第四章 The one light way in the darkness

 翌日の新聞は、この事件を『ブリクストン通りの怪事件』と称して大々的に報道した。


 どの新聞も長文の記事を載せ、その上、社説にまで取り上げるところもあり、中には私の知らない事実もいくつか含まれていた。当時の記事の切り抜きや抜粋をスクラップしてあるので、その内のいくつかを要約して記載しておこうと思う。




『デイリー・テレグラフ』紙


 この事件は犯罪史上まれにみる奇怪な事件である。


 被害者の名前はドイツ系であり、ただ殺す以外に犯人の動機は見当たらない。そして壁に残された不気味な文字である。これらから考えるに、政治的亡命者か、革命家の仕業に違いない。また、アメリカには社会主義者の支部が多数存在している。被害者はおそらくその不文律を破ったために徹底的に追い詰められたのだろう。


 特に注目すべきなのは、被害者の名前がドイツ系であることだ。聡明な読者諸君はご存知のことだろうが、かつてドイツには『秘密裁判制度(中世ドイツにおいて弱体化した政府の下で横行していた秘密裁判)』があった。被害者が秘密裁判によって有罪とされた可能性は高く、それゆえにドイツからアメリカへと渡ったとは考えられないだろうか。その点が社会主義者の不文律に大きく触れていたと考えるのが当然だろう。


 しかし、彼が毒殺されているというのが不可解である。ドイツの秘密組織にせよ、アメリカの社会主義者にせよ、違反者を罰するのに毒物を使うというのは考えづらい。通常はより直接的な――銃殺や刺殺など――で罰を与えるのではないだろうか。


 そこで浮上するのが『トファナ水(十七世紀にシチリアのトファナという女が造って六百人以上を殺害した毒薬)』である。奇しくもシチリアはナポリに近く、『カルボナリ党(十九世紀初頭にナポリで結成された急進的共和主義者の結社)』がトファナ水を所持していたとしても不思議ではない。ブランヴィリエ侯爵夫人の件(夫の親兄弟を欲のために毒殺した事件)との関連もまことしやかに噂されている組織だ。今回の事件に関わっていたとしてもおかしくない。


 ダーウィンはマルサスの『人口論』を読んで『進化論』を書いたが、今回の事件も『人口論』に基づいたものなのではとテレグラフ紙は考えている。つまりは人口と食料資源の相関である。かの組織は将来の食糧危機を見越して人口の減少を計画しており、その急先鋒としてトファナ水を利用するべく貯蔵していたが、それを被害者が暴露しようとしたために殺害されたのだ。


 今回のような理由での殺人は、かつてのラトクリフ街道殺人事件(一八一一年にラトクリフ街道で起きた連続殺人事件)にも見られる。あの連続殺人事件では痛ましいことにも多くの人間が犠牲となったが、実はその標的は一人であり、組織に雇われた殺人犯は、それを偽装するために他の人物をも殺め、証拠を消すために自殺に見せかけて殺されたという説である。


 かの街道が通るイーストエンドには現在も数多くの移民が暮らしている。今回の被害者もドイツ系である。これは偶然なのだろうか。我々はそうは思わない。


 イギリス国内に在住している外国人が次々に恐ろしい事件を起こしている。これを黙って見過ごしていいのだろうか。いや、見過ごすべきではないだろう。政府は国内在住外国人の監視をより強化すべきだ。善良な市民の平和を考えるならば。


 とはいえ、ここまでの事実を突き止めたのは、我らがレストレード警部の功績に他ならない。今後の活躍に否が応にも期待が高まるばかりである。




『スタンダード』紙


 またしても痛ましい事件が起こってしまった。


 こういった無法行為は常に自由党政権下で起きているという事実を、紳士淑女諸君はご存知だろうか。自由党の不安定な政治によって人心が動揺するに伴い、あらゆる権威が弱体化したことによって無法者たちが自由に闊歩しているのである。一体誰のための自由だと言うのだろう。


 被害者は数週間前からロンドンに滞在中のアメリカ人紳士で、カンバーウェル区トーキー・テラスのシャルパンティエ夫人方に滞在していた。旅行には個人秘書のアレクサンドロス・パリス氏が同行しており、二人は今月三日の火曜日にシャルパンティエ夫人に別れを告げ、リヴァプール行きの急行列車に乗ると言ってユーストン駅に向かった。その後、同駅のプラットホームで二人を見かけたという証言も得ている。


 しかし、それ以降の行動は、既に報じられているように、プリアモス氏の死体がユーストン駅から数マイル離れたブリクストン通りの空き家で発見されるまで一切が不明である。プリアモス氏がなぜそこへ行ったのか、またどうして殺されたのか、未だに謎である。パリス氏の行方についても何も分かっていない。


 だが安心して欲しい。幸いなことに、スコットランド・ヤードのレストレードとグレグスン両氏がこの事件を担当する。名だたる両警部の活躍によって事件が速やかに解決されるものと、我々スタンダード紙一同は信じている。




『デイリー・ニューズ』紙


 この奇怪な事件は、政治的犯罪であることに間違いはない。


 大陸諸国では、近年、専制主義と自由嫌悪の風潮が強まっており、あの暗い過去さえなければ故国で善良な市民として暮らせたはずの人々が多数わが国に入り込んでいる。これらの人々の間には厳しい掟があり、破った者はただちに死をもって罰せられるのだ。被害者がこういった掟によって殺害された可能性は高い。彼の日常を知るためにも、全力を挙げて秘書のパリス氏の行方を追うべきだ。


 なお、被害者の滞在先が突き止められて捜査は大きく前進したが、これはひとえにスコットランド・ヤードのグレグスン警部の鋭敏かつ精力的な捜査の賜物である。




 シャルロット・ホームズと私は朝食を取りながら、一緒にこれらの記事を読んだ。ホームズにとってはよほど面白い記事だったらしく、朝食のスコーンを齧りながらうそぶいた。


「ほら、私の言った通りだろう? どう転んでもレストレードとグレグスンが得をするようになっているんだ」


「それは事件の成り行き次第じゃないか?」


「いや、そんなものは関係ない。もし犯人が捕まれば、これもひとえに両氏の努力のおかげ。捕まらなければ、両氏の努力の甲斐もなく。ということになる。『表が出れば俺の勝ち。裏が出ればお前の負け』というわけさ。あの二人は何をやっても褒められて、貶められるということがない。まさに、『馬鹿者を尊敬する大馬鹿者はその傍に常にいる』というヤツだ」


 呆れたようなホームズの言葉は、両氏を取り巻く歪んだ関係性を十分すぎるほどに示していた。その事実に眉根を寄せていると、バタバタと玄関から階段を駆け上がってくる騒々しい音が聞こえてきた。


「おや、何だろう?」


 立ち上がってドアに向かうと、下の階で下宿の女主人が何やら大声で怒鳴っている。


「一度会っただろう? ベイカーストリートイレギュラーズさ」


「え?」


 ドアを開けると、そこには見知った顔が並んでおり、彼らは私が止める間もなく、どやどやと部屋に飛び込んできた。


「気を付け!」


 ホームズが号令を掛けると、汚れ切ったボロをまとった宿無し子たちが六人、まるで薄汚れた小像を並べたようにさっと一列になった。その先頭に立っているのは、彼らの中でも年長であるウィギンズという少年だ。


「いいか。これからはウィギンズひとりを報告に寄越して、他の者は通りで待っているんだ」


「分かったよ、ホームズさん」


「よろしい。それで、ウィギンズ、見つかったかね?」


「まだ探してる最中さ」


「流石にまだ見つからないか。よし、見つかるまで頑張るんだ。さあ、お駄賃だよ」


 何のことかは分からなかったが、ホームズは成果が無かったことに気を落とすこともなく、少年の手に一シリングを握らせた。


「では、行ってよし。今度来る時は、もっとマシな報告を持ってくるんだぞ」


 彼女が軽く手を振ると、少年たちはネズミの群れのように階段を駆け下り、次の瞬間にはもう通りの方から甲高い歓声が響いていた。


「一体何を探させているんだ?」


 私の問いにホームズがにやりと笑う。


「無論、犯人さ」


「犯人? メネラオスとやらの居所に目星が付いたのか?」


「ああ、十中八九ね。まあ、時間の問題さ。と、ほほう」


 窓の外に目を向けた彼女が笑みを深くして、楽しげに言った。


「グレグスン先生が満面の笑みでやってくる。こいつは面白いニュースが聞けそうだ。もちろん、ここへ来るんだろう。ほうら立ち止まった。さあ、お出ましだぞ!」


 面白い玩具を見つけた子供のようなはしゃぎようで、ホームズがお気に入りの椅子に飛んで帰るのと同時に玄関のベルがけたたましく音を立てた。


 彼女はグレグスン警部には決して今回の事件の犯人を捕まえることなどできないと思っているのだろう。まあ、それには同感だが、彼女の場合、それが態度に出過ぎている。いつか警部がカンカンになって怒るんじゃないかと気が気でない。


 そんなことを考えている内に、階段を二段飛ばしで駆け上ってきた足音が、そのまま私たちの部屋に飛び込んできた。金髪のグレグスン警部である。


「やあ、どうも!」


 椅子に腰掛けたままのホームズに駆け寄ると、彼女の気のない手を満面の笑みのままぎゅっと握り締めて歓喜の声を上げた。


「喜んでください! 何もかも暴き出してやりましたよ!」


 ふと、ホームズの悪戯っ子のような笑みが引き攣った。


「すると、確かな手掛かりでも見つかったんですか?」


 私が問い掛けると、グレグスン警部は笑みをより一層深くし、さらには堂々と胸を張って宣言した。


「確かな手掛かりですと? いやいや、それどころか、犯人を捕まえてしまいましたよ、事件の犯人をね!」


 まさか、という驚きに目を見開きながら、警部の言葉の続きを促す。


「それで、犯人の名前は?」


 警部は勿体ぶるように咳払いをし、大きな手をこすり合わせながら仰々しく言った。


「アーサー・シャルパンティエという海軍中尉です!」


 視界の隅で、ホームズがほっとしたように小さく溜め息を漏らして頬を緩めた。ホームズの推理とはまるで違う。どうやらグレグスン警部の喜ばしげな笑みはとんだぬか喜びであるようだ。


 立ち上がったホームズが、暖炉前の椅子を警部に勧めながら葉巻を一本手に取った。来客用にストックしてある中でも一番古く劣化しているものだ。


「まあ、腰を下ろして、この葉巻でもどうぞ。犯人逮捕の苦心談など、是非とも伺いたいものですな! なんならウィスキーでも開けるとしましょう!」


「そうですな! ひとつ頂きますか!」


 棚に向かおうとした私に目配せしたホームズが首を横に振った。ただの皮肉だったらしく、実際にウィスキーを開ける必要はないらしい。


 グレグスン警部は私たち二人のやり取りに気付くこともなく鼻高々の様子で続ける。


「我ながらこの一両日は大奮闘、すっかりへとへとですからね。もちろん、肉体的ではなく、精神的に疲れたんですがね。ホームズさんならお判りでしょう? お互い頭脳労働者ですから」


「それはそれは、身に余る光栄です」


 ホームズは真面目くさって軽く膝を折った。それは貴婦人がドレスの裾を摘まんでお辞儀をするような格好であり、彼女の服装も相まって、いっそ滑稽に見える。無論、警部を馬鹿にしているんだろうが。


「では、その大成功に至る道のりを、この若輩にお聞かせ頂けますか?」


 警部は彼女の態度を気に留めることもなく、どっかりとひじ掛け椅子に腰を下ろして、さも満足そうに葉巻をふかした。それから突然、おかしさが込み上げてきたとでも言うように自分の太ももをぴしゃりと叩いた。


「いやあ、それにしても滑稽なのは、抜けてるあのレストレード大先生だ。あれで、自分じゃ結構腕利きのつもりなんですが、てんで見当違いなとこばかり探ってるんですからね。今も躍起になって秘書のパリスを追ってますよ。パリスなど事件とはまったく無関係なのに。きっと今頃、無実のパリスをとっ捕まえているんじゃないかな?」


 レストレード警部の空回りを想像するとおかしくてたまらないらしく、彼はゲラゲラと息が詰まるほどに笑い転げた。ホームズは笑顔でそれに応じていた。とは言っても、その顔に感情と呼べるものはなく、ただ笑みの形をしているだけだったが。


 咳払いをして、私は警部に問うた。


「それで、貴方の方はどうやって手掛かりを掴んだんですか?」


「そうでした、そうでした。貴方がたにはすっかりお話ししましょう。しかし、ワトスン博士、こいつは無論極秘に願いますよ」


 こうも自慢げにウィンクなどされると、流石の私でもイラッと来るものがある。少なくとも、隣から私の横すねに蹴りが飛ぶくらいには鼻に付く態度だ。


「さて、我々が最初にぶち当たった難問は、殺されたアメリカ人の身元確認でした、新聞広告でも出して反応を待つとか、関係者が現れて情報をくれるのを期待するとかいう人もいるでしょうが、このトバイアス・グレグスンのやり方は違う。ほら、死体の傍に帽子が落ちていたのを覚えていらっしゃいますか?」


「ああ、カンバーウェル通り一二九番地のジョン・アンダウッド父子商会の製品のことか……でしたね」


 彼はホームズの指摘を聞いて酷くがっかりしたようだった。


「そこまでお気付きとは流石だ。で、帽子屋には行ってごらんになりましたか?」


「いや」


「ほほう!」


 グレグスン警部はほっとしたように声を上げた。


「チャンスというやつは、どんな些細なものでもあだや疎かにすべきではありませんぞ」


「偉大なる精神に小事なし、ですね」


 ホームズが警句ふうに応じた。


 彼女が口にした言葉は、伝記作家ジェイムズ・ボズウェルの著書にある、ジョンソン博士の手紙の一節『大いなる感受性をもつ人間にとっては、些細なことなど存在しないのです』を簡略化したものだろう。つまり、彼女はこう言いたいのだ。




『些細なことこそ重要なのだ』と。




 果たして意味を理解しているのか、鷹揚に頷いた警部が続ける。


「そこで私は、さっそくアンダウッド父子商会へ出かけて、かくかくしかじかの帽子を売ったことがあるかと訊ねました。店の主人が帳簿を調べるとすぐに分かりましたよ。トーキー・テラスのシャルパンティエという下宿屋にいる、プリアモス氏に届けたというのです。これで被害者の住所を突き止めたわけです」


「いや、お見事。素晴らしい行動力です!」


 ホームズが頭の上で大仰に手を叩く。それでさらに気を良くしたのか、満足げに笑みを浮かべながら彼が身を乗り出した。


「そこで、早速シャルパンティエ夫人を訪ねました。会ってみると、夫人は酷く青ざめた顔をしていて、何やら心痛の様子でした。ちょうど娘も部屋におりました。これが中々の美人なんですが、やはり目の周りを赤く腫らしていて、私が何か話しかける度に唇をブルブルと震えさせるんです。これを私が見逃すはずがありません。すぐにピンときましたよ。ホームズさんならお判りでしょう、確かな手掛かりに出会った時の、あの身体中がぞくぞくする感じですな!」


「ははは、そうですな」


 話を振られたホームズが朗らかに笑った。心はまったく込められていなかったが。


「そうでしょうとも。そこで私は尋ねてみました。


 『つい最近までこちらに下宿していた、クリーヴランドのポルダケス・プリアモス氏が謎の死を遂げられたことはご存知ですか?』


 母親は頷きました。口もきけない様子だったんですが、突然、娘の方がわっと泣き出したんです。この母娘は何か知っている。私はますます手応えを感じました。


『プリアモス氏が汽車に乗ると言ってここを出たのは何時頃でしたか?』


 母親は、心の動揺を抑えるように、ぎゅっと胸の前で両の手を握り締めながら、ゴクリと生唾を飲み込んで答えました。


『八時です。秘書のパリスさんが九時十五分発と十一時発の汽車があると説明されると、プリアモスさんは早いのにするとおっしゃいました』


『あの人を見たのはそれが最後ですか?』


 私のこの質問に、母親の顔色がさっと変わりました。死人のように青ざめたまま口を閉ざしてしまったんです。それからしばらくして、やっと『はい』と掠れた声で答えたんですが、ずっとうつむいたままで、やけに不自然なんです。


 私からも何も言わず、少しの間また沈黙が続きました。そして、今度は娘の方が、随分と落ち着いた、はっきりとした口調で言い出しました。


『お母さん。嘘をついても何にもならないわ。この方に何もかも正直にお話ししましょう!』


 母親が口を開くよりも早く、娘は決意に満ちた瞳でこう言ったのです。


『実は、プリアモスさんにはもう一度お会いしたのです』


『まあ、アリス!』


 そう叫んで、シャルパンティエ夫人は崩れるようにして椅子に倒れ込んでしまいました。そして、呆然と呟きました。


『これでお前は兄さんを殺してしまったんだよ!』


 母親の肩を抱いて、娘のアリスはきっぱりと言いました。


『アーサー兄さんだって、きっと本当のことを話してほしいと思っているわ』


『もう、何もかも話してしまった方がいい。半端に打ち明けるなんてのは何も話さないよりもなお悪い。それに、我々の方だって色々と調べはついているんですから』


 そう私は言いましたね。だってそうでしょう。まあ、レストレードなら気付かないでしょうが、ここまであからさまな態度を取られれば、何かあるのは確実ってなもんです。


『アリス、みんなお前のせいですよ!』


 すすり泣くように叫んで、母親はそっと娘の手を放すと私の方に向き直りました。


『それでは、何もかも申し上げます。ですが、くれぐれも誤解しないでくださいませ。息子の身はまったくの潔白でございます。わたくしが恐れていますのは、貴方がたや世間がたの目に息子が怪しいかと映りはしないかということです』


『お母さん……』


『とにかく一番いい方法は、何もかも正直に話すことです。息子さんが潔白なら、決して悪いようにはならんでしょう』


 一度ゆっくりと息を吸って、母親は娘に微笑みかけました。


『アリスや。お前は席を外した方がいいわね』


『うん。隣の部屋にいるから』


 母親の手を優しく握ってから、アリスは部屋を出ていきます。それを見送ってから、彼女は再びこちらに向き直りました。


『では刑事さん。本当はこんなことをお話するつもりはなかったのですが、話そうと決めたからには包み隠さずに申し上げます』


『それが賢明ですな』


 私は夫人の勧めでソファに腰を下ろして、彼女が話し出すのをじっと待ちました。頭の奥から記憶を引っ張り出すような、嫌なことを思い出すような様子でこめかみに手を当てて、被害者たちのことを話し始めました。


『プリアモスさんは三週間ほどご滞在になりました。秘書のパリスさんとご一緒に大陸の方を旅行なさってきたそうです。


 パリスさんは物静かで控えめな方でしたが、ご主人のプリアモスさんの方は……こう申してはなんですが、大違いでした。とても下品で、粗野で、無礼な方でした。我が家にお着きになった晩から、それはもう酷い酔っ払い様で、その後も、お昼過ぎになる頃には毎日お酒の匂いをぷんぷんさせていました。メイドたちにもそれはそれは馴れ馴れしくなさいますし、何より困りましたのは、娘のアリスにまですぐに同じような態度を取られるようになって、淫らな冗談をおっしゃることもしょっちゅうでした。幸い娘はまだまだ子供で意味が通じませんでしたけれど。


 一度などは、あの子に本当に抱きついたりなさいました。流石にその時は、秘書のパリスさんが、みっともない真似はやめてくださいと、止めに入ってくださったお陰で事なきを得ました』


『しかしまた、なぜそこまでの我慢を? そんなタチの悪い下宿人はとっとと追い出せばいいじゃないですか』


 私の至極もっともな質問に、シャルパンティエ夫人はパッと顔を赤らめました。


『はい、最初の日にそうお断りすれば良かったんです。でも、とてもできませんでしたわ。この不景気にひとり一日一ポンド(およそ六十シリングほど。当時の下流階級の平均年収から考えれば半月ほどの給金に相当する)、週に十四ポンドもお支払くださったんですもの。わたくしは夫を亡くしておりますし、海軍におります息子のアーサーにも随分とお金がかかります。


 みすみすそれだけのお金を失うのが惜しかったのです。良かれと思って我慢していましたが、あんなことまでされてはもう我慢の限界です。早速引き払ってくださるように申しました。そういうわけで、あの方々は出ていかれたのです』


『なるほど、それで?』


『あの方の乗った馬車が出ていくのを見ますと、胸の中がパッと明るくなりました。息子がちょうど休暇で帰ってきておりましたが、このことは一切聞かせていませんでした。何しろ気性が激しい上に大変な妹想いなのです。馬車が通りの角を曲がったのを見届けてドアを閉めると、肩から重荷が下りた思いがいたしました』


 そこで彼女は息を詰まらせました。それはもう苦しそうに。


『ところが、ところが! それから一時間もしない内に、玄関のベルが鳴ってプリアモスさんが舞い戻ってこられたのです! ひどく興奮して、おまけにまた酔っぱらっていて。わたくしと娘が二人で料理をしていた部屋にずかずかと入って来たかと思うと、汽車に乗り遅れたとかなんとか、訳の分からないことをおっしゃったんです。


 そして、アリスに向かって、なんとわたくしの目の前で、実の母親の目の前でですよ、駆け落ちしようと言い出すではありませんか! 『アンタはもう大人なんだから、法律だって邪魔しやしない。俺には金がたっぷりとある。こんな婆さんなんか気にする必要はない。お姫様みたいな暮らしをさせてやるぞ』と。


 可哀想に、アリスはすっかりと怯えて後ずさりしましたが、あの方は娘の手首を掴んで無理矢理ドアの方へ引っ張ってゆこうとなさいます。わたくしは思わず悲鳴をあげていました。


 ちょうどその時、息子のアーサーが部屋に入ってきました。それからどうなったのか……。わたくしは存じません。ののしり合う声と激しい取っ組み合いの音が聞こえましたが、怖くて顔も上げられませんでした。ようやく目を上げて見たときには、アーサーが棒のようなものを手に笑いながら戸口に立っていました。『これでもう、二度とあんなやつに悩まされることはあるまい。アイツの後をちょっとつけてみる』息子はそう言って帽子を手に取ると、通りへ飛び出していきました。


 そして次の日の朝、わたくしどもはプリアモスさんの謎の死を知ったのでございます』


 これだけのことを話すのに、シャルパンティエ夫人は苦しそうに喘いだり、沈黙したりと何度も中断しました。聞き取れないほど小さく低い声になることもありましたが、全部速記しておきましたから、話の内容に間違いはありません」


「いやはや、実に面白いですな」


 いかにも重々しい雰囲気で話していたグレグスン警部とは裏腹に、ホームズは欠伸混じりで言った。


「で、それから?」


「シャルパンティエ夫人の話が途切れた時、問題は全て一点に掛かっていると私は気付きました。そこで、これまでも女性に対してはいつも効果満点だった厳めしい目付きで夫人をじっと睨みながら、息子は何時に帰ってきたのかと訊ねました。すると、彼女はこう言ったのです。


『存じません』とね。


 やはり、と私は事件の全貌を確信しました。彼女が言うには、息子のアーサー自宅の鍵を所持しており、彼女たちが就寝した十一時頃にはまだ帰宅しておらず、いつ帰って来たのかも分からないということでした。


『最低でも二時間は出掛けていたわけですな。それでは、その間、息子さんは何をなさっていたんでしょうな。場合によっては四、五時間もの間、行方が分からなかったわけですが』


 私がそう言うと、夫人は唇まで真っ青になって震え出しました。まさしく全ての点が一本の線に繋がった瞬間ですな。


 無論、これ以上は訊くことはありません。私はアーサー・シャルパンティエ中尉の居所を突き止め、巡査を二人同行させて彼を逮捕しました。肩に手を置いて大人しく同行するように言いますと、ずうずうしくもこう答えましたよ。


『あの悪党、プリアモスが殺された件で僕を逮捕しようと言うんだろう?』


 こっちが何も言わない内にこれですから、こいつはもう容疑濃厚ですよ」


「確かにね」


 ホームズの気のない相槌が飛んだ。もうすでに彼の話は聞く価値なしとでも考えているのか、話の中身を聞き流しながら何事か考えているようだった。


「プリアモスをつけていく時に持っていたという、棒をまだ持っていましたよ。正確には杖でしたがね。握りの部分が三つに分かれている頑丈な杖でした」


 ホームズがぴくりと反応した。今度は私がグレグスン警部に訊ねた。


「それで、警部の推理はどういったものなんです?」


「私の推理はこうです。奴はブリクストン通りまでプリアモスをつけていったが、そこでまた口論となり、プリアモスは例の杖で、おそらくは鳩尾の辺りを殴られて、それで傷一つなく死んだ。そして、あの晩は酷い雨で人通りもなかったので、シャルパンティエは死体を空き家に引きずり込んだわけです。ロウソクや血痕、壁の文字や指輪などはみんな、警察の目を眩ますための小細工に過ぎませんよ」


「いや、お見事!」


 ホームズは、さも感服したように手を叩いた。私でも容易に穴が見つかるほど杜撰な推理だったので、彼女の言葉はまず間違いなく彼を小馬鹿にした演技だろう。そして、新しい葉巻を差し出しながら彼女は笑顔を浮かべて言った。


「グレグスン君、本当に素晴らしい。貴方のご将来が楽しみでなりませんよ」


「まあ、今回は我ながら上出来だとは思いますがね」


 警部は誇らしげに亜麻色の髪を撫で付けながら、そう言って葉巻を受け取った。


「ところで、シャルパンティエ中尉は何か言っていましたか? なぜその日に家にいたのか、とか」


「家に? シャルパンティエ自身の供述によると、その前日に上司である何とかという大佐に連れられて、他の同僚や部下たちと酒場に行っていたそうなんですが、そこで飲み過ぎて、翌日、つまりは事件のあった日には休みをもらったとのことです。その時に大佐とやらから借りた杖を手にプリアモスを追い掛けていくものの、相手は追い掛けてくるシャルパンティエに気付いて、近くを通った辻馬車に飛び乗るようにして逃げてしまったと供述しました。まあ、十中八九ウソでしょうけどね」


「ほう……」


 興味深そうに目を細めたホームズを見て、自分が重要な情報を得ていると感じたのか、グレグスンの口調が先ほどにも増して饒舌になった。


「何でもその帰りに海軍の旧友に会ったから、二人で長い散歩をしていたと言うんですが、その旧友のことを訊ねても満足な返事ができないと来た。いや、どうも、今度の事件は何から何まで私の推測通りですな! それにしても滑稽なのはレストレードのヤツだ。てんで見当外れな方向を探っているんですからね。無駄骨ご苦労様だ!」


「おや、噂をすれば、ということのようですよ」


 私たちが話に夢中になっている間に階段を昇って来たらしく、ホームズが振り向いた先には、息を切らせたレストレードが立っていた。ただし、今日の彼は態度にも服装にも、いつものあの自信に満ちて颯爽としたところがない。痩せこけた顔は以前にも増して弱り切っており、服装もだらしなく乱れている。どう見てもホームズに助言を求めに来た様子だったが、同僚の姿を見てひどく慌てたようだ。部屋の真ん中に突っ立って、脱いだ帽子をそわそわといじりながらしばらく逡巡していたが、やがて意を決して口火を切った。


「実に、実に驚くべき事件です―――不可解きわまる事件です」


「ほう。そうかなぁ、レストレード君!」


 グレグスン警部が勝ち誇った声を発しながら立ち上がった。その指には、火を付ける前だった葉巻が挟まれおり、葉巻でレストレード警部を指すようにしながら、皮肉たっぷりに言った。


「まあ、君はそういう結論に達するような気はしていたよ。秘書のアレクサンドロス・パリスは無事に捕まったかね?」


 ごくりと唾を飲み込んだレストレード警部は、重々しい口調で、まるで犯罪者に死刑を宣告する裁判長のように厳めしい顔をしながら告げた。


「秘書の、アレクサンドロス・パリス氏は………今朝六時に、ハリデイ・プライベート・ホテルで殺害されました」


 グレグスン警部が手にしていた葉巻が、夢想していた栄光と共に地に落ちる。その顔は、驚愕と恐れの表情で固まっていた。




 ◆◆◆◆◇◆◆◆◆




 ある晩、テュンダレオスはひとり部屋に腰を下ろして、苦境を抜け出す道はないものかと空しく思案に暮れていた。その部屋の壁には、血のような赤い文字で「二」という数字が記されていた。一夜明ければ、いよいよ最後の一日だ。


「明日になったら、私たちは………」


 一体どうなってしまうのだろう。


 形のない恐怖が足元から這い上がって来る。いくら頭を振っても、恐ろしい妄想は頭の中でいつまでも渦を巻いている。そして、娘はどんな目に合わされることだろうか。父娘の周りを覆い尽くすように張り巡らされた見えない蜘蛛の糸には、僅かな綻びすら見つけることはできない。


 テュンダレオスは自分の身体を抱き締めるようにしてうずくまり、自分の無力さに声を押し殺して泣いた。自分たちをこんな苦境に追いやった世界に向かって泣いた。


「?」


 自身の声しか聞こえないはずの部屋で、何かをそっと引っ掻くような物音がした。


「マティルダ?」


 娘が目を覚ましてしまったのかもしれない、と立ち上がって天井を見上げるが、物音の発生源は二階ではなかった。夜のしじまを静かにすり抜けるようにして届いた微かな音は、玄関の方から発せられていた。


 そっと玄関ホールまで行って耳を澄ますと、音はしばらく途絶えてはまたこっそりと繰り返された。誰かが密やかにドアを叩いているらしい。


 心臓が割れんばかりに脈打っている。今度は一体どんな恐怖が姿を現すのだろう。だが、もはやいかなる存在が現れたとしても、今以上に悪くなることは無い。せめて一矢報いようと拳を固く握り締め、テュンダレオスはドアに駆け寄って錠を外し、一息に開けた。


 外はしんとして静まり返っていた。よく晴れた晩で、こんな状況でなければ娘と星を眺めていたかもしれない。そう思えるほど綺麗な星空が闇の中で煌めいている。


 目の前の垣根と門で仕切られた小さな前庭にも、道路にも人影はない。テュンダレオスは安堵の溜め息を漏らして左右を見回し、それからふと足元に目をやった瞬間にぎょっとした。ひとりの男が地面に腹這いになって倒れていたのだ。


 腰が抜けそうになって後ずさりながら、喉を掴んで必死に叫び声を抑えた。酷い怪我をしているか、死にかけているのだろうと思ったが、腹這いの男は蛇のようにするりと音もなく地面を這って玄関に入り込んだ。その男は身体がすっかり家の中に入ると、さっと立ち上がってドアを閉めた。


「お久しぶりです。テュンダレオスさん」


 唖然としていた彼の目の前に、メネラオス・ヘレネーの荒々しくも毅然とした顔があった。


「なんと! ビックリしたぞ! なんであんな入り方を?」


「まずは食べ物をください。二日ほど飲まず食わずなんです」


 彼の声は掠れていて、明らかに疲労していた。慌ててテーブルに残っていた夕食の冷肉とパンを勧めると、メネラオスは一心不乱にガツガツと食事をむさぼった。そして、ようやく空腹が収まったところでこちらを向いた。


「マティルダは元気ですか?」


「ああ、あれには何も話しておらん」


「それは良かった。この家の周りは刺客に隙間なく監視されている。それでああして這って来たんです。なぁに、いくら油断も隙もない奴らでも、部族の猟師の末裔であるこの俺にゃ敵いませんよ」


 それは絶望の網に生じた僅かな綻びだった。


 テュンダレオスは頼りになる味方を得て、別人のように元気づき、若者のゴツゴツした手を取ると、心を込めて固く握った。


「大した奴だ。わざわざ危険と困難をわしらと一緒に担ごうと飛び込んでくる者など、ざらにはおらん」


「いや、まったくその通りですよ!」


 若き猟師はそう言って朗らかに笑った。


「アンタのことは尊敬してるけど、アンタひとりのためだったら、俺だってこんな面倒に首を突っ込んだかどうか」


 冗談めかして笑う彼の瞳は真剣だった。言葉とは裏腹に、たとえテュンダレオスひとりの危機であったとしても、この若者は迷うことなく駆け付けてくれるのだろう。そういう男だと、テュンダレオスは確信していた。だからこそ、娘のことを任せられるのだ。


「彼女の身に何事かあった時、それはユタのヘレネー家の人間がひとり減る時だ」


 彼の覚悟に頷き、テュンダレオスは周囲を警戒するように声を抑えて訊ねる。


「それで、これからどうすればいい?」


「明日が最後の日だから、今夜中に動かなくては。イーグル谷に、ラバ一頭と馬二頭を用意してあります。お金はどれくらいありますか?」


「金貨で二千ドルと紙幣で五千ドルといったところだ」


「充分です。俺もそれくらいある。山を越えて、ひとまずはカースンシティに逃げ込むつもりです。すぐにマティルダを起こしてください。使用人がこの棟にいなくて良かった」


 テュンダレオスが娘に旅支度をさせている間、メネラオスはありったけの食糧を小さな包みにまとめ、磁器の壺に飲み水を汲んだ。そこへ、テュンダレオスが支度を整えた娘を連れて戻ってきた。恋人たちの再会は熱烈ながらも極めて簡略なものだった。もはや一刻の猶予もなく、しなければならないことは山ほどある。


「さあ、出発だ」


 メネラオスは声を抑えながらも決意に満ちた力強さで言った。危険の大きさを承知の上で決然と立ち向かう男の声だ。


「出入り口は表も裏も見張られているけど、横の窓からそっと出て用心して畑を突っ切れば、何とか抜け出せる。街道へ出てしまえば、馬を待たせてある谷までは僅か二マイル。夜明けまでには山を半分越えられるでしょう」


「途中で見つかったらどうする?」


 そう訊ねると、メネラオスは上着の胸から覗いている拳銃の銃把を軽く叩いた。


「敵が何人いても、数人は冥土の道連れにしてやるさ」


 三人はそれぞれに僅かばかりの貴重品や食料などを持ち、厚い雲が辺りを少しでも暗くしてくれるのを待って、ひとりずつこっそりと狭い庭に降りた。息を殺し、身をかがめ、よろめくように庭を突っ切って生垣の陰まで辿り着くと、それに沿って小麦畑へ出る切れ目へ向かった。


 共に脱出した家をふいに振り返る。およそ半生を過ごした我が家。すべての明かりが消されて暗くなった農場にじっと目を凝らす。さわさわと夜風にそよぐ草木、どこまでもひっそりと横たわる小麦畑、その何もかもが平穏で、幸せの象徴であった。そこには今や、姿の見えない残忍な殺意が潜み、私たちの命を脅かしている。


 と、メネラオスがいきなり二人を物陰へ引きずり込んだ。極限まで緊張して青ざめた彼の横顔が、今現在の危機を如実に物語っていた。そのまま三人は息を殺して震えながら待った。


 大草原で鍛えたメネラオスの耳が山猫のように敏感だったのが幸いした。三人が身を隠したのとほぼ同時に、ほんの数ヤード先からヤマフクロウの陰気な鳴き声が聞こえ、やや離れたところですぐに別の鳴き声が応えた。そして、三人が目指していた生垣の切れ目からぼんやりと黒い人影が現れ、再び合図の鳴き声を送ると、暗闇から第二の男が姿を現した。


「あすの真夜中、夜鷹が三度鳴く時」


 目上らしい第一の男の声に第二の男が応える。


「了解。兄弟プリアモスに伝えましょうか?」


「伝えてくれ。そして、彼から他の皆にも。九から七!」


「七から五!」


 第二の男がそう応じると、二つの人影は別々の方向へさっと消えた。最後の言葉は彼らの合言葉らしい。足音が遠ざかるとメネラオス・ヘレネーはすっと立ち上がり、二人に手を貸しながら生垣の切れ目から小麦畑へ飛び出し、全速力で突っ走った。


「早く!」


 息を切らせながらメネラオスは何度も小さな声で二人に呼び掛けながら走る。


「今、歩哨線を抜けるところだ。早くしないと何もかもおしまいになる。急げ! 急ぐんだ!」


 街道へ出ると、走る速度を上げた。ふらつくマティルダをメネラオスが抱きかかえ、ただひたすらに走り続けた。一度だけ人影に出くわしたが、メネラオスが早々に気付いたおかげで素早く畑に潜り込んでやり過ごすことができた。


 しばらくして、頭上に深い闇が降りた。切り立った峰が二つ、夜の闇よりも黒くそそり立つ。峰の間にある狭い谷間こそ、馬を待たせてあるイーグル谷だ。メネラオスの本能に従い、少しばかりの遠回りをして、忠実な動物たちを繋いである岩陰へようやく辿り着いた。


 安堵の息を吐く間もなく、マティルダがラバに、テュンダレオスが金袋を持って馬に乗ると、メネラオスはもう一頭の馬にまたがり、足元すら定かではない険しい道を先頭に立って進み始めた。


 荒々しい大自然に慣れていない者には恐ろしいばかりの難路だった。馬一頭通るのがせいぜいの狭い道の一方には、巨大な岩々が威嚇するようにそそり立ち、あちこちに玄武岩の石柱が鋭く突き出している。もう一方には、崩れ落ちた岩石がごろごろと転がって足を踏み入れることもできない。そんな悪路でも、彼ら逃亡者の心は明るかった。進めば進むだけ、あの恐ろしい暴虐からは遠ざかるのだ。


 だが、モルモン教徒の管轄区域をまだ脱してはいないことを間もなく知ることになる。ひときわ荒涼とした道に差し掛かった時だった。マティルダが小さく声を上げて頭上を指さした。


道を見下ろす岩の上に、夜空を背にして黒くくっきりと一人の歩哨が立っている。


「誰だ?」


 軍隊式の誰何の声が、ひっそりとした峡谷に響き渡る。


「ネヴァダへ行く旅の者だ」


 後ろ手に馬の鞍に吊るしたライフル銃へと手を伸ばしつつ、メネラオスが答えた。


 歩哨が静かに銃を構えた。


「誰の許可で?」


 三人の間に緊張が走る。咄嗟にテュンダレオスが叫んだ。


「長老会議の許可を得た!」


 モルモン教徒としての長年の経験から、長老会議の権威を持ち出すのが一番効果があると知っていたからだ。


 しばしの沈黙の後、銃を構えたまま歩哨が叫ぶ。


「九から七!」


「七から五!」


 家の庭で耳にした合言葉を思い出したメネラオスが即座に応えた。その言葉で納得したのか、頷いた歩哨が銃を下げる。


「通ってよし。神のご加護を!」


 この地点を抜けると道幅も広がり、まるで彼らの未来を示すように広々とした道が続いている。振り返ると、先ほどの歩哨がたった一人で銃にもたれて佇んでいる。そして三人は、あの恐ろしい『選ばれし民の国』の境界線をついに突破したのだと直感した。行く手には、ただただ自由な世界が広がっているのだと、そう思った。この時の彼らは、そう信じていたのだ。

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