第三章 Her reasoning and the police testimony and ...
私たちがローリンストン・ガーデンズ三番地を出たのは、持ち歩いている懐中時計の針が真昼を過ぎた頃だった。
ホームズは、私を連れてまず電報局へ行き、クリーヴランド市の警察署長に宛てて長文の電報を打った。その電報というのがまた、一見して事件とは関係のなさそうな内容だった。何でも、今回の事件の被害者であるポルダケス・プリアモスの結婚関係の情報について詳細を知りたい、というような要望だったのである。
私が疑問を挟む間もなく、ホームズはさらにいくつかの新聞社に短文の電報を送り、やるべきことはやったと電報局を後にした。
「直接の証言に勝るもの無し、だ。件の巡査に話を聞きに行こうか」
振り返った彼女がにやりと笑う。
「実を言えば、もうこの事件の見通しはついているんだがね」
かんらかんらと笑いながら先を行くホームズの背中を見た私の口から、感嘆とも呆れとも取れるような息が漏れた。
既に事件解決の見通しが立っているなど、やはり彼女の能力は想像を絶している。
だが―――、と電報局の前で辻馬車を止めたホームズに声を掛ける。
「ホームズ。ひとつ助言をしてもいいか?」
「ん、何かな?」
振り返ったホームズの姿を改めて上から下まで眺め、額に手を当てながら溜め息を吐く。
「はぁ。一度アパートに戻って着替えることをお勧めするよ」
「ぬ?」
「今の君の格好は、とても人に会いに行くようなものじゃない」
彼女の姿は、先ほどの念入りな調査によって埃と汚れと泥に塗れてしまっている。高級そうな紳士服―――彼女は女性なので淑女服と呼んだ方がいいかもしれないが―――すら、今やすっかり薄汚れた安物のようにしか見えない。彼女はまったく気にも留めていなかったが、電報局でも周囲の視線が痛かったほどだ。
「おお!」
今気付いた、とでも言わんばかりの声に、またしても深い溜め息が漏れた。
そうして、辻馬車の目的地は件の巡査の家から、私たちのアパートメントへと変更になったのだった。
◆◆◆◆◇◆◆◆◆
メネラオス・ヘレネーとその仲間たちがソルトレーク・シティを旅立ってから三週間あまりが過ぎた。彼が帰ってきて最愛の養女を手放す日が近いことを思うと、ゼース・テュンダレオスの胸は密かに傷んだ。しかし、その日を待ちわびる娘の晴れ晴れとした幸せな顔を見ていると、他の誰にどんな言葉で説得されるよりも強く、娘を幸せな未来へと送り出してやらなければと思うのだった。
そして、決してモルモン教徒とは結婚させてはならない、とも。
モルモン教徒には一夫多妻の制度があり、この町で高い地位にあるもの全員が数人から十数人の妻を持っている。あんな制度は恥辱以外の何ものでもない。しかし、何ものでもない、とそう思ってはいても、それを口に出すことは憚られた。
当時、聖徒の国で異端の説を表明するのは極めて危険な行為だったからだ。それこそ、普段どんなに信仰心の篤い者であったとしても、たった一言を誤解されてたちまち懲罰が下されるかもしれないと、息を殺してひそひそと話さざるを得ないほどに。
かつて迫害を受けた犠牲者は、その迫害から逃れた時、保身のために迫害をする側へと回る。しかもそれは最も残忍な迫害者だ。迫害を受けたが故に長い長い旅路を歩いてきたモルモン教徒たちは、残忍な迫害者となる適性が充分以上にあったのである。
セビリアの宗教裁判、ドイツの秘密宗教組織、イタリアの秘密結社も、当時のこの地に根付く暗雲に比べれば可愛いほどだった。
得体のしれない神秘が作用していることもまた、暗雲をよりいっそう恐ろしく先の見えない闇のように見せていた。
教会を批判した男が忽然と姿を消し、彼の行方も、その身に起こったことも、誰一人として知る者がいない。彼が家で待つ妻と子のもとへと帰ることはついぞなかったのである。彼だけではない。モルモン教の教えに背いたり、棄教しようとしたりする反抗者。そういった者たちも次々と姿を消したのである。
ところが、ほどなくしてその範囲が拡大していった。発端は、一夫多妻制の教義を覚束なくさせるほどの女性人口の不足だろう。先住民が襲ってくるはずもないような地域で移民のテントが襲撃され、旅人の集団が襲撃に会うこともあった。ある山中に野宿した旅人は武装した覆面集団が足音を殺して駆けていくのを目撃したと言う。
そして、いつの間にか、長老たちのハーレムに新しい女の姿がある。どの女もさめざめと泣き暮れ、顔には恐怖の痕跡が色濃く残っているとなれば、巷に流れる風聞が真実味を帯びていくのも当然と言えるだろう。
そうして語られる内、何人所属しているかも、どこに潜んでいるかも分からない謎の覆面集団には、はっきりとした名称が付けられることになる。曰く、
『ダナイト団』
おそらく、イスラエルの十二部族の一つ、ダン部族にちなんだ名前だと思われる。ダン部族からは反キリストが現れるとされており、その説に絡めて、モルモン教に反する者を断罪する存在という意味合いなのだろう。
残虐行為に及ぶ非情で残酷な団体のメンバーが誰なのかを知る者は長老たちを除いては誰もいないの。モルモン教の指導者やその使命に対して、うっかり疑念などを友人知人にでも漏らせば最後、当の友人がその夜の内に剣を手に懲罰を下しに現れるかもしれない。だからこそ、皆が表向きはともかく、隣人すら警戒し、心底にある考えを口にすることは決してしないのだった。
そんな不安を、テュンダレオスもまた少なからず抱いていた。いずれは自分と娘のところにも現れるのではないかと。
そして、不幸なことに、その不安は杞憂とはならなかった。
ある晴れた朝、小麦畑に出かけようとしたテュンダレオスの前に、ひとりの中年男が現れたのである。砂色の髪とがっしりした体格、そしてその厳めしい顔付きを見た瞬間、彼はぎょっとして心臓が飛び出すような思いだった。
誰あろう、畏れ多き指導者にして預言者、アプロディタ・ダイティその人である。こうした突然の訪問が吉兆であるはずがない。恐怖におののいて立ち尽くす彼の前に立った預言者は、老境に差し掛かりながらも体格に優れたテュンダレオスよりも高い視点から彼を見下ろしている。その表情は厳しく、彼の予想が間違っていないことを告げている。
「兄弟テュンダレオスよ」
その声は老人の如くしわがれていたが、テュンダレオスとほとんど変わらない年齢でありながら、百年以上も生きている賢者のような年季と重みを感じさせた。
「我々、真の信仰者たちは、常にお前の良き友であった。砂漠で飢え死にしようとしていたお前たちを拾い、食物を分け与え、この選ばれし地まで連れて来てやった上、土地までたっぷりと与えて、我々の保護のもとで富を蓄えることまでも許した。そうではないかな?」
「その通りでございます」
「その返礼に我々が求めたのはただひとつ。真の信仰を身に付け、何事も我々の習慣に従うということだ。そして、お前はそうすることを約束した。しかし、世間の噂が正しいならば、お前はそれを怠っている」
預言者の厳粛な言葉に、テュンダレオスは両手を広げて抗議した。
当然だ。彼はモルモン教の習慣通りの生活をしており、信仰に反するような行いなどしてはいないからだ。たった一つの事柄を除いては。
「わたしが何を怠ったとおっしゃるので―――」
だが、預言者は彼の抗議を遮って、その事実を突きつけた。
「お前の妻たちはどこにいるのだ?」
言いながら、預言者が辺りを見渡す。
「挨拶をしたいから、みんなをここへ呼びなさい」
テュンダレオスの背に、ぶわっと汗が噴き出した。
たった一つ、彼はモルモン教の習慣に従っていない。
それは、妻を持つということである。
この頃のモルモン教が一夫多妻を教義としていたのは前述した通りだが、テュンダレオスはただの一人として妻を取ろうとしなかったのである。その固い意思は、周りから習慣に従って妻を迎えるようにどれほど説得されても変わらず、結果としてモルモン教の信徒たちの感情に瑕疵を付けてしまっていた。
内心はともかく、テュンダレオスは表向き平静を装って答えた。
「ええ、確かに私は結婚をしておりません。それは、女性の数が少ない上に、私などよりも遥かに資格のある人が大勢いるからです。それに、私は独りではありません。娘が何くれともなく世話をしてくれています」
彼の言は、しっかりと筋が通っていた。実際、未婚女性の数が減ってきているというのは事実であるし、既に中年の域を超えつつあるテュンダレオスよりも年若い男は大勢いる。気の利く娘が妻代わりに色々とやってくれているというのも、結婚しない理由としては十分だ。今できる最善の回答と言えるだろう。
だが、今回に限って言えば、その回答は自ら火中に身を投じるに等しい最悪のものだった。
「実は、その娘のことで話がある」
鷹揚に頷いた預言者が身を乗り出した。テュンダレオスの身体を預言者の影が覆う。それはさながら、罠に掛かった獲物を逃がさない強固な檻のようにすら思えた。
「とうに彼女は成人して、可憐な花となった。この地に住まう身分の高い者たちの間でも評判なのだぞ」
預言者は笑顔で娘のことを褒めそやしているが、テュンダレオスは心の中で呻いた。
自分が失敗したことと、この後に待つ最悪の未来を悟ったからである。いや、恐れていたが故に理解してしまった、と言った方が正しいかもしれない。
案の定、預言者の言葉は、「ところが―――」と続いた。
「その娘が事もあろうに異教徒と結婚を約束したという信じがたい噂が流れている。無論、お前の幸福を妬んだ者が流した根も葉もない噂であろうがな。我らが聖なる御方の掟、その第十三条には何とあるか。『真の信仰ある娘は、全て選ばれし民と婚姻すべし。異教徒の妻となるはこれ罪なり』。信仰心篤き兄弟が、よもや娘にそんな大罪を犯させるようなことはあるまい?」
テュンダレオスは口を噤んだまま何とも答えられず、預言者の顔を見上げるしかなかった。
その顔は影になって表情を読むことはできなかったが、影の中で怪しく緋色に光る瞳には、およそ感情と言うものが無く、先ほどの冗談めかした口調とは裏腹に、凍てつく氷にも似た冷やかな色を湛えている。
「お前の娘、マティルダと言ったか? アレはまだ若い。白髪頭の老人と結婚せよ、とまでは言わぬ。選択の自由も与えよう」
預言者の手がテュンダレオスの肩を掴んだ。
「プリアモスとパリスには息子が一人ずついるが、どちらも、お前の娘となれば喜んで家に迎えるであろう。マティルダに二人の内どちらかを選ばせなさい」
手は肩の上に乗せられているだけに過ぎなかったが、今のテュンダレオスにとっては鉄の塊に等しい超重量を有していた。今にも崩れ落ちそうな身体を必死で支えている彼の耳元に、預言者がそっと顔を寄せる。
「二人とも年若くて富もあり――――真の信仰心の持ち主だ。そうだろう?」
冷や汗で背中をぐっしょりと濡らしながら黙り込んでいたテュンダレオスが、ようやっと震える唇を開いた。
「しばらくの、猶予を、お与えください。あの娘はまだ、ほんの子供でございます。とても、とても結婚できるような年齢では、ありません」
その声は掠れ気味で途切れ途切れだったが、ほとんど娘の結婚を認めたような発言を受けた預言者は彼から身を離した。
「一ヵ月の猶予を与えよう」
「そんな――――」
短すぎる。と続くはずの言葉は、預言者の眼光によって喉の奥へと押し込まれた。
ふいに傍の茂みが揺れた。
脳裏に『ダナイト団』の噂が過ぎる。行方不明となった者のことが。今もまだ彼の帰りを待つ妻子の姿が。
緊張からゴクリと喉が鳴った。
―――頷くしか。頷くしかないのだ。
「は……い……」
「よろしい。一ヵ月後に彼女が答えを出すのだ」
頬が裂けるのではと思うほどに深い笑みを浮かべ、預言者は踵を返した。庭の砂利道をざくざくと歩いていく重々しい足音がテュンダレオスの脳髄を何度も殴り付けた。
祈るように天を見上げる彼にはしかし、先の預言者のように神の天啓など降りては来ない。
「お父さん」
背後から聞こえた声にハッとして振り返る。振り返った先、戸口の傍にはマティルダが青ざめた顔で立ち尽くしていた。
その顔を一目見ただけで、彼はすべてを娘に聞かれていたことを悟った。テュンダレオスは娘を抱き寄せ、ゴツゴツした大きな手で栗色の髪を優しく撫でた。
「わしらで何とか話を付ける」
すすり泣く娘の手をぎゅっと握り締めながら諭すようにささやく。
「明日、知り合いに伝言を頼んでおく。あの若者なら、わしらの苦境を知れば、電報にすら鞭を打つような速さで飛んで帰ってきてくれるさ」
父親の冗談に、マティルダは涙を零しながらも笑顔を浮かべた。
「ええ。あの人が帰ってくれば、きっと一番良い方法を考えてくれるわ」
「そうとも。メネラオスが戻るのを待つんだ。そうすれば必ず何とかなる。何も心配することはないんだよ」
テュンダレオスは自信に満ちた口ぶりで娘を慰めたが、マティルダはその晩、父親が普段よりも一層厳重に戸締りをし、飾り物としての役割しか与えられていなかった古い猟銃を念入りに手入れしている背中を見たのだった。
◆◆◆◆◇◆◆◆◆
「ホームズ! 辻馬車が来たぞ!」
アパートメントの外から二階に向かって声を掛けると、窓から手を出したホームズがその手を振った。今行く、ということらしい。
ところで、私が呼んだ辻馬車の御者は、偶然にも今朝早くに乗った辻馬車と同じ男性だった。図ったかのような偶然に、御者は野性味のある赤ら顔を歪めて笑い、私とその御者はそれからしばしの間、世間話などに興じた。
少しして私たちの部屋から現れたホームズは、事件現場である空き家を後にした時とは打って変わって、実に身綺麗な格好をしている。相変わらず性別を無視した紳士服ではあったが、わざわざ入浴させた甲斐もあって、後ろでくるりとシニヨン風にまとめられた金髪は絹のような滑らかさを取り戻し、顔に付いていた汚れもすっかり落ちて清潔感に溢れている。
先に辻馬車へと乗り込んだ私は、ホームズに手を貸すべく振り返った。だが、当の本人は辻馬車を引く馬の方を眺めている。
「ホームズ? 何をしているんだ?」
「いやなに、『そういえば、馬車を引く馬など、まじまじと見る機会など無かったな』と思ってね。存外、良い馬を使っているようだ」
言いながら、馬の頭から蹄の先まで舐めるようにして見ている。見られているのが落ち着かないのか、馬がブルルッと鼻を鳴らした。
さらには匂いを嗅いだり、蹄の跡を見たり、手袋を外して触ってみたりしている。
「ホームズ。巡査に話を聞きに行くんじゃないのか?」
溜め息混じりに問い掛けると、ようやく「そういえばそうだった」と踵を返した。
どうも彼女は興味を抱いたことに関して調べずにはいられない性質のようだ。
やれやれと思いつつ、馬車の中から手を差し伸べる。
「ほう。君も気が利くようになってきたようだ」
「そこは素直に感謝するところだろう」
私たちがそんなことを言い合いながら着席したのを確認した御者が軽く鞭を打つと、辻馬車は静かに走り出した。
「しかし、先ほどは驚いたよ、ホームズ。あれほど事細かに事件を推理してのけるなんて。けれど、さっきグレグスン警部とレストレード警部に説明した内容は、もちろん、まだ確かなことではないんだろう?」
そう訊ねると、ホームズは心底呆れたような溜め息と共に首を振った。
「いや、間違いの余地もないよ。いいかね、ワトスン君。これは君にも伝えたことだが、あそこに着いて最初に気付いたことは馬車の轍がくっきりと残っていたことだ。それこそ、君が簡単に見て取れるほどにね。雨が降ったのは昨夜なのだから、あんなに深い轍は昨夜付いたもので間違いはないだろう。それに馬の蹄の跡だが、四個のうち一個だけ輪郭が際立ってくっきりしているから、これだけ蹄鉄が新しいことが分かる」
私は思わず目を剥いた。余人には「馬車が通った跡があるな」としか思えないであろう状況からこれだけの情報を読み取っているとは、彼女の能力値には驚かされてばかりだ。特に、蹄の跡などというものから馬の特徴の一部を把握するなど考えもしなかった。
「馬車は雨が降り出して以降に来たもので、朝になってからは一台も来ていない―――これはグレグスンの証言がある―――ということはつまり、馬車は夜の間に来たものだ。したがって、それは犯人と被害者を乗せてきたものということになる」
「流石は名探偵、というべきだな。こうして聞いてみれば極めて単純明快なことだが、それをこうも容易く見抜くなんて。しかし、加害者の身長は?」
ホームズは現場を調査しただけで、加害者の身長が六フィート以上だと推理している。
「それこそ簡単な話だ。人間の身長というのは大抵が歩幅から分かるものだ。わざわざ計算式を提示するまでもないが、極めて単純なモノさ。この男の歩幅は外の泥道にも部屋にも残っていたし、ご丁寧にも身長を検算する材料まで残してくれていた」
そう言って、ホームズは空中に何かを書く仕草をした。
私が「あっ」と声を上げると、彼女が嬉しそうに笑みを浮かべて頷く。
「その通り。例の血文字さ。人間が壁に何かを書く場合には本能的に自分の目の高さに書くものだが、あの字は床から六フィートちょっとの所に書かれていた。こんな推理は子供の遊びのようなものだよ」
改めて、彼女の能力値の高さに舌を巻いてしまう。彼女が自分で言っていたように直観力と観察力にばかり優れているものと思っていたが、こうして科学的、数学的な知識を含めた上でのものであったらしい。ロンドン市民や普通の警察官は、足の長さ、あるいは足の幅に一定の数値を掛け、足すことで身長を求めることができるなど知らないだろうし、考えもしないに違いない。できたとしても靴跡から靴のメーカーを特定するくらいが関の山だろう。
「それじゃあ、年齢は?」
「あははっ」
いきなり笑われた。それほど答えが明らかな質問だっただろうか。ホームズは犯人が男盛りであると推理していたが。
「それはだね。四フィート半の水溜りをわけもなく一跨ぎにできるような男が、まさかよぼよぼの老人のはずがないからだよ。どうだい? 単純明快だろう? さあ、他に何か分からないことがあるかね?」
ならばと質問をぶつける。だが、彼女はそれらの質問に間髪入れることもなく答えていく。
「指の爪が伸びているという話とトリチノポリ葉巻のことは?」
「壁の文字は指を血に浸して書いたものだったが、拡大鏡でよく見ると、壁土を引っ掻いた跡があった。ちゃんと爪を切ってあればそんなことにはならんだろう。それから、床に散らばっていた灰を少し集めてみたが、黒ずんだ薄片状のものだった。こういう灰ができる煙草はトリチノポリ葉巻だけだ。埃の上に積もっていたから、前の住人のものでもない。それに、私自身、葉巻を口にするからね。自慢じゃないが、私は灰を一目見ただけで、それが葉巻でも刻み煙草でも、名の知れたものであるなら見分けることができる。こういった雑学的な面にも精通している点が、グレグスンやレストレードのような輩と名探偵との差だよ」
「自分で言うか、普通……。それじゃ、赤ら顔というのは?」
「ああ。あれは少々大胆な推理だよ。無論、間違いとは思わんがね。現場に残っていた血痕が鼻血であることから推理したんだが、まあ、今のところは訊かないでおいてくれたまえ」
私は額に手をやりながら呻いた。
「すっかり頭が混乱してきたよ。その二人の人物は―――二人とすればだけど―――どうして空き家なんかに入ったんだ? 二人を乗せてきた馬車の御者は? 犯人はどうやって被害者に毒を飲ませたというんだ? 殺人の動機は? 女性の指輪がどうしてあんなところにあったのかも、なぜ『RACHE』などというドイツ語を残していったのかも分からない。さっぱりだよ」
ちらりと指の隙間から様子を窺うと、私が漏らした苦悶の声を聞いたホームズは満足そうに顔をほころばせている。
「君はこの事件の問題点を、実に手際良くまとめてくれたね。私はこの事件の大筋を既に掴んだつもりだが、まだはっきりしない点も沢山ある。ただまあ、レストレードが発見した血文字については、ワトスン君には気の毒だが、あれは社会主義や秘密結社なんかの存在を匂わせて警察の目を眩ませようという小細工に過ぎないね」
「どうして?」
「あれがドイツ人の書いたものじゃないからさ。君も気付いているかもしれないが、Aの字などは確かにドイツ人流だったが、本当のドイツ人なら必ずラテン語で書くはずさ。だからドイツ人が書いたものではなく、ドイツ語は堪能でも、ドイツ人のやり方には詳しくない。そんな人物の手による計略に過ぎない」
私は一体何度ホームズという名探偵に驚かされるのだろう。彼女は科学、数学だけではなく他国人の習性や民族性に関する知識も豊富なのだ。いや、もしかすると捜査の役に立ちそうな学問については全て網羅しているのかもしれない。
「しかし、この犯人は―――」
そこでホームズが言い淀んだ。ここまで間髪入れずに答えてきた彼女が言葉に詰まるとは珍しい。
ホームズは数秒ほど何かを考えるように顎に手を当てて沈黙した後、嬉しそうに口角を吊り上げて微笑んだ。そして、私に向かってこう言った。
「いや、これはまだ語るべき時ではないな」
「って、おいおい」
明らかに何か重大な事実に気付いた様子だったのだが、彼女はどうやら今話す気はないらしい。それなら勿体ぶるようなことは止めて欲しいものだ。
溜め息と共に肩を落とした私の姿を面白そうに笑いながら続けた。
「ほら、手品師だって一旦タネを明かしてしまえば誰も感心してはくれないだろう? 私もあまり手の内を見せてしまうと、『なあんだ、結局は普通の人間じゃないか』ということになってしまうからね」
「いや、絶対にそんなことはないよ」
私はそう言って首を振った。そもそも彼女の立場からしてそこらの一般市民とは違うのだから、誰も普通の人間だとは思わないだろう。名探偵なんて堂々と名乗る人物がそうそういるとも思えない。
「少なくとも、君は探偵術というものを可能な限り厳密な科学に近づけたんだ。仮にタネが明らかになったとしても、普通の人間だなどと落胆したりはしない」
ホームズは、そう断言した私の言葉と熱意がお気に召したのか、彼女はおよそ私と出会ってから初めて頬を赤らめた。彼女は探偵としての技量についての賛辞を聞くと、美人だと褒められた女性のように敏感に反応してしまうようだ。もっとも、実際に「美人だ」と褒めた所で、彼女はピクリともしないだろうが。
咳をひとつ、ホームズが口を開いた。
「では、もうひとつだけ披露しておこうか。犯人と被害者は同じ馬車でやって来て、仲良く、かは分からないが、肩を組んで小道を歩いていった。そして家に入ると、部屋の中を歩き回った。いや、もっと正確には、エナメル靴を履いた方――被害者――はじっと立ったままで、もうひとり先の角ばった方――犯人――がさかんに歩き回ったんだ。床の埃を見ればそれが見て取れる。さらに分かることは、犯人は歩き回っている内に次第に興奮してきた。歩幅がだんだん大きくなっているからだ。おそらく、歩きながら喋り続けている内にどんどん気が高ぶってきたのだろう。そして悲劇が起きた。今分かっているのはこれだけだ」
今できる話は終わったとばかりに視線を馬車の行く先へと向けたホームズが続ける。
「さあ、急がなくては。今日はノーマン・ネルーダを聴きにハレの演奏会に行きたいんだ」
馬車はいつの間にか薄汚い通りやうらぶれた小道をいくつも抜け、オードリー・コート付近と思しい路地へと辿り着いていた。
馬車を止めた御者が、下塗りのまま放っておかれているレンガ壁の間にある狭い通路を指で差し示した。
「あの奥がオードリー・コートです。この先は馬車では入れないので、ここでお待ちします」
ホームズに手を貸しながら馬車を降りると、そこには如何にも陰気な空気が漂っていた。
オードリー・コートという場所はあまり気持ちのいい場所ではないようだ。ホームズを先導しながら狭苦しい通路を入って行くと小さなスペースに出た。そこは石畳が敷かれた四角い中庭で、その中庭を中心に大小の家がむさくるしくひしめき合っている。
中庭を走り回っている薄汚れた子供たちの群れを掻き分け、家々の間に掛けられたロープにぶら下がっている洗濯物の間を潜って、ようやく四六番地の家に辿り着いた。
家のドアに打ち付けられてた真鍮板には『ランス』という文字がざっくりと彫られている。どうやら件の巡査の家はここらしい。
ノックと共に声を掛ける。
「ランス巡査はいらっしゃいますか。レストレード警部の紹介で話を伺いに来たのですが」
ドアの隙間から顔を覗かせたのは、巡査の家族だろうか、中庭で遊んでいる子供たちと同じように少し薄汚れた服を身に着けた少女だった。
少女の話では、ランス巡査は睡眠によって休日を満喫しているらしく、今起こしてくるからと小さな客間に通された。
巡査は思いの外すぐに顔を見せた。しかし、その顔は寝ているところを起こされたために些か不機嫌だった。
ちらりと巡査の足元に目をやると、彼の靴は先が丸くなっているタイプの革靴だった。軽く落とした跡はあるものの、生乾きの泥が至る所にこびりついている。
「警部の紹介ということですが、昨晩の事件のことなら署に報告を出してあるんですがね」
すると、ホームズはポケットから半ソヴリン金貨―― 十シリングの価値がある金貨――を出して、なにやら意味ありげに手で弄びながら言った。
「実は、貴方の口から直接事件についての話を聞きたくてね」
「ま、まあ、私が知っていることなら何でも話しますよ」
受け答えしている間も、巡査の目はホームズが弄ぶ金貨に合わせて右往左往している。
獲物が釣れたとばかりにニンマリとしたホームズが訊ねた。
「では、見た通りのことを順番に聞かせてくれたまえ」
「それじゃ、最初から話します」
ランス巡査は馬巣織り――縦糸に綿糸や毛糸、横糸に馬の尾の毛を用いた織物――のソファに腰を下ろすと、ちらりと金貨に目をやり、何一つ漏らさずに話そうと決意したかのように眉間にしわを寄せた。
「私の勤務時間は夜十時から朝六時までです。十一時頃に酒場で喧嘩が一件ありましたが、それ以外は巡回中、何事もありませんでした。一時頃に雨が降り出して、丁度、ホランド・グローヴの受け持ち巡査に会ったもんで、街角でしばらく立ち話をしました。それから、多分、二時かそこらですが、もう一回りしてブリクストン通りの方に異常はないか見て来ようと思いました」
そこで巡査は一息入れ、当時のことを思い出すように視線を中空にさ迷わせながら事件現場を訪れたときのことを話し出した。
「酷い荒れ模様の寂しい晩で、馬車を一台見かけた他は人っこひとり通りませんでしたよ。こんな時は熱い酒でも飲みたいもんだ、なんて考えながらぶらぶら歩いていると、ふと例の家の窓に明かりがちらついているのが目に入ったんです。ローリンストン・ガーデンズの二軒が空き家だということを私は知ってましたんで、おや、こいつはおかしいなと思って玄関まで行ったんですが―――」
「途中で足を止めて、庭木戸まで引き返したんだろう?」
口を挟んだホームズを、ランス巡査は驚いて口をあんぐりと開けたまま見つめている。
固まってしまった彼の言葉の先をホームズが促す。
「どうしてかな?」
「あ、い、いや、その通りです。どうしてそいつをご存知なのかはさっぱりだが、とにかく玄関まで行ってみると、あんまりしんとしていて気味が悪かったもんだから、誰か一緒に来てくれないかなと思ったんです。ほれ、もしかしたら前の住人がこの世ならざる者になって帰ってきたんじゃないかと思ったりしてね。なんだかぞっとしちまって、通りに知り合いのランタンでも見えないかと門まで取って返したんですが、誰もいませんでした」
「通りには誰もいなかったと?」
「ええ。犬一匹いませんでしたよ。それから気を取り直して、また玄関まで戻ってドアを開けました。中には人の気配もなかったもんで、すぐに明かりの点いている部屋へ行ってみました。すると、マントルピースの上でロウソクが……赤いロウソクがゆらゆらと揺れていて、それで、その明かりで―――」
「それ以上は結構。何を見たかは分かっている」
言い淀んでいるランス巡査の話を打ち切ったホームズが、いちいち話を待っていられないと事細かに当時の状況を指摘し始めた。
「貴方は部屋の中を何度か歩き回り、死体の傍に膝をついた。それから部屋を出て台所のドアを開けようとした。そして―――」
「一体、どこに隠れていた!」
ソファから飛び上がったランス巡査が叫んだ。
「そんなに何もかも分かるわけないだろ!」
その表情は驚きと疑惑で満ちている。ホームズを見る目にも恐怖の色が見え隠れしていた。その気持ちは私にもよく分かる。ホームズと対峙していると、まるで彼女が千里眼でも持っているように思えてくるのだ。
そんな反応にも慣れたもので、彼女は朗らかに笑いながら懐から取り出した名刺を、テーブル越しに巡査に放った。
「私を殺人罪で逮捕するのは止してくれよ。私は追いかける猟犬の方であって、狼のように追われる側じゃない。グレグスン君やレストレード君に訊けば分かるさ。さて、それからどうしたのかな?」
受け取った名刺をまじまじと見ていたランス巡査は、ようやく腰を下ろしたが、その顔はまだホームズの推理が解せないようだった。もっとも、彼女の卓越した推理を凡人が解そうとするのがそもそも無理な話だろう。
「慌てて門まで引っ返して呼び子を吹きました。少しして小雨になり始めた頃、付近を巡回中の知り合いと、他にも二人ばかり駆け付けてくれました」
「その時も通りには誰もいなかった?」
「ええ、まあ、ものの役に立ちそうな奴はね」
含みのある物言いにホームズが片眉を上げる。
「どういう意味かな?」
問われた巡査は思い出し笑いのように、にやっと相好を崩した。
「私もずいぶん酔っ払いを見てきたけど、あそこまでぐでんぐでんになった奴は初めてですよ。門の所にいましてね。柵にもたれかかって、『コロンビーン』だの『ニュー・ファングルド・バナー』だのって、大声張り上げて歌ってんです」
「それは、米国の愛国歌『ヘイル・コロンビア』と米国歌の『星条旗』だろうね」
「へえ、そいつは知りませんでした」
感心したように声を上げたランス巡査を見たホームズが小さく溜め息を漏らした。当の彼は気付かなかったようだが。
「どんな男だった?」
「ぐでんぐでんの酔っ払いですよ。手が空いてりゃ、ブタ箱へ叩き込んでやるところだったんですがね」
「顔とか、体格とか、そっちの方はよく見なかったのかな?」
じれったそうな様子のホームズに首を傾げながらもランス巡査が答える。
「いや、ちゃんと見ましたよ。何しろ、駆け付けてくれた巡査と一緒になって抱き起こしたんだから。そう、確か、背の高い赤ら顔の男で―――」
そこまで聞いた私はドキッとした。事件現場でホームズが推理した犯人の特徴と一致していたからだ。現にホームズはそこでランス巡査の言葉を遮った。
「いや、そこまでで結構。それで、その男は?」
何度も遮られてムッとした様子の巡査は、ややぶっきらぼうに答えた。
「あんな奴に構っちゃいられませんでしたよ。無事に帰ったんじゃないですかね」
「どのような服装だったのかな?」
「確か、茶色のコートを着ていましたね」
「びしょ濡れではなかったかな?」
「濡れて……? そういえばあまり濡れた様子はありませんでしたね」
「なら、手に鞭を持っていただろう?」
「鞭? いや、そんなものは持ってませんでしたけど」
「ということは、どこかに置いてきたんだな」
思案顔で呟いたホームズがさらに問い掛けた。
「その後、その通りで馬車を見るとか、馬車の音を聞いたりしなかったかい?」
「いいえ」
一見、事件とは無関係の質問を立て続けにされて困惑した様子のランス巡査が首を横に振ると、肩をすくめながら「そうか」と呟いてホームズが立ち上がる。
「それじゃ、この半ソヴリンをどうぞ」
親指で弾いた金貨は、綺麗な弧を描いてランス巡査の手に収まった。
金貨を手にした彼は、先ほどまでのやり取りを忘れたかのように金貨に夢中になっている。
「しかし、ランス巡査。気の毒だが貴方は警察では出世できないようだ。貴方は夕べ、巡査部長になれるところだったんだ。貴方が抱き起こしてやった酔っ払いの男こそ、この事件の鍵を握る人物であり、我々が必死で探している人物なのさ。さあ、失礼しようか。ワトスン君」
キツネにつままれたような、しかし明らかに心中穏やかではない顔付きで冷や汗を流しているランス巡査を後に残して、私たちは馬車の方へ取って返した。
どうやら彼は昇進のチャンスを失った代わりに半ソヴリン金貨を得たようだ。もしかするとあれだけの情報に半ソヴリン金貨を渡すというのは、ホームズなりの同情心なのかもしれない。
「ドジな間抜けだ」
アパートメントへと戻る馬車の中で、ホームズが嘲りを含んだ溜め息を吐いた。
「あんな絶好のチャンスを取り逃がすなんて、私からすれば信じられないことだよ」
「確かにその酔っ払いの人相は、君が話していた犯人らしき人物と合っているようだが、しかしなんでまた、一旦逃げ出した犯行現場へ舞い戻る必要があるんだ?」
「指輪だよ、ワトスン君。事件現場で拾った指輪を取りに戻ったんだ。どうやら、あの指輪は犯人にとって大事なもののようだ。他の方法が駄目でも、あの指輪をエサに釣ることができる。私はきっと捕まえてみせるさ。賭けてもいい」
そこでふっと笑ったホームズが満面の笑顔を見せた。
「しかしまあ、これもみんな君のお陰だよ、ワトスン君。君がいなかったら私は出かけなかっただろうし、こんな素晴らしい研究対象を危うく逃すところだった。仮に芸術の用語を使うなら、『緋色の習作』とでも言ったところじゃないかな?」
言いながら手を上に伸ばし、何かを摘まむように指を動かした。
「人生という無色の糸の束には、殺人という緋色の糸が一本混じっている。私たちの仕事は絡み合った糸の束を解きほぐし、緋色の糸を引き抜いて、端から端までを明るみに出すことなんだ」
引き抜いたホームズの指に、緋色の糸が摘ままれているような錯覚を見た。
絡み合い、もつれ合った糸からするりと緋色の糸だけを抜き出す様は、まさに芸術的手腕だ。彼女が芸術の言葉を引用したのもあながち間違いではないのかもしれない。
それを成し得るほどの技量が彼女には備わっていると、今の私には信じることができる。
「さあて、少々遅くなってしまったが、昼食を済ませてノーマン・ネルーダを聴きに行くとしようか。アタックといい、ボーイングといい、彼女は実に素晴らしいよ。特に抜きんでている。あのショパンの小品は何と言ったかな? トゥラ・ラ・ラ・ラ、リラ・リラ・レイ……」
馬車の座席にそっくり返ったこの名探偵は、ヒバリのように綺麗な声でいつまでもさえずり続けていた。
ショパンはピアノ曲だからヴァイオリンで演奏するとなると小品と呼ぶのは差し支えが出るのだけれど、と思いつつも、気持ちよさそうに歌っている彼女に水を差すことは憚られた。だから、私はただ静かに彼女の歌声に耳を傾けることにした。そして、今日という日を振り返ってこう思うのだ。ホームズという女性にはなんと沢山の面があることかと。そう、改めて思うのだ。
◆◆◆◆◇◆◆◆◆
モルモン教の恐ろしき預言者と会見した翌朝、テュンダレオスはソルトレーク・シティへと出掛け、ネヴァダ山脈へ旅立つ知人を見つけ出してメネラオスへの手紙を託した。親子に恐ろしい危険が迫っているので、すぐに帰って来てほしいという手紙だ。
手紙を託したことでいくらか気持ちを軽くして農場へと戻ると、両側の門柱に馬が一頭ずつ繋がれているではないか。
来客の予定など無かったはずだが。そう思いながら家に入ると、さらに驚いたことに、家の中では二人の若者が我が物顔でリビングに居座っていた。幸いにも娘の姿はない。二階にでも引きこもってくれているのだろう。
若者の内のひとりは青白い馬面の男で、ロッキングチェアにふんぞり返り、両足をストーブに引っ掛けている。もうひとりは首が短く品の無いむくんだ顔立ちで、両手をズボンのポケットに突っ込んで窓から外を眺めながら口笛を吹いている。
家に入ってきたテュンダレオスに気付いた二人は、敬意の欠片もない顎をしゃくっただけの挨拶をした。ロッキングチェアに座っていた男が態勢もそのままに口を開いた。
「多分ご存知ないでしょうが、こちらはパリス長老のご子息、僕はプリアモス長老の息子のポルダケスと言います。この約束の地まで一緒に旅をしていたんですがね」
「神は御心のままに、その国にあらゆる民をお選びになる」
窓際に立っていたパリス長老の子息が、鼻に掛かったような少しこもった声で続ける。
「神のふるいの動きはゆっくりとしているが、この上なく細かく丁寧に行われるのです」
それは、神の御心とやらに反する者は容赦なくふるい落とされるということを暗に示している。我々に逆らえばどうなるか分かっているな、と。
テュンダレオスは冷ややかな表情のまま頭を下げた。そこには一分の敬意もない。
「こうして伺ったのはですね」
プリアモスがニヤニヤとした顔でテュンダレオスを見上げて言った。
「僕らの内どちらか、貴方とお嬢さんに気に入られた方がお嬢さんに求婚してくるようにと、僕たちの父親から言いつかったからです」
まあ、とプリアモスはチラリとパリスの方を見やって笑みを浮かべる。
「僕の妻はまだ四人、パリス君の方は既に七人ですから、どうやら僕の方が資格はありそうだ」
「いやいや、兄弟プリアモス。それは違うぞ!」
パリスが声を上げた。その声音には少しばかりの非難と、自分に対する自信が満ちている。
「問題は、妻が何人いるかではなく、何人養うことができるか、だ。この間、父から製粉所を譲り受けた僕の方が金持ちさ」
「だが、将来性は僕の方が有望だ!」
プリアモスも興奮して立ち上がる。パリスもプリアモスも新しく妻を娶ることは確定らしい。
「主が父を召された時には、なめし工場と製皮工場が僕のものになる。それに、僕の方が年長だし、教会でも上席だ」
「まあ、それはすぐに分かることさ」
そう言って口角を上げたパリスは、リビングに飾ってある鏡で自分の顔を眺めてにやにやとしている。余程、自分の顔に自信があるようだが、テュンダレオスにしてみればどっちもどっちという風情であり、きっと助けに向かっているだろうメネラオスの方がよっぽど良い男だ。
テュンダレオスは二人のやり取りを眺めながら怒りに身を震わせていた。だが、次のパリスの言葉で、やっとの思いで抑えていた怒りが弾けた。
「すべて彼女の選択に任せようじゃないか」
「おい!」
つかつかと二人に歩み寄って叫ぶ。
「娘に呼ばれたというなら別だが、それまではここへ二度と顔を出すな!」
二人の若いモルモン教徒はテュンダレオスの剣幕にびっくりして後ずさった。彼らからすれば、自分たちのような立場の人間がこうして競って求婚するというのは、当の娘にも父親にもこの上ない名誉であるはずなのだ。
「部屋の出口はふたつある。ドアと窓だ。さあ、どっちから出ていきたい?」
テュンダレオスの日焼けした顔と強靭な体躯は、それだけで巨大な壁を思わせるほどの圧力を放っていた。その上、ゴツゴツとした手は今にも殴り掛かってきそうなほどに固く握り締められていて、二人は思わず飛び上がった。
長老の息子であるが故に、喧嘩はおろか農作業さえしたことのない彼らからすれば、いかにも荒事に慣れていそうな老いた農場主に対して恐怖を覚えるのも当然のことだろう。あたふたと慌てて退散する彼らを戸口まで追い立てたテュンダレオスが怒鳴る。
「おい、返事ぐらいしたらどうだ!」
皮肉たっぷりの言葉に振り返ったプリアモスが叫んだ。
「くそ! きっと後悔するぞ! 預言者様と長老会議に逆らいやがって、きっと死ぬまで後悔することになるんだからな!」
「主の御手が重い罰を下されるぞ!」
パリスもまた怒鳴り声を上げる。
「主が自らお立ちになって、お前を懲らしめてくれよう!」
「だったら、まずはワシがお前らを懲らしめてやる!」
怒り狂って怒鳴り返し、銃を取りに部屋に戻ろうとしたテュンダレオスの腕を誰かが掴む。
「父さん、駄目よ!」
「離すんだマティルダ!」
必死に彼を引き留める娘の手をようやく振りほどいた時にはもう、彼らの馬の蹄の音は既に遠くなっていた。
「信心家ぶったゴロツキ共が!」
テュンダレオスが怒りに任せてテーブルを殴り付ける。その手は怒りでぶるぶると震えていた。
「マティルダ。あんな奴らの嫁になるくらいなら、いっそ死んでくれた方が嬉しいくらいだ」
「私だって死んだ方がマシよ、父さん」
その言葉は、心の底から紡がれたものなのだろう。娘の物言いはきっぱりとしたものだった。そして少し血の滲んだ父親の手を静かに包み込む。
「でも、メネラオスがすぐに帰って来るわ」
「ああ、そうだ。もちろんだとも。きっとすぐに帰って来る。そうすれば、きっとあの若者が奴らをぶちのめしてくれるだろうさ」
少しだけ落ち着いたテュンダレオスがゆっくりと息を吐きながら頷いた。
この気骨ある農場主と娘の下へは、確かに一刻も早く、誰かが助言と援助のために馳せ参じる必要があるだろう。
このような長老会議に対する反逆は開拓地始まって以来だった。ちょっと口を滑らせただけで行方不明になるほどだとするならば、これほどの大反逆を犯した者の運命はどうなるのだろう。
これまでにも、彼に負けず劣らずの富裕と名声を誇っていた者が何人も神隠しに会い、財産を教会に没収されてきた。彼ほどの勇気ある男であっても、影のように忍び寄る恐怖には流石に震えた。ただ、娘には恐怖心をひた隠しにし、務めて事態は軽いふりをした。少しでも安心させてあげるためだったのだが、愛情があるからこそ察しの良い娘は、父親が内心に不安と恐怖を抱えていることにはっきりと気付いていた。
今回しでかしたことについて、恐ろしき預言者から何らかの忠告があるものとテュンダレオスは覚悟していたが、果たしてその通りだった。ただし、それは思いもよらない形で彼の前に提示されることになる。
◆◆◆◆◇◆◆◆◆
「実に素晴らしかった。そうは思わないか」
「ああ、確かに心の洗われるような演奏だったとも。まさか、ピアノ曲をあれほど大胆にアレンジしながらも品位をまったく落とさないなんて、大した技量だよ」
演奏会の帰り道、私の高評価を耳にしながら頷くホームズは、会場を出た時から上機嫌だ。それこそ、「帰りは歩いて帰ろう!」などという言葉が彼女から出てくるほどだ。外出時には馬車を使うことがほとんどである彼女にしては稀有なことで、私は大層驚いた。
「ダーウィンが音楽について言ったことを知っているかい? 音楽を生み出したり観賞したりする能力は、言語能力よりも遥かに昔から人間に備わっていたそうだ。音楽から言葉にできないほどの感銘を受けるのも、おそらくそのためなんだ。我々の心には、遥かな原始時代のおぼろげな記憶が残っているんだろう」
「そいつはまた壮大な説だ」
「自然を解釈しようと思ったら、自然並みに壮大な考え方をしなくてはいけない。ところでワトスン君、これを見てみたまえ」
急に立ち止まったホームズが、自身の右側にあるショーウィンドウを指し示した。
その店は「BEATRICEベアトリス」というブランドの専門店であり、彼女が示したショーウィンドウには華美なドレスに身を包んだマネキンと、足首辺りに灰色のファーが彩られた黒のブーツが二種類飾られている。
「高級ブランド品に興味があるのか?」
「当然だろう。私は身だしなみには気を遣う性質なんだ」
「そ……うなのか」
喉まで出掛かった「それは嘘だろう」という言葉を私は何とか飲み込んだ。
事件のあった家で埃まみれ、汚れまみれになりながら調査している姿を見ている上、その姿を気にも留めずに電報局に出向いていた人間のものとは思えない発言である。今朝方の自分の姿を思い出せと言いたい。
「特にこれがいい。BEATRICEのブーツだ。このブランドがブーツを出すなんて珍しいことだよ」
「そうなのか? 私は高級ブランドには詳しくなくてね」
ショーウィンドウを眺めるホームズの目はキラキラと、それこそ事件の謎に挑む時に次ぐほどに輝いている。その様子からは外見相応の女性らしさを感じる。
彼女もひとりのレディと言うことか。そうしみじみと感じていたせいか、次の彼女の言葉に何も考えずに頷いてしまった。今思い出しても気が抜けていたとしか思えない。
「なあ、ワトスン君。ちょっと行って買ってきてくれないか?」
「ああ、分かった………って私がか!?」
「その通りさ。レディへのプレゼントは英国紳士の嗜みだろう? 現に君も今しがた私のことをレディであると感じたはずだが?」
「なっ!?」
知らず知らずの内に考えていたことが口に出ていたわけではないし、よもや心の声が聞こえる超能力者というわけでもあるまい。となれば、答えはひとつだ。
「嵌めたのか?」
「『嵌めた』とは心外だ。なに、単純な洞察の話さ。君は私に女性らしさというものをあまり感じていないようだったからね。そういった部分を見せれば気を抜くだろうと推理しただけのことだよ」
凡人には見えないものすら見ている。それがシャルロット・ホームズという人間であるということを忘れていた。事件現場に残された証拠と同じように、私自身のこともしっかりと見ていたらしい。
「なるほど。ホームズの計画通りというわけか。どうやら君は犯罪者にもなれそうだ」
「私は犯罪者にはなれないよ。高度な犯罪を行うためには創造性が必要だ。犯罪者とは一種の芸術家のようなものだからね。私は難問を解くことはできても創ることはできないのさ」
「へぇ。ホームズにも苦手なことがあるんだな」
「前にも言ったかもしれないが、私は万能ではないよ。およそ人間が成す事柄には完璧というものは決して存在しない。解けない謎が無いようにね」
「確かにその通りかもしれないな」
頷きながら、ショーウィンドウに飾られたブーツの値札に目を向ける。そこには目を剥くほどのゼロが並んでいた。少なくとも今の私の所持金で払える金額ではない。
「仕方ない。このブーツを買うことは承諾しよう。とはいえ、今すぐにというのは難しいぞ」
「ああ、勿論。私とて今すぐ欲しいわけじゃないさ」
ホームズがぽんぽんと私の背中を叩き、軒先に品を広げていた露店へと足を向ける。
「今日のところは、これで良しとしよう」
掲げた右手には露店で売られているものであろう細長い棒状のもの。そして、私の財布が握られていた。慌てて懐を探るが、やはりそこに財布はない。
「いつの間に―――君にはスリの才能まであるのかい?」
「だから言ったろう。洞察だと。君の気の緩み、死角、そう言ったものを見抜いただけさ」
言いながら手早く支払いを済ませ、悠々とこちらへと戻って来る。
「それは?」
「東の果てにあるジパングという国の品さ。『煙管』という、英国におけるパイプだよ。最近、ジパングとの交易が始まったから、こうして少しずつ向こうの輸出品が英国に入って来るようになってきたというわけさ」
「ああ、そういう話も巷で話題に上っていたな。その内、向こうの文化が英国で流行ることもあるのかもしれないな」
「君の言う通り、その可能性は大いにあるだろうね」
ホームズは購入した煙管をさっそく咥えて弄んでいた。咥え心地は悪くないらしく上機嫌で鼻歌などを鳴らしながら歩いている。
「ところで、随分とのんびりしているが、事件の方はいいのかい?」
「ああ、それなら今日の夕刊を見るといい」
「夕刊を?」
「事件のかなり詳しい記事が載っているよ。ただし、死体を担ぎ上げた時に女の結婚指輪が転げ落ちたことまでは書いていない。まあ、こちらにとっては好都合というものだが」
「なぜだい?」
「この広告だよ。今日、電報局に行った時、あらゆる新聞社に送ったものだ」
そう言って、いつの間にか買っていた新聞を投げて寄越した。それはロンドンでも有数の人気を誇る新聞社のものであり、第一面の端に大き目の広告が記載されている。その広告は遺失物の拾得に関するものであり、その最初にはこうあった。
今朝、ブリクストン通りのホワイト・ハート酒場とホランド・グローヴ間の路上で、金製の結婚指輪を拾得。心当たりの方は、今夕八時から九時までの間に、ベイカー・Y221・フューナス・ハドスン夫人邸二階のワトスン博士まで。
「勝手に名前を拝借してしまって失礼。と言っても偽名なんだがね。とはいえ、私の名前を出したんじゃあ、あのぼんくら連中にいらぬちょっかいを出されそうなんでね」
「それは別に構わないさ。しかし、もし誰かが受け取りに来ても指輪なんかないぞ」
「いや、ここにある。ほら」
ホームズが指を弾くと、きらきらとしたものが宙を舞って、差し出した私の手に収まった。それは金製の指輪だった。それも事件現場で目にしたものとよく似ている。
「そこの露店で買ったものだが、こいつで十分。瓜二つだ」
「いつの間に……」
きっとこれも私の財布から代金を支払ったのだろうな。思わず肩を落とす。
「それで、この広告を見て誰が来ると言うんだ?」
「もちろん、茶色のコートの男さ―――先の角ばった靴を履いた赤ら顔のね。自分で来なければ、仲間を寄越すはずだ」
「茶色のコートというと、ランス巡査の言っていた酔っ払いの男のことか?」
「その通り。件の酔っ払いの外見は私の予想に酷似していただろう? それに、昨夜は遅くから雨が降っていた。巡査が酔っ払いと出会った時には小雨になっていたようだが、事件の起きた家は住宅街の奥まった所にあり、酒場からはそれなりに距離がある」
「酒場? あの場所には詳しいのか?」
「いいや、詳しい場所は知らないさ。だが、ランス巡査が十時から勤務を開始し、酒場で喧嘩が起きたのは十一時頃。ということは巡回開始地点から酒場まではそれなりの距離があると推理できる。そして、彼がもう一回りしようとした時に異常に気付いたのであれば、そこは巡回が終わる場所の近くだろう。であれば、酒場からも相応に距離があるということさ」
「それだけの情報でそこまで分かるのか」
私が感心している間にも彼女の推理は続く。
「そして、酒場から距離があり、泥酔した状態で歩いてきたにも関わらず、あまり濡れた様子はなかった。それはつまり、近くまで濡れずに来たか、あるいは着替えたということだ。泥酔した人間に限って考えれば、どちらもまずあり得ないだろう。仮に友人が辻馬車に乗せてきたのだとしても途中で放り出すとは考えづらい。結論として、その酔っ払いはフリをしていただけだよ。事件現場の門前をうろついているのを怪しまれてはと、咄嗟に酔っ払いのフリをしたわけだ」
「流石の推理だが、わざわざ指輪ひとつのために危険を冒して事件現場に戻って来るものか?」
「勿論さ。私の判断が正しければ―――いや、絶対に間違いない。そいつはどんな危険を冒してでも必ず指輪を取り戻そうとするはずだ。男はプリアモスの死体に屈み込んだ時に指輪を落としたが、その時は興奮していたせいか気付かなかった。家から離れてから気が付いて、急いで引き返した。茶色のコートに着替えてね。だが、うっかりロウソクを消し忘れていたために、もう警官が来ていた。だから酔っ払いのフリをしたんだよ」
つまり、彼女の推理によれば、あの指輪はそれだけその男にとって大切なものであるらしい。それこそ血眼になって探しにくるほどに。
「だから、あの広告を見れば必ず受け取りに来ると?」
「そうともさ。あの男の立場に立って考えればすぐに分かる。家の中に入れなかった以上、もしかしたら指輪は家を出てから落としたのかもしれないと思えてくるだろう。大切なものであるからこそ、たとえ間違いであったとしても、自身の手に戻る可能性の高い方に期待してしまうのが人間の性だからね。するとどうなるか。遺失物習得欄にでも出ていないかと必死に夕刊を見るだろう。そして、この広告に目が留まる」
大喜びさ! そう言って、ホームズが仰々しく手を広げた。それほどに自分の推理に自信があるのだろう。そして、そこには迂闊な容疑者に対する若干の嘲りと失望が混じっているように思えた。
「罠だなんて思うものか。道で拾われた指輪がすぐに殺人事件と結び付けられるわけないじゃないか。少なくとも事件の仔細を知らない輩が罠を張っているなどとは思いもしないさ。来るよ。必ず来る。それもあと一時間もしない内にだ!」
「それで、来たらどうするつもりだい?」
「あとは私に任せてくれればいい。何か武器を持っているかい?」
「前に使っていた軍用拳銃と、弾丸が少しならあるはずだ」
「それは素晴らしい。それじゃ、早速アパートに戻って手入れをしてもらうことにしよう。相手はおそらく自暴自棄になっているからね。私としては、油断させておいて不意を突くつもりだけれど、要人に越したことはないさ」
今にもスキップしそうなほどに軽やかな足取りで進むホームズの後を追い、アパートメントに戻った私は、彼女の忠告に従った。寝室に隠しておいたピストルを持ってリビングに戻ってみると、主にホームズの私物で雑多になっていたテーブルは片付けられ、彼女は愛用のヴァイオリンを盛んに掻き鳴らしていた。それはもう嬉しそうに。
「いよいよ面白くなってきたぞ」
私の姿を見るなりホームズは口元に笑みを浮かべながら口を開いた。
「今しがたアメリカから電報の返事が来た。私の判断は間違っていない」
「というと?」
「被害者であるプリアモスの結婚関係だけに絞って、クリーヴランド市の警察署長に宛てて紹介する電報を打ったんだが、その電報によると、プリアモスはかつてメネラオス・ヘレネーという昔の恋敵に命を狙われているという理由で警察に保護を求めたことがある。しかも、そのメネラオスはヨーロッパに向かった形跡があるとのことだ」
もたらされた情報は決定的なものだった。事件を解決するための鍵。ともすれば、答えそのものと言えるだろう。
「まさか、そのメネラオスという中年男が?」
「ああ。君の考えた通り、十中八九その男が犯人だろうね。ただ―――」
言葉を途中で止めたホームズが窓の外へと視線を向けるのと同時に、玄関のベルがけたたましく鳴り響いた。
ホームズはそっと立ち上がって、椅子を玄関の方に移した。そこは入ってきた相手を即座に捕まることができる位置だ。彼女は件のメネラオスが指輪を取りに来ると確信しているようだ。
メイドが玄関広間を横切る足音に続いて、ガチャリと扉の掛け金を外す音がした。
誰かが唾を飲み込む音が聞こえた気がした。
「ワトスン先生のお住まいはこちらでしょうか?」
よく通るが、しかし少し眉を顰めてしまうような耳障りな声だった。もしも大学の講義などで耳にすれば居眠りなどできないだろう。
メイドの返事は聞こえなかったが、玄関のドアが閉まって、誰かが階段を昇って来る。それはよろよろと引きずるような足音だった。その足音を聞いたホームズの顔が曇り、何事かを考えるような表情をしている。
足音はゆっくりと廊下をやって来て、そしてドアが弱々しくノックされた。
「どうぞ!」
私が大きな声で答えると、ホームズが予想していた凶暴そうな男には程遠い、ひどく年を経たしわだらけの老婆が杖を突きながらよちよちと入ってきた。老婆は照明の明るさに眩しそうにしながらも、膝をちょこんと曲げてお辞儀をし、しょぼしょぼした目を盛んにしばたたいて私たちを見た。
「ワトスン先生はどちらでしょうか?」
「私です。ご用は何ですか?」
嬉しそうに笑顔を浮かべ、老婆は震える手でポケットを探った。
ちらりとホームズに目をやると、彼女は酷くがっかりした表情をしており、私の方も動揺を抑えるので必死だった。しかし、次の瞬間、口元が弧を描いたのを私は見逃さなかった。
当の老婆は、探し物が中々見つからないのか、持ち手が三つに分かれている珍しい形の杖で身体を支えながらポケットの奥を探り、夕刊の切れ端を取り出した。それは案の定、例の広告が記載された部分だ。
「実は旦那様、この広告を見て参りましたんですが―――」
そう言うと、老婆はまた小さくお辞儀をした。よく見ると、老婆の持っている杖の持ち手には蛇のような意匠が施されている。
「ブリクストン通りで拾われたあの金の結婚指輪は、娘のサリーのもんでございます。娘は丁度一年前に結婚しまして、亭主はユニオン汽船のボーイなんですが、帰って来て指輪が無いと知ればどんなことになりますやら。普段から怒りっぽい男なんですが、お酒でも入りますと手が付けられないんでございます。実はその、娘は夕べサーカスに参りまして―――」
「これが娘さんの指輪ですか?」
話が長くなりそうな気配を感じた私は、老婆の言葉を遮ってホームズが用意した指輪を差し出した。
「ああ、神様、ありがとうございます!」
そう叫び、興奮した様子の老婆は、空いた私の手を握ったまま何度も頭を下げた。その目は涙で赤く腫れ上がっている。
「これでサリーも安心して眠れます。確かにこの指輪でございます」
大仰な態度に些か呆れながら、私は鉛筆を取りながら尋ねた。
「それで、ご住所はどちらですか?」
「ハウンズディッチのダンカン通り十三番地でございます。ここからですと、随分と離れたところでございます」
「ハウンズディッチからでは、どこのサーカスへ行くにしてもブリクストンは通らないよ」
ホームズがピシャリと切り返した。表情こそ何の感情も浮かんではいないものの、キラキラと輝く瞳は獲物を見つけた好奇心旺盛な猫を思わせる。
確かにホームズの言う通り、ハウンズディッチからサーカスに行く場合、かなり遠回りをしなければブリクストン通りを抜けることはない。
老婆はキッと振り向いて、赤く腫れぼったい小さな目で彼女を睨み付けた。
「旦那様がお尋ねになったのは、このわたしの住所でございますよ。サリーの方は、ペカムのメイフィールド・プレイスに下宿しております」
ホームズは小さく笑みを浮かべながら肩を竦めている。
「それから、あなたのお名前は?」
「私はソーヤー、娘はデニスでございます。亭主はトム・デニスと言いまして、これで、船に乗っていれば中々きびきびと働くもんですから、会社のボーイの中でも大変評判がよろしいんです。でも陸に上がりますとね、ほれ、女やら酒やらで―――」
「ではソーヤーさん、指輪をどうぞ」
ホームズの合図――手で先を促すような――に従って、私は老婆の言葉を遮った。
「確かに娘さんのものらしい。正当な持ち主にお返しできて、わたしもほっとしました」
老婆は口の中でもごもごと感謝の言葉を述べ立てながら指輪を大切そうにポケットに仕舞うと、また足を引きずって階段を降りていった。老婆が出てゆくと、ホームズはさっと立ち上がって自分の部屋に飛び込み、数秒後にはもう、アルスター外套――目の粗い毛織物で作られた長くてゆったりとしたオーバーコート――にマフラーという格好で現れた。
「あの女の後をつけてくる。犯人の仲間に間違いないから、つけてゆけば男の居所が分かるはずだ。起きて待っていてくれたまえ」
そう言うと、老婆が玄関のドアを閉めて出ていく音が聞こえるか聞こえないかの内に、私が何か言う暇もなく部屋を飛び出していった。窓から覗くと、老婆が通りの向こう側をよぼよぼと歩いてゆき、ホームズが少し後からつけてゆく。
果たして、彼女の推理は初めから間違っていたのだろうか。それとも、いよいよ事件の核心に迫ろうとしているのだろうか。いや、彼女の推理は正しいのだ。私はそう直感している。わざわざ「起きて待っていてくれ」などと言われるまでもなかった。尾行の結果を知るまでは、とても眠れそうにない。手の中に握り込んでいたメモ書きがクシャッと音を立てた。
◆◆◆◆◇◆◆◆◆
それは驚きと恐怖と混乱が等価で混じり合ったような複雑な悲鳴だった。
「なっ、あっ!?」
翌朝、目を覚ましたテュンダレオスは大声を上げた。その時の彼の感情を何と表現すれば良いだろうか。掛け布団の胸の辺りに小さな紙切れがピンで留められ、乱暴な字で大きくこう書かれていたのである。
「改心のための猶予として、二十九日を与える。その後は―――」
全て言い切らない書き方が、どんな脅し文句にも増して凄みがある。
背筋を震わせたテュンダレオスは、転げ落ちるようにベッドを出ると、すぐさま家じゅうを駆け回った。間違いなくどの部屋のドアも窓も厳重に戸締まりがしてある。昨日、あのふざけた連中が無遠慮に上がり込んできた後なのだから普段にも増して戸締まりに注意を払ったのだ。アリの子一匹すら入り込む余地などないだろう。その上、使用人たちは全員別棟で寝ている。
だというのに、この警告状は一体全体どうやって部屋に舞い込んだと言うのだ。
その疑問が頭を過ぎった瞬間、ゼース・テュンダレオスは極度の不安に陥った。震える手で紙切れを握り潰して捨て、大切な一人娘には黙っていたが、ひとり震え上がった。それは、娘の前で手の震えを押さえるのに全神経を注がなければならないほどだった。
二十九日とは、どう考えても預言者ダイティが約束した一ヵ月の残りの日数だ。未知の力を操る敵を前にしては、人間の力や勇気がどれほどの役に立つだろう。あのピンを留めた手は彼の息の根を止めることだってできたはずだ。それなのに、それが何者の手によるものなのかを彼が知ることはないのである。
ところがその翌朝には、さらに震え上がるようなことが待っていた。
二人が朝食のテーブルにつくと、マティルダが急に悲鳴を上げて天井を指さした。彼女が示した先、天井の真ん中には、燃えさしの棒きれか何かで殴り書きしたらしい『二十八』という文字が、その存在を主張するようにでかでかと書かれていたのである。
預言者との会話を聞いていない娘にはその数字の意味が分からなかったし、父親も敢えて教えようとはしなかった。それでも、賢い娘のことだ。何とは無しに事情に気付いているのだろう。朝食の間、いつも通りに振る舞う娘の顔には不安や恐怖が見え隠れしていた。
その晩、テュンダレオスは銃を抱えて徹夜で警戒した。朝日が昇るまで、人影を見かけることも物音を聞きつけることもなかった。だが、安堵の息の共に部屋を出た彼の口は、それ以上、何も吐き出すことができなかった。
『二十七』
それが、ドアの正面の壁にペンキで大きく書かれてあったのだ。夜通し、物音ひとつ聞こえなかったはずなのに。
一日、また一日と、そんな具合に過ぎていった。朝になると必ず、姿なき敵が殴り書きを残している。猶予期間があと何日残っているか、しっかりと目につく場所に記されている。親子の運命の刻限を示す数字は、時には壁に、時には床に書きつけられ、また、時には小さな紙切れに書いて庭の門や手すりに張り付けられていた。
どんなにテュンダレオスが警戒していても、この警告が日々どうやって届くのかどうしても分からない。ついには、警告を目にするとこの街で囁かれているダナイト団の迷信のような恐怖に襲われるようになった。次第にやつれ、落ち着きを失い、追い詰められた草食動物のような不安な目付きになっていった。いつしか自身の農場どころか、家から一歩たりとも出ることがなくなっていた。残された希望はただ一つ、ネヴァダから若き猟師が帰って来てくれることだけだ。
二十が十五に、十五が十になっても、若者からは何の連絡もなかった。
数字だけがひとつずつ着実に減っていく毎日。道路に蹄の音が響く度、御者の掛け声が聞こえる度に、老農場主はやっと助けが到着したかと喜び勇んでドアを開け、肩を落として踵を返すのが日常になっていた。
とうとう五が四に、さらに三となり、もはや脱出の望みも枯れ果ててしまった。開拓地を取り囲む山を、地理に疎い彼の力で抜け出すことは不可能に近い。少しでも往来のある道路は全て厳重に監視され、長老会議の許可なくしては一人たりとも通行を許されない。
この地に留まるにせよ、脱出を試みるにせよ、彼らの身に災いが降りかかるのは、事ここに至ってはもはや避けられそうにない。それでも、娘の恥辱になるようなことに同意するくらいならば、いっそ共に死を選ぶという決意だけは断じて動かないのだった。
◆◆◆◆◇◆◆◆◆
ホームズがどのぐらいで帰って来るか見当もつかなかったが、私は普段ホームズが占拠しているお気に入りの椅子に腰掛けて紅茶を飲んだり、とある教授が書いた『小惑星の力学』を拾い読みしたりしていた。やがて十時を過ぎ、十一時を過ぎ、ようやく玄関の掛け金を外す音を耳にしたのは既に十二時近かった。
部屋に入って来たホームズの顔を見るなり、件の尾行が失敗に終わったことを悟った。だが、彼女の表情から察するに、してやられて、いっそ愉快な気持ちと悔しい気持ちがせめぎ合っているようだった。結局、おかしい気持ちの方が勝ちを収めたらしく、彼女はいきなり腹を抱えて笑い出した。
「いや、こればかりはヤードの連中には知られたくないものだ」
手を振って私をどけ、椅子にどさっと腰を下ろしながら元気な声で言う。
「随分と連中をからかってきたから、今回のことが知れたりしたら一生の語り草にされそうだ。もっとも、こうして笑っていられるのも、最後にはこのお返しができるって自信があるからだがね」
「それで、どうだったんだ?」
「ああ、失敗談だって披露するに、やぶさかじゃないよ。しばらく尾行していくと、婆さんの歩き方がひょこひょこし始めた。どうやら足を痛めているらしい。杖はそのためだな。やがて立ち止まると、通りかかった辻馬車を呼び止めた。行き先を立ち聞きするために、気付かれないように傍に寄ったんだが、そんな心配はいらなかったよ。婆さんときたら、道の反対側まで聞こえるようなバカでかい声で『ハウンズディッチのダンカン通り十三番地まで』と怒鳴ってくれたもんだよ」
飲みかけの私の紅茶で喉を潤わせ、ティーカップを差し出しておかわりを要求しつつ、ホームズが続けた。
「こりゃ、ほんものの住所だったかなと思いながら、婆さんが乗り込むのをしかと見届けて馬車の後ろにしがみついた。こいつはね、卑しくも探偵たる者には必須の技術なんだ。尾行を続けるには、御者にも気付かれることなく馬車に乗る必要があるからね」
淹れ直した紅茶をひとすすりして、満足げに息を吐く。
「さて、馬車は動き出し、問題のダンカン通りまで一度もスピードを緩めず走り続けた。十三番地のちょっと手前で私は馬車から飛び降り、何食わぬ顔で通りをぶらぶら歩いていった。勿論、馬車からは片時も目を離さずにね。すぐに馬車は止まり、中年の御者がひょいと降りてドアを開け、客が出てくるのを待っている。ところがどうだ! 誰も降りてこない!」
大仰に驚いたジェスチャーをしながらも彼女の顔には喜色が浮かんでいた。余程、予想外の展開が起きたことが嬉しいのだろう。
「近付いてみると、御者は空っぽの馬車に顔を突っ込んで、頭でも変になったみたいにくまなく座席を探りながら、それはそれは見事な罵り言葉を連発していたよ。当の客は影も形も無いんだから、いくら怒鳴ったところで乗車賃は出てこないんだがね。仕方ないから、十三番地を訪ねた御者くんの後をこっそりと付けてみると、家の主はケジックというれっきとした壁張り職人で、ソーヤーとかデニスとかいう名前はひとつも出なかったよ」
「それじゃあ、なにか? あのよぼよぼのお婆さんが走っている馬車から飛び降りて、君にも御者にも気付かれなかったとでも言うのか?」
「誰が婆さんなものか!」
今度は悔しい気持ちが勝ったらしい。ホームズは勢い込んで言った。
「まんまと一杯食わされるとはな。老いぼれていたのはこちらの方だ。あれは若い男の変装だったに違いない。ものすごく身軽な奴で、しかも大した役者だ! あるいは―――」
急に言い淀んだ彼女は、ほんの一瞬だけ考え込んで、しかし、すぐに溜め息を吐きながら頭を掻いた。
「いや、それにしても見事な変装だった。奴は勿論尾行されているのに気が付いていて、上手いこと私を撒いたのさ。どうやら、私が追い掛けている相手には危険もいとわない仲間が付いているようだ。その正体は分からないがね」
さて、と一息に紅茶を飲み干して立ち上がり、彼女はヴァイオリンを手に取った。
「ワトスン君、折角だ。眠る前に一曲ばかり聴いていくといい」
突然の申し出に驚いた私ではあったが、彼女の腕前は相当のものだ。一も二もなく頷き、ぷすぷすと燻り続ける暖炉の前に深く腰掛けた。
ホームズの手腕は確かに見事だったが、その日の音色は低く悲しげで、深く深く潜っていくようなメロディだった。調査に乗り出したこの不可解な事件のことを、彼女はまだ考え続けているのだ。こうしてヴァイオリンを弾いている今もなお。
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