中に流し込んだ。そして、それをぼりぼりと噛み砕きながら、何事かをブツブツと呟いている。


「プリアモスが殺された時、私は毒物が使われたと確信した。そしてその通りの丸薬が、現にパリスの死体の傍で発見されたんだ。ふたつの内、どちらも使われた様子はなかった。なのに、この丸薬には何の毒性も無いというのか? 私の推理が間違っていた? いや、断じてそんなはずは―――待て、ふたつの丸薬? いや、そうか。分かった。分かったぞ!」


 ホームズは狂おしい歓声を上げながら、飛び掛かるようにして小箱を掴み、もうひとつの丸薬を先ほどと同じように半分に割り、水に溶かして牛乳を加え、テリヤの鼻先に置いた。可哀想な病犬は、その全てを舐め取った途端、手足を激しく痙攣させ、まるで雷にでも打たれたかのように全身を硬直させて絶命した。


 その様子を固唾を飲んで見守っていたホームズは、大きく息を吐いて、ゆっくりと額の汗を拭った。


「自分の推理に、もっと自信を持たなくてはな。ある事実が、これまで辿ってきた推理と矛盾するなら、必ず別の角度から考えることができるということに、とっくに気付いているべきだった。あの小箱のふたつの丸薬は、ひとつは猛毒で、もうひとつはまったく無害だった。そんなことくらい、箱を見る前に分かっているべきだった」


 最後の言葉には流石の私もびっくりして、ただの見栄っ張りなのではないかと疑いたくなるほどだった。しかし、現に犬は死んで、ホームズの推理の正しさを証明していたし、確かに、彼女の頭の中では、この事実に気付くタイミングというのが以前にもあったのだろう。


 ついに、事件の真相が明らかとなるのだ。




 ◆◆◆◆◇◆◆◆◆




 三人は曲がりくねった細道を抜け、岩だらけの山道を越え、夜通し馬を走らせ続けた。道に迷うこともあったが、山の地理に詳しいメネラオスのお陰でなんとか切り抜けることができた。夜が明けた時、彼らは眼前の光景に呼吸することすら忘れて立ち尽くした。


 三人を取り囲むように高くそそり立つ峰々は、その山肌を白く染め、雪が夜明けの光を反射して神々しく峰を輝かせている。そんな神秘的な風景とは裏腹に、彼らの前に伸びる道は左右を寒気のするような断崖絶壁に囲まれた谷底だった。その谷間を見た後では、神々しく思えた峰々さえ、三人を威圧し、死へと誘う無慈悲な神のようにさえ思えてくる。


 峰々の隙間から見える地平線に太陽が完全に姿を現した頃、ようやく彼らは谷間の入り口へと辿り着いた。左右の断崖は遥か頭上まで続き、絶壁に頼りなくぶら下がった松の木が、風のひと吹きで頭上に落ちてくるのではとさえ思える。それが杞憂ではないことを、谷底に転がる樹木や大きな岩石が物語っていた。


 畏れに息を呑む親子に対して、メネラオスは容赦がなかった。


「行こう。もう奴らも追跡を始めた頃だ。急がなければ何もかもが水の泡なんだ。無事にカースン・シティに辿り着きさえすれば、あとは一生ゆっくりしていたっていいんですから」


 小休憩を挟みながらも、丸一日、谷間の細道を黙々と進み、夜になると身を隠すようにして岩陰に潜り込み、身体を寄せ合って暖を取りながら束の間の休息をむさぼった。そして、また夜も明けない内から逃亡を続けるのだ。


「もう大丈夫なんじゃないか?」


 そう口にしたのはテュンダレオスだった。


 逃亡から二日目、昨日の早朝の時点で追手が掛かっているのは確実だが、未だその気配すら感じられず、伸びる魔の手に怯えつつも、こうして逃げおおせているのだ。窮地にメネラオスが現れたことで希望を抱いている彼が、もう逃げおおせたのでは、と楽観するのも無理はない。


「いや、カースン・シティに辿り着くまでは油断できない」


 そう戒めるものの、メネラオス自身もまた、無謀にも敵に回した組織の魔の手からようやく逃れたかと、安堵する気持ちが沸いていた。その魔手がどれほど速く、どれほど遠くまで伸びるのかを知らずに。


 その日の昼頃、なけなしの食糧が早くも底を尽いてきた。だが、猟師であるメネラオスからすれば、それは窮地ではない。山には食糧になる獲物がいる。周囲を断崖絶壁で囲まれているとはいえ、脇道に入れば次第に景色は変わるだろうし、これまでにもよくライフル銃ひとつで飢えを凌いできた経験があるからだ。


 しかし、峰から流れてくる寒気は、山に慣れていない親子の体力を随分と奪っていた。まず、メネラオスは岩陰に枯れ枝を集めて火を焚き、三頭の馬をしっかりと岩場に繋いだ。


「二人は休んでいてください。俺が獲物を取ってきます」


「気を付けて」


 心配そうな顔で見上げるマティルダを抱き締めてから、彼はライフル銃を担いで獲物を探しに出かけた。


 谷から谷へ、二、三時間ばかり獲物を探して歩き続けたメネラオスは、ようやく見つけた獲物――ロッキー羊と呼ばれる大きな角のある動物――を危なげなく仕留め、流石に全部は運べないからと、その片腿と脇腹の一部を切り取って袋に詰めた。多少時間は掛かったものの、無事に食糧を手にしたことで、メネラオスの顔は喜びに満ちていた。追手の気配がまるで無いことも彼の心を晴れやかなものとしていたのだ。ところが、夢中で獲物を探し回る内に、いつの間にか見知らぬ谷間にさ迷い込んだらしく、帰り道がなかなか見つからない。


 入り込んでしまった谷間は細い道がいくつも分岐しており、そのどれもが同じような風景でさっぱり見分けがつかない。目星をつけた峡谷を何度辿っても、一マイルばかりで全く見覚えのないところに行き着いてしまうのだ。


 そうして、ようやっと見慣れた谷間に出た時には、すっかり辺りは暗くなっていた。両側にそそり立つ絶壁が濃い影を落としているせいで、その先を迷わず進むことさえ困難だったし、肩に担いだ荷物もずっしりと重く、身体はへとへとだったが、一歩ずつマティルダのもとに近づいていることを実感するだけで、メネラオスの身体は止まることなく前へ進み続けることができた。


 ようやく親子を残してきた谷の入り口に辿り着いた頃には、もう出掛けてから五時間近くが経っていた。さぞかし心配して待っているだろうと、両手を口に当てて谷間に木霊するほどの大声で呼んだ。


「おーい! 食糧を取ってきたぞ!」


 すぐに嬉しそうな返事が返って来ると思い、耳を澄ましてじっと返事を待つ。


 だが、一向に応答はなく、ただ自分の呼び声だけが遠く木霊となって不気味な沈黙をかき乱すだけだった。


「おーい! マティルダ! テュンダレオスさん!」


 もう一度、さらに大きな声を張り上げるが、つい先ほど別れたばかりの親子の声は、そのささやきすらも聞こえてこない。


 言葉にならない不安と恐怖に襲われた彼は、入手したばかりの食糧すら放り投げて、死に物狂いで駆け出した。疲れなど忘れ、ただひたすらに急いだ。


 岩の角を曲がると、すぐに焚き火の明かりが視界に入り、メネラオスは頬を緩めた。


「なんだ、いるじゃないか」


 だが、彼の言葉は最後まで続かなかった。


 そこには何もない。


 焚き火だけが赤々と燃えているものの、辺りはしんと静まり返り、周りには生き物の気配がまるでなかった。馬も、老人も、娘も、何もかもが綺麗さっぱり姿を消していた。


「そんな―――」


 メネラオスは頭を鈍器で殴られでもしたかのような目眩を感じて、その場に崩れ落ちた。だが、彼は生まれつき行動を止めない男だ、束の間の茫然自失からハッと立ち直った彼の目に馬の蹄鉄の跡が映る。


 焚き火の中から取り出した燃えさしの枝で辺りを照らすと、地面にはおびただしい数の蹄の跡が残っていた。相当数の騎馬団が二人に襲い掛かったことは明白である。そして、その足跡の向きからして、一団がソルトレークシティへ引き返したことも間違いなかった。


「二人とも連れ去られたのか!」


 くそっ! と自身の迂闊さを吐き捨てて地面を蹴り付ける。どれだけ後悔してもし足りない。その時、蹴り飛ばした小石が何かにぶつかった。不思議に思って見ると、焚き火から少し離れたところに小さな赤土の山ができている。どうやら、その中央に突き立てられた木の板にぶつかっただけのようだ。


 いや、待て、昼間はそんなもの無かったはずだ。


「あ――――」


 燃えさしの枝を向けたメネラオスの全身を戦慄が貫いた。


 盛り上がった土に突き立てられた木の板。それは誰がどう見ても簡素な墓だった。だが、その墓は、例えるならば道端で死んでいた野生動物を何となく埋葬した程度の煩雑さで作られていた。仮にこれが人間のために作られたものであれば、そこには間違いなく悪意がある。


 突き立てられた板の先端には裂け目があり、そこには紙切れが挟んであった。その紙には、素っ気ない文字で、こう書かれていた。




 ゼース・テュンダレオス


 元ソルトレーク市民


 一八六〇年八月四日没




「そんな……嘘だ……」


 まさか、まさかだ。ついさっき別れたあの不屈の老人が死んでしまったというのか。その上、この紙切れ一枚が墓碑銘だとでも言うつもりか!


 ハッとひとつの可能性に思い当たり、衝撃の連続で強く鼓動を繰り返す心臓を掴むようにして胸元を握り締めながら、狂ったように辺り見回す。だが、どれだけ調べても、もうひとつ墓があるようなことはなかった。


 安堵の息を漏らすが、それは同時にマティルダが意地汚い男のハーレムの一員となってしまうことを意味していた。今は亡き老人が最も忌み嫌っていた運命だ。メネラオスはその運命を防ぐことができなかった己の無力さに膝を突いた。もはや、悲しみと無力感のままに、このまま老農場主の傍らで永遠の眠りに就きたいと思いもした。


 だがまたも、彼本来のたくましい行動の精神が彼の頬を殴りつける。そして、怒りが悲しみを上回り、絶望や無力感すらもねじ伏せた。もう二人のためにできることはなかったとしても、残りの生涯すべてを復讐に捧げることはできる。


 このメネラオスという男は、先住民としての生活を通して身に付いたものなのか、極めて執念深い復讐心の持ち主だった。


 先ほど放り出した獲物を回収してから焚き火の前に座り込み、火で炙った肉を、顔面蒼白の凄まじい形相で噛みちぎる。その瞳は煌々と燃え上がり、不屈の意志と人生とを、『復讐』というただひとつの目的に捧げることを強く決意していた。




 ◆◆◆◆◇◆◆◆◆




「どうやら、諸君には納得がいかないようだね」


 ホームズの言葉を肯定するように、グレグスンとレストレードの両警部は不審げな目を彼女へと向けている。その瞳は、真実に辿り着いたという彼女の言が信じられないと、言外に語っていた。


 両警部の様子に、やれやれと肩をすくめてホームズが続ける。


「それはつまり、そもそもの出発点で、目の前に転がっている極めて重要な手掛かりを見落としているからだ。幸い、私はそれを見逃さなかった。単に奇妙に見えるだけのことと、本当の謎とを混同してはいけないよ。最も平凡な犯罪が、最も謎めいて見えることはよくある。


 つまり、ごくありふれた犯罪には、推理の糸口となるような際立った珍しい特徴がないからだ。今度の事件にしても、もしあのような異常な状況やセンセーショナルな付属物もなく、ただ路上に死体が転がっているだけだったなら、解決は遥かに困難だったろう。ああいう奇妙な状況や付属物が、事件を面倒にするどころか、かえって解決を助けてくれたのさ」


 この長広舌をかなりイライラとした様子で聞いていたグレグスン警部がとうとう我慢できなくなった。


「ねえ、ホームズさん。貴方が頭脳明晰で、独特の推理法をお持ちなのは我々だって重々承知しています。しかし、今聞きたいのは、貴方の理論でも推理法でも、ましてやお説教じゃありません。犯人が誰なのか、ということです。


 私たちも私たちなりにやってみましたが、どうやら間違っていたらしい。シャルパンティエ青年はもちろん、レストレード君の追っていたパリスも犯人ではなかった。貴方は先ほどから思わせぶりなヒントをちらつかせていらっしゃいますし、そろそろ、貴方がどこまで真相をご存知なのか、単刀直入にお尋ねしてもいい頃じゃないですかね。ずばり、犯人の名前は何です?」


 レストレード警部もそれに乗って口を出した。


「いや、グレグスン君の言う通り。我々は二人ともできる限りのことはやってみましたが失敗でした。先ほどから伺ってますと、どうやら必要な証拠を既にすべて掴んでいるようだ。もうそろそろ、私たちにご教示くださってもいいんじゃないですか?」


 二人から詰め寄られても、ホームズの口は重かった。まだ何か考え込んでいるらしく、考え事をしている時の癖で、腕を組むようにしながら片手で口元を覆うようにしたまま部屋の中をうろうろしている。


 やがて、ふいに足を止めて私の方へ顔を向けた。しかし、彼女は口を閉ざしたまま、こちらをじっと見つめている。私にも意見を求めているのかと思ったので、思ったことをそのまま口にした。


「犯人の逮捕が遅れると、また新たな犯行を重ねることになるんじゃないか?」


「む?」


 単純に考え事をしていただけらしく、私の質問で我に返ったホームズが一瞬だけ考えて答えた。


「いや、ワトスン君の危惧するようなことにはならないさ。その心配はまったくないと断言してもいい。犯人の名前が分かるか、という質問だったが、犯人の名前が分かっていて、犯行の理由も分かっているから断言できるんだよ。まあ、犯人を逮捕する難しさに比べれば、これぐらいのことは簡単なことだ。そして、その犯人逮捕も間もなくだよ。私の手はず通り行きさえすれば、まず大丈夫さ」


 ただ、とホームズは眉根を寄せて何かを耐えるような表情で続ける。


「慎重に事を運ばなくては。何しろ相手はひどく抜け目のない向こう見ずな奴だし、しかも、そいつよりも利口な奴が味方に付いているんだ。犯人が油断している内ならチャンスもあるが、少しでも警戒心を起こさせると、この大都市ロンドンに住まう四百万人もの中へ、たちまち姿を眩ましてしまうだろうからね。


 お二人の気持ちを傷付けるつもりはさらさらないが、この連中はとても警察の手には負えない。そう思ったからこそ、あえて応援も求めなかったんだ。もちろん、これで失敗すれば責任のすべては私にあるわけだが、その覚悟くらいは出来ているさ」


 両警部は、この約束にも、警察を侮辱するような言葉にも大いに不満そうだった。グレグスン警部は耳まで真っ赤にしていたし、レストレード警部の小さなビーズ玉のような目は好奇心と憤慨でギラギラと光っていた。しかし、二人が口を開くよりも先に、窓から外を覗いたホームズが驚愕する言葉を発した。


「それに、どうやら犯人がご到着のようだ」


 そう彼女が言った直後、突然ドアを叩く音がして私たちはビクリと肩を跳ねさせた。


「入りたまえ」


 ホームズの呼び声に従って部屋の中に入ってきたのは、例のベイカーストリートチルドレンのリーダー格であるウィギンズ少年だった。以前よりもマシな服装をしている少年を目にした両警部は驚きのあまり、あんぐりと口を大きく開けている。


「まさか、このガキが?」


 グレグスン警部の一言を聞いたホームズが吹き出した。気持ちは分からないでもない。


 少年は髪を整えるように前髪を弄りながら言った。


「ホームズさん、馬車を連れてきたよ」


「馬車?」


「ご苦労」


 レストレード警部の言葉を無視したホームズは素っ気なく応え、引き出しからスチール製の手錠――アメリカ製の新型の手錠。英国製よりも軽くて扱いやすい――を取り出しながら続けた。


「スコットランド・ヤードじゃ、どうしてこの型を採用しないんだい? こんなに軽いし、ほら、このバネ仕掛けの素晴らしいこと。あっという間に掛かってしまう」


「古い型で十分ですよ。掛ける相手さえ見つかればね」


 未だにホームズの見出した犯人が分からないグレグスン警部が皮肉たっぷりにそう返すが、彼女は上機嫌でにこにこしている。


「いや、ごもっとも。ところで、御者に荷造りを手伝ってもらおうかな。ウィギンズ、ちょっと呼んできてくれないか」


 まるで旅行にでも出掛けるような口ぶりだが、私はそんな話は一言も聞いていない。確かに部屋には小さな旅行鞄がいつの間にか置かれており、それを部屋の中央――ちょうど、私と両警部が周りを囲むような位置――に引っ張り出してきて帯革を掛け始めた。


 何が何やら分からない両警部は、忙しそうにしているホームズを怪訝な顔で眺めている。事件を解決できなかった彼女が逃げる準備でもしているのでは、とでも考えているのかもしれない。そうしているところへ、御者が上がってきた。その御者は、事件当日に私たちをブリクストン通りへと運んでから、何度か世話になっていた男だった。


「御者君、すまないが、この金具を締めるのを手伝ってくれないか?」


 居並ぶ面々を眺め、「彼らに頼めばいいのでは?」とでも言いたげな様子で首を傾げながら、むっつりとした表情で歩み寄ると、力を貸そうとして両手を伸ばした。と、その瞬間、カチッという鋭い音とガチャガチャ金属のぶつかり合う音がして、ホームズがさっと立ち上がった。そして、目を輝かせながら叫んだ。


「諸君! ポルダケス・プリアモスおよびアレクサンドロス・パリス殺害の犯人、メネラオス・ヘレネー氏をご紹介しましょう!」


 すべては一瞬の出来事だった。何が起きたのか分からぬほどだった。しかし、その瞬間の光景は今でも鮮やかな色を伴ってはっきりと思い出すことができる。


 ホームズの勝ち誇ったような顔は、今までで一番輝いていたし、魔法のようにあっという間に嵌められたピカピカの手錠を見下ろしたまま、呆然としている御者の顔。その一瞬、私たちは誰もが彫像のように立ち尽くしていた。


 僅かな静寂の後、ハッとした御者の男が素早く背後を振り返る。しかし、入り口には既にホームズが待ち構えており、ついでにウィギンズ少年もいた。逃げ場が塞がれていることを悟った男は、次の瞬間、「うぉおおおおおおおおっ!」とわけの分からない怒号を発しながら、窓に向かって猛然と体当たりした。


 破壊音と共に、桟の一部とガラスが吹っ飛んだが、身体が外へ飛び出す前に、グレグスンとレストレード警部、そして私の三人が猟犬のように飛び掛かり、男を部屋へと引きずり戻す。たちまち凄まじい格闘戦となった。


 彼は怪力の獰猛な男であり、三人掛かりの私たちが何度も跳ね飛ばされ、窓ガラスを突き破った時に負った顔や手の怪我などものともしないような相手だった。だが、とうとうレストレード警部が襟巻の内側に手を掛けて喉を締め上げると、流石にもう抵抗しても無駄だと諦めたようだった。それでも私たちは安心できず、男の両手足をロープやタオルでぎっちりと縛り上げ、そうしてようやく、私たちは息を切らせながら立ち上がることができた。


 それを見届けたホームズが口を開いた。


「この男の馬車があるから、そいつでヤードまで護送すればいい。ウィギンズには報酬だ」


 金貨を受け取ったウィギンズ少年は、喜色満面といった表情で階段を駆け下りていった。すぐにどこかから子供たちの歓声が聞こえた気がした。


「さて、諸君」


 こちらを振り向いたホームズが、いかにも嬉しそうな笑顔で続ける。


「これで、この謎めいた事件もすっかり解決だ。もうどんな質問をして頂いてもけっこう。決して返事を拒むような真似はしないよ」




 ◆◆◆◆◇◆◆◆◆




 馬でやって来たばかりの谷間の道を、ボロボロの身体と痛む足を引きずりながら五日間ほど歩き続け、六日目になってようやく、運命の脱出行の出発点であったイーグル谷に辿り着いた。そこからは聖徒たちの国が一望のもとだった。


 疲労困憊の極致にあった彼は、手にしたライフル銃を杖代わりにして、眼下に広がる町へ向かって一歩ずつ進んだ。しばらくして、メネラオスは大通りのあちこちに旗がはためき、町全体に何やら祝い事の雰囲気が漂っていることに気付いた。いったい何を祝うのか思案を巡らせていると、蹄の音がして馬に乗った男がこちらにやって来るのが見える。近付いてきた顔をよく見ると、かつて何度か世話をしたことのあるモルモン教徒だった。


「メネラオス・ヘレネーだよ。覚えているだろ」


 突然、目の前に飛び出してきた人影にビックリしたモルモン教徒は、彼の顔を見て、先ほどにも増して驚き、メネラオスの顔をまじまじと見下ろした。


 ボロをまとって髪はぼさぼさに乱れ、死人のように青ざめた顔をしながらも、その両目だけは野生の猛獣の如くギラギラと輝いている。これが、かつて強さを全身に漲らせていた精悍な若き猟師、メネラオス・ヘレネーだとは。本人だと納得したモルモン教徒は、途端に狼狽しながら辺りをしきりに見回し始めた。


「のこのこやって来るなんて、頭がおかしいのか! 長老会議から狙われているアンタと話しているところでも見られでもしたら、こっちの命だって危ない!」


「ふん。長老会議なんざ怖くもねぇ。そんなことより、今度のことで何か耳にしてるだろ。頼むからいくつか教えてくれ。友達のよしみだ。お願いだよ」


 馬から降りたモルモン教徒は、周囲を警戒しながらメネラオスを道の陰まで引っ張り、不安そうな表情で声を潜めた。


「何が知りたい? 悪いが手短に頼む。岩に耳あり、木に目ありだ」


「マティルダはどうなった?」


「昨日、プリアモスさんの息子のポルダケスと結婚した。……おい、どうした。しっかりしろ。今にも倒れそうじゃないか!」


「構わないでくれ」


 ふらついた身体を壁で支え、唇まで真っ青にしながら弱々しく言った。


「結婚、したって?」


「ああ、昨日のことだ。それで教会堂に旗が出てるんだよ。プリアモスさんの息子とパリスさんの息子と、どっちが彼女を嫁にもらうかでちょっともめてね。君らの追跡隊には二人とも加わっていたんだが、父親を撃ち殺したのがパリスだから、パリスと結婚するのが当然かと思ったんだが、評議会に掛けると断然プリアモス派が優勢でね、預言者様はそちらへ娘をお渡しになった。しかし、いずれにせよ。あの娘はそう長くはあるまいよ。昨日顔を見かけたんだが、半分死んだみたいだった。もう女というよりも幽霊だ―――おや、行くのか?」


「ああ、行く。ありがとう」


 立ち上がったメネラオスの表情は大理石で作られた彫像のように固く厳めしくこわばり、復讐に燃える瞳だけが異様な光を放っていた。


「どこへ行くんだ?」


「さあな」


 銃を肩に担いだメネラオスは、ひたすらに谷を下りて野獣の群れ棲む山中深くへ分け入っていった。だが、野獣はただの一匹すら彼に襲い掛かることはなかった。今の彼ほど凶暴で危険な獣はいない。それを獣たちは野性で感じ取っていたのだ。


 そして、そのモルモン教徒の予想は的中した。


 父親の無残な死のためか、忌まわしい結婚を強いられたためか、いずれにせよ、マティルダは日ごとにやせ衰え、再び起き上がることもないまま、ひと月も経たずに死んでしまった。


 テュンダレオスの財産目当てだったプリアモスはさほど悲しみもしなかったが、彼の他の妻たちは愛する者と引き離された彼女の死を悼み、埋葬前夜にはモルモン教徒の習慣に従って懇ろな通夜まで営んだ。


 そして、女たちが棺を囲んで迎えた真夜中過ぎの事だ。不意にドアが開いて、ボロボロの衣服をまとい、真っ黒に日焼けした凄まじい形相の男が無遠慮に部屋へと踏み込んできたのである。


 女たちが驚きと恐怖で口もきけずにいると、男は周囲の女たちになど目もくれず、かつてはマティルダという清らかな魂を宿していた白い亡骸に真っ直ぐに歩み寄った。


「マティルダ……」


 久しぶりに婚約者の顔を見たせいか、ぎゅっと眉間に寄っていた眉がふいに緩んだ。そして、身をかがめて冷たい額に優しく口づけると、遺体の手をとった。彼女の手、その薬指には金で出来た結婚指輪がはめられている。


「くそっ、こんなものをしたまま埋められてたまるか!」


 そう大声で毒づき、彼は指輪を抜き取って踵を返した。そのまま女たちが悲鳴を上げる間もなく階段を駆け下りて姿を消してしまった。思いがけないあっという間の出来事だ。花嫁のしるしである金の指輪が消え失せたという確かな事実がなければ、それを目撃した女たちでさえ自分の目が幻覚でも見たのかと思ったところだろうし、ましてや他人に信じさせることなどできなかっただろう。


 そうして、メネラオス・ヘレネーは復讐者となった。愛する者とその父親を死に追いやった二人の悪人を殺すため、二十年もの間、復讐心を燃え上がらせ続けた執念深い復讐者に。

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