第二章 The First Victims and survey contents

 六月のある暖かい朝のことだ。


「今日も良いお天気ね!」


 抜けるような青空に向かって、馬上のマティルダは大きく伸びをした。


 眼前の街道では、カリフォルニアで起きたゴールド・ラッシュの影響もあって、重い荷物を積んだラバの列が西へ向かって長々と続いている。


ここ〈約束の地〉も大陸を横断する陸路の一部となっており、旅人や移住者相手の商売で随分と活気づいており、それこそモルモン教徒の象徴であるミツバチのように忙しなく働いていた。


 無論、農家の娘たるマティルダもその一人だ。父親の使いとして町の中心部へと向かっていたのである。


「はっ!」


 掛け声と共に鞭を入れ、遠い放牧地からの羊や牛の群れ、長旅で疲労した人馬や旅の一団、そういった雑踏の合間を縫うように、自身の長い栗色の髪をなびかせながら、見事な手綱さばきで馬を走らせ続けていた。


 それは傍から見れば、若さに任せた無謀な突撃であったのだが、幸いと言うべきか、太陽の光さえ跳ね返すほどの、この白人娘の美しさに打たれた旅人たちは皆一様に立ち止まり、結果として彼女の操る馬に蹴り飛ばされずに済んでいるのであった。


 しかし、町はずれまで来た所で彼女はたたらを踏んだ。牧童たちに引かれた牛の大群が道を塞いでいたのである。


「あーん、もう!」


 最初こそ立ち止まっていたものの、いつまで経っても途切れることのない牛の群れに業を煮やしたマティルダは、何を思ったか、花のように可憐な唇をひと舐めすると、せっかちにも強行突破を図ったのだ。


 だが、一歩踏み込むや否や、たちまち背後を牛に塞がれ、あっと言う間に、凶暴な角を生やした牛に四方八方を囲まれてしまっていた。


「へぇ……」


 しかし、アメリカ女であるマティルダはこの程度では動じなかった。長い間、農場で過ごしていただけあって、牛の扱いには慣れているからだ。彼女の眼は、むしろ挑戦的に輝いている。


「んっ」


 と気合いを入れると、さして慌てることもなく、僅かな隙間を潜り抜けるように馬を進め、素早くこの大混雑の中を掻き分けていく。


 間もなく抜ける、と思った矢先、運悪く一頭の牛の角が馬の脇腹を突いた。たちまち狂乱状態に陥った馬に、マティルダは必死にしがみつく。


「っ!」


 悲鳴を上げる暇もない。


 怒り狂ったように跳ね回る馬など、よほどの乗馬熟練者でもなければ、ひとたまりもなく振り落とされている。落とされた先は牛の群れ。その後に我が身がどうなるかなど自明の理だ。未だに鞍から振り落とされていないことは、彼女が重ねた日々の鍛錬の賜物だろう。


 恐怖から手は震え、頭では離してはいけないと分かっているのに、手綱を離してしまいそうになる。絶望が思考を塗り潰していく。いっそ何もかも諦めてしまえば―――と、その時だった。


「いま助ける!」


 低く力強い声がすぐ傍から聞こえたと思ったと同時、日焼けしたたくましい手が暴れる馬のくつわをがっしりと掴み、強引に牛の群れを掻き分けながら、たちまち彼女を群れの外へと連れ出してしまったのだ。


 あまりのことに、マティルダは目を瞬かせた。その表情は、助かったことが信じられないと言わんばかりだった。


「娘さん。怪我はないですか?」


 命の恩人たる青年は、濃く日焼けした精悍な顔立ちとは裏腹に行儀よく訊ねた。彼はいかにも勇敢そうな葦毛の馬に跨りながら、心配そうな表情を浮かべていた。


 当のマティルダは、その日焼け顔を馬上から見上げると、安堵の笑顔と共に天真爛漫に答える。


「ああ、驚いた。牛の群れに分け入ったくらいで、この子がこんなに怯えるなんて思ってもみなかったの」


「鞍にしっかりとしがみついていたから助かったんですよ。あと少し遅れていたら危うい所だった」


 彼の顔は真剣だった。おそらくは心の底から心配したのだろう。


「ええ。私が軽率だったわ。ごめんなさい。それから、ありがとう」


 流石に自分でも危険な行為だと分かっていたから、マティルダは素直に頭を下げ、そして感謝の言葉を口にした。


 感謝を受けた青年は、少し照れくさそうに鼻の頭を掻きながら尋ねる。


「ゼース・テュンダレオスのお嬢さんでしょう? 彼の家から馬に乗って出てくるところを見ましたよ」


「そういう貴方は?」


 彼女が尋ね返すと、彼は日焼けした顔をくしゃりと潰して笑った。


「俺はメネラオス。セントルイスのメネラオス・ヘレネーです」




 ◆◆◆◆◇◆◆◆◆




 その日のロンドンは朝から霧がたちこめていて、どんよりとした陰鬱な雰囲気だった。道すがら窓から見える家々の屋根には灰色のベールがまとわり付き、まるで亡霊の群れがロンドンの空を多い尽くしているかのようだった。その景色は、見る者をより陰鬱な気分にさせる。


 しかし、馬車の対面に座るホームズは上機嫌だった。


 私がそんなことを考えている今も、私と、外で手綱を握っている御者に向かって、やれストラディバリウスがどうの、アマティがどうのと、ヴァイオリンの話を止まることなく喋り続けている。私はともかく、一介の御者に過ぎない中年の男にとっては縁のない話らしく、彼はやや伸びた爪で頬を掻きながら曖昧な返事をすることしかできずにいる。


 芸術方面に敏感な人間が御者になるわけもなく、ロンドンで暮らす一般市民なら、誰もが彼と同じ反応をするだろう。かと言って、お客様であるホームズの話を無視するわけにもいかない。彼は愛想笑いを浮かべながら、体格の良い身体を恐縮させている。


 大変な仕事だ。と彼に同情していると、ふいにホームズがこちらに水を向けた。


「ワトスン君。君はヴァイオリンにも学があるようだね」


 おそらくは彼女の話に対する、御者と私の反応の差から推理したのだろう。


「ホームズほどではないが、多少はね。それにしても、随分と上機嫌だな。これから陰鬱な事件現場に向かっているというのに」


 御者が身を固くして手綱を強く握った。突然曲がり角が現れたためだろう。少し速度を落として曲がり角を抜ける彼の馬捌きを横目に見ながら続ける。


「まさか、もう事件を解決した。とか言わないだろうね?」


「それこそ、まさか、さ」


 そう言って、ホームズが肩を竦めた。


 馬が安定したらしく、御者が小さく息を吐いた。制服である黒い紳士服の肩から力が抜けたのが明らかに見て取れる。まだロンドンの道に慣れていないのかもしれない。


再び、馬車が緩やかに路地を走っていく。


「まだデータがない。グレグスンの手紙には事件の詳細など書いていなかったからね。何の材料もないのに推理を始めるのは大きな間違いだよ。思考が凝り固まってしまう。凝り、偏った思考は誤った結論を導き出してしまう要因になる」


 なに、データはすぐに手に入るさ。そう続けながら、彼女は窓の外を見やった。


 既にブリクストン通りに入っていたようだ。少し離れたところに、グレグスン警部が手紙で示した家が見える。


「おい、御者君! ここで止めてくれ!」


 問題の家までまだ百ヤード――およそ九十メートル――ほどあったが、ホームズがどうしても降りると言うので、私たちはここで馬車を降りることとなった。どうやらここから先は歩いていくということらしい。


 ローリンストン・ガーデンズ三番地には、どことなく不吉で陰湿な雰囲気が漂っていた。それは、決してブリクストン通りの外れにあるから、という理由ではないだろう。


 湿った空気に眉をしかめつつ、降り口から出した顔を引っ込める。


 私は御者に少しばかりのお金を渡し、一言二言を告げてから馬車を降りたのだが、ホームズは既に歩き出しており、その視線はじっと地面を見つめている。


 この番地はメインとなる通りから離れた住宅地の先にあり、奥に四軒ある家の内、二軒には人が住んでいるようだが、残る二軒は空き家となっているようだった。事件があったのは、空き家である内の一軒だ。


 私が家々の様子を見ている間も、ホームズは真剣な表情で地面を見つめながら歩いている。


 昨夕から深夜にかけて降り続いていた雨のせいか酷くぬかるんでいる道を、二軒分歩いた先に問題の家があった。


「どうやらあそこみたいだ」


 家の周りには野次馬が群がり、少しでも中の様子を窺おうと背伸びしたり、目を凝らしたりしている。ただ、家を囲むレンガ塀に寄りかかるようにして、がっしりとした体格の巡査が二人控えているせいで、それ以上は近づけずにいるようだ。


 既に話が通っているらしく、会釈をすると、二人の巡査は何も言わずに軽く返礼してホームズと私を通してくれた。


 私は、てっきりホームズがすぐにでも家に飛び込んでいくものだと頭の隅で考えていたのだが、そんな気配はまるでない。それどころか、彼女は先ほどからこちらを見向きもせずに地面を見つめ続けている。そのまま問題の家を通り過ぎたかと思えば、すぐにこちらに取って返してきた。


「ホームズ、何をしているんだ?」


 通りにしゃがみ込んで地面を触っている彼女に声を掛ける。


 私が見るに、どうやら道に刻まれた轍を気にしているようだが、果たして彼女は私の見立て以上の回答を返して寄越した。


「馬車の轍と蹄鉄の跡だよ。車体の幅から考えて辻馬車のようだ」


「辻馬車が通るのなんて珍しいことじゃないだろう」


 通りの外れとはいえ、ここはロンドンだ。馬車の往来など当たり前のことだし、ここを辻馬車が通り過ぎることなど日常茶飯事だろう。


 私の言葉を、ホームズは鼻で笑った。


「この轍を少し先まで見てみたまえ。何か気付かないかね?」


 言われるまま視線を轍の先へと向ける。


 辻馬車が刻んだ轍は、家の玄関へと続く小道の前を過ぎた辺りで少しだけ浅くなり、それまで規則正しかった蹄鉄の跡は、心なしかふらふらとした様子で刻まれている。その中には、時々やけに深く刻まれている蹄鉄の跡もあった。


 それを目にして眉根を寄せる。


「あの跡がどうかしたのか?」


 振り返った先で、ホームズは額に手を当てて呆れたように首を振った。そして、私の質問に答えることもなく、玄関に続く小道へと入っていく。


 慌てて後を追いかけると、彼女は再び立ち止まって小道にしゃがみ込んでいる。


 その小道は粘土と砂利で固めて作られたものらしく、表の通りと同じで酷くぬかるんでおり、誰のものとも分からぬ複数人の足跡がくっきりと残っている。


 足跡から手掛かりを得るというのは考えられなくもないが、小道の上は既に警官たちが踏み荒らした後だ。そんな状態から重要な手掛かりが得られるとは到底思えない。


 しかし、ホームズは真剣な顔で小道を、時には小道の脇に生えている草に見入りながらゆっくりと進んでいく。私はその様子を心配そうに見つめていたのだが、道の中ほどにあった大きめの水溜りを過ぎた辺りで、あろうことか、彼女はにんまりと口の端を持ち上げ、声を上げて笑ったのだ。


 ホームズの観察力、洞察力が凄まじいことを既に知っていた私は、改めて足跡に目を凝らしてみるが、私の力では最初に残された複数の足跡を、異なるいくつかの足跡が踏み付けているということ程度しか分からない。


 先ほどの辻馬車の轍の件といい、彼女には一体何が見えているのだろうか。おそらくは普通の人には見えないものが数多く見えているのだろう。そう考えると、畏れにも似た背筋の震えと共に、一種の興奮すら感じる。


「さあ、行くぞ。ワトスン君」


 泥で汚れたコートを気にするでもなく立ち上がったホームズに続いて家の玄関へと足を踏み入れると、手帳を手にした背が高く恰幅の良い男に迎えられた。


「あっ、これはホームズさん!」


 こちらを目にするなり家の中からすっ飛んで来た色白の男は、実に嬉しそうな表情でホームズの手を握り締めた。


「よくいらっしゃいました。何も手を付けさせずにお待ちしておりましたよ!」


 振り払うように手早く握手を解いたホームズが、通ってきた小道を顎で示しながら笑う。


「あそこは例外のようだ。例え牛の群れが通ったとしても、あそこまでめちゃくちゃにはならないだろうさ。まあ、君の判断で通行を許可したんだろうがね、グレグスン君?」


 どうやら目の前の彼がグレグスン警部らしい。


 会うなり非難を浴びた警部は、亜麻色の髪を落ち着きなく撫で付けながら、しどろもどろで弁解した。


「あー、なにぶん、そのー、家の中のことで手一杯でして。同僚のレストレード警部も来ておりますので、あちらのことは彼に任せておりました」


 ホームズは私をちらりと見ると、意地悪げな笑みを一瞬だけ浮かべ、皮肉たっぷりに眉を上げてみせた。


「おや、レストレード君もいるのかい? 君たちのような優秀な警部が二人もお出まししているのなら、部外者の私が出る幕などないんじゃないかな?」


 声は高々と、舞台役者もかくやというほどの仰々しい身振りと口上だったのだが、グレグスンは皮肉だと気付いておらず、むしろ褒めそやされたと勘違いしたのか、自信たっぷりに胸を張って言った。


「やるべきことは全てやったつもりですよ。しかし、実に奇怪な事件でして、きっと貴方なら気に入ると思いますよ」


 口ひげでも生えていたら、貴族のようにひげを撫でていたんじゃないかと思うほどの自尊心に満ち満ちた態度に、さしものホームズも呆れたように肩を竦めている。


 ところで―――と切り出したホームズが尋ねた。


「君はここへ馬車で来たんじゃないだろうね?」


「はい? 馬車では来ていませんが」


「レストレード君もかな?」


「ええ」


「なるほど。では部屋を見に行こうか」


 そのような、グレグスン警部が首を傾げるような質問をした後、ホームズはひとりでさっさと家に入って行ってしまった。その後を、不思議そうな顔をしたまま追っていく警部の後に続き、私も家の中を進んでいく。


 埃の積もった板張りの短い廊下は、台所や家事室の方へも続いているが、途中にあった左右の扉の片方には、隅に蜘蛛の巣が張っており、明らかに何週間も閉じられたままであることが見て取れる。もう片方の扉は食堂室に通じていた。そちらの扉の周りには埃が積もっていない。つまりは、ここが例の怪事件の現場ということだ。


 正方形の大きな部屋は、家具が何もないせいか余計に広々として見える。壁には安っぽい壁紙が張られていたが、ところどころにカビやシミができており、隅の方は剥がれかけてしまっている。


入って正面の壁には、白い人造の大理石でできた暖炉があり、そのマントルピースの端に、三分の二ほどが燃え残っている真新しい赤いロウソクが一本立っていた。ひとつきりの窓がくすんでいるせいか、室内に埃が充満しているせいか、あらゆるものが灰色っぽく見える。


 だが、部屋の中央に転がっている気味の悪い死体だけが、明らかな異常事態として強い違和感を放っている。既に生気のない虚ろな目を見開いたまま硬直し、廃墟にすら見える天井をギロリと睨みつけているのだ。


 見れば、既にホームズは死体の傍にしゃがみ込んで検分を始めている。


 よくもまあ、何の気負いもなく死体に触れるものだ。医学部を卒業し、軍医として死体に接する機会も少なくなかった私ならともかく、そういう機会もないだろう立場で、迷わず死体検分ができるのは一種の才能かもしれない。


 怪事件の被害者たる死体は、四十歳を過ぎたばかりと見え、肩幅の広い中肉中背という、率直に言ってしまえばありふれた中年男だった。髪は黒々として細かく縮れ、短く刈り込まれた顎ひげを生やしている。


 特筆すべきはその服装である。素人目にも質の良いブロードクロス――黒い高級毛織物――で出来たフロック・コートに、それと同じ色のチョッキ、灰色に近い薄い白色のズボン、純白のカフスとカラー。死体の傍には手入れの行き届いたシルクハットが転がっている。


 明らかに金持ちと分かる身なりだ。このような格好の男が殺されたとなれば、金銭目的の強盗殺人という線が真っ先に思い浮かぶだろう。


 ただ、その死体の有り様には強い憎悪が滲み出ていた。


 爪が手の平に突き立つほどに強く握り締められた拳と、両脚がきつく絡み合っている所を見ると、凄まじい死に際だったらしい。強張った顔には恐怖の表情が少なからず浮かんでいるが、その目元には恐ろしいほどの憎悪の念が込められ、カッと開かれた口元も相まって、遥か東方に伝わる『鬼の形相』を思わせる。


 医学的に考えても、このような死に様となるような殺害方法というのは決して多くはない。しかしながら、先刻のホームズではないが、現状のデータでは、その内のどれであるかを判断することは難しい。


 そんな中、新しい顔が戸口からひょっこりと現れて私たちに挨拶した。


「どうもホームズさん。それと……助手さんですかね?」


「ジョン・H・ワトスン。遺憾ながら彼女の助手をしています」


 帽子を取って頭を下げると、痩せこけてイタチによく似た顔をした男は、厳めしい顔をしたままいかにも神経質そうなきっちりとした敬礼で返した。


「私はレストレード警部であります」


 敬礼を解いたレストレード警部が死体を見下ろしながら顎を撫でる。


「こいつはひと騒動起きますよ。私もこれまで色々と経験してきましたが、こんな不可思議な事件は初めてだ」


「手掛かりが全然ないからな」


 髪を撫でながらグレグスンが同調すると、レストレードも「まったくだ」と頷いた。


 二人のやり取りを気にする風もなく、死体を熱心に調べていたホームズが問い掛ける。


「確かに外傷はないんだろうね?」


 彼女が指差した先の床には、かなりの量の血液が飛び散っている。床に染み込んでいないところから考えて、辺り一面に飛び散っている血液はここ最近のものだろう。被害者から出血したものだったとしてもおかしくはない。


「外傷はなかったんだろう?」


 再度の問い掛けに、両警部が口を揃えた。


「絶対に!」


 その答えが分かっていたのか、ホームズが自身の考えの一端を開陳する。


「すると、この血はもちろん第二の人物のものだ。これが他殺であるなら、犯人のものということになる。このことから思い出されるのは、半世紀ほど前の一八三四年にユートレヒトで起きたファン・ヤンセン殺しだが―――グレグスン君、君はあの事件のことを覚えているかい?」


「いいえ」


「是非とも調べることだ。ほら、旧約聖書にも『日の下に新しきことは無し』と書いてあるだろう? この世のすべては僅かな違いを伴った繰り返しに過ぎないのさ」


 そうグレグスンに言い聞かせながらも、彼女は死体の腹部や胸元を押したり、ボタンを外して調べたりと、白魚のような指先を淀みなく動かし続け、ふいに虚ろな表情で中空に視線を向けたまま動きを止めた。目に見えない何かを見ているかのように、彼女の眼球は忙しなくあちらこちらへと動いている。


 どうやら、何かを考えているらしい。


ホームズがおもむろに懐から包装紙を取り出し、その中にあるシュガーを口に含んだ際には、驚いて手を伸ばそうとしたグレグスンとレストレードを止めるのにひと悶着あったのだが、それにも彼女は気付いていない様子だった。


 凄まじい集中力を見せた後、最後に死体の口の匂いを手であおいで嗅ぎ、高級そうなエナメル靴の底に視線をやる。


「死体はまったく動かしていないだろうね?」


「我々が調べるときに僅かに動かした程度です」


 グレグスンの答えを聞き、満足そうに頷いて立ち上がったホームズがコートに付いた埃を叩き落としながら告げる。


「では、死体安置所に移して頂いて結構。もう調べることはありません」


 彼女の言葉に顔を見合わせる両警部だったが、自分たちも粗方調べた後だったためか、グレグスンが四人の担ぎ手を外から呼ぶと、たちまち彼らが部屋に入ってきて担架で死体を運び出そうとした。


その時、チャリンという小気味いい音と共に、指輪がひとつ床に転がり落ちた。それを拾い上げたレストレード警部が声を上げる。


「どうも、女がいたみたいですね。ほら、こいつは女の指輪ですよ。内側に『モード』って名前が彫ってある。これは女の愛称だろうな」


 そう言って、手の平に乗せて差し出したので、私たちもその指輪を覗き込んだ。


 飾り気のないシンプルな金の指輪で、かつては花嫁の指を飾っていたものなのだろう。レストレードの言う通り、その内側には『Maud』、つまりは『モード』と刻まれていた。


「こいつはややこしいことになってきたな。ただでさえ困った事件だっていうのに」


 グレグスンのぼやきに対して、何事か考えていたホームズが呟く。


「いや、かえって簡単になったかもしれないな。被害者のポケットには何があっただろうか?」


「全部、こちらにまとめてあります」


 そう言いながらグレグスンが私たちを導いた先は階段だった。その最下段にいくつかの品物が雑然と置いてある。


「ロンドンのバロード社製の金時計が一個。アルバート型の純金で出来た金鎖。フリーメイソンの模様入りの金の指輪。ブルドッグの頭のルビーの目玉の付いた金製のピン。ロシア革の名刺入れ。中の名刺には、クリーヴランド市のポルダケス・プリアモスと記載されていて、ワイシャツに刺繍されたイニシャルと一致します。財布は見当たりませんでしたが、ポケットにばらの現金が七ポンド十三シリングほど入っていました」


 それから―――、とグレグスンが一冊の書籍と二通の手紙を差し出した。


「見返しに『アレクサンドロス・パリス』と名前の入ったイリアス叙事詩のポケット版と、一通はポルダケス・プリアモス宛て、もう一通はアレクサンドロス・パリス宛てです」


「住所は?」


「ストランド街のアメリカ両替所気付になっています」


 アメリカ両替所は、ロンドンに多数いたアメリカ人向けに金銭の両替や郵便の留め置きなどのサービスをしている施設だ。同様の施設はヨーロッパ各所に存在しているが、このストランド街の施設がヨーロッパ最大の規模を持つと言われている。


 アメリカ両替所で郵便の留め置きをしているということは、被害者であるポルダケス・プリアモスと、アレクサンドロス・パリスという人物はアメリカから来たということなのだろう。


「差出人はいずれもガイオン汽船会社で、内容はリヴァプールから出る船の予定を知らせたものです。つまり、被害者はニューヨークへ帰る所だったようですな」


「そのパリスという男について何か調査を?」


「もちろんですとも。ただちに、ロンドン中の新聞に公告を出させましたし、朝一番でアメリカ両替所に部下を行かせました。こちらはまだ帰ってきていませんが」


「クリーヴランドの方は?」


 ホームズの質問は矢継ぎ早だ。質問しながらも推理を進めているらしく、視線は遺留品に向けたままで、グレグスンの方を見ることもしない。


「今朝、電報を打ちました」


「どういう内容で?」


「事情を説明して、何か参考になりそうなことがあったら知らせて欲しいと頼みました」


「重大に思える点について詳しく尋ねることはしなかった?」


「プリアモスのことを調べてもらえるように伝えましたよ」


「それだけ?」


 そこでようやくホームズが顔を上げた。その顔は、元々の見目麗しい顔立ちをぶち壊すほどに渋いものだったが。


「もっと他に、この事件全体の鍵になるようなことがあるんじゃないか? もう一度だけ電報を打ってくれないかな?」


 その言い草に、グレグスンも流石にむっとした様子で口を尖らせた。


「伝えるべきことは全部伝えましたよ」


 再び口を開きかけたホームズが、ふいに口元を押さえてくつくつと笑った。


 一体何がおかしいかったのだろうか。それを私が問い掛けるよりも先に、ただひとり食堂に居残っていたレストレードが、にやにやと嬉しそうな表情を浮かべ、揉み手をしながら現れた。


「グレグスン君。私は今、極めて重大な発見をしたよ」


 顔を歪めたグレグスンの様子を見たレストレードの笑みが一層深くなる。


「いや、危ない所だった。私が食堂の壁を注意深く調べていなかったら見落とされてしまうところだった」


 彼は、いやらしさに目を輝かせ、同僚に対して成果を一ポイント先行できた嬉しさを全身から漂わせていた。軽い足取りのレストレードに付いて食堂へと戻ると、既に死体は片付けられており、そのせいか部屋の雰囲気が少しだけ明るく感じた。


「さあ、そこに立って!」


 喜色満面といった風情で声を上げたレストレードが、靴底で擦ったマッチの火を暖炉脇の壁にかざす。


「見たまえ!」


 食堂の壁紙は、ところどころ剥がれていたわけだが、彼が意気揚々と指し示した部分は特に大きく剥がれており、壁の黄色い地肌が四角く覗いていた。その剥き出しの壁に、血のように赤黒い字で、ただ一語、こう書かれている。




『 R A C H E 』




――――と。


「さあ、さあ、いかがです!」


 レストレードの甲高い叫び声は、舞台役者というよりも、優雅さに欠けた安っぽい見世物小屋の呼び子のようだった。しかし、上機嫌な彼の見世物は続く。


「これが見落とされていたのは、部屋の一番暗い隅っこにあったからです。男か女かは分からないが、犯人が自分の血で書いたものに違いない。ほら、文字から血がしたたっています。とにかくこれで、自殺の疑いはなくなったわけです」


「じゃあ―――」


 グレグスンの質問を先回りするように遮ったレストレードの興奮は今やピークに達している。それほどまでに同僚を出し抜いたことが嬉しいのだろう。


「なぜわざわざこんな暗い隅っこに書いたのかって? ご説明しましょう。マントルピースのロウソクをご覧ください。この火は犯行当時には点いていました。だとすれば、この壁は一番暗いどころか、一番明るかったわけですよ!」


「で、こいつを見つけたから何だっていうんだね?」


 不快げに靴音を鳴らしながら言ったグレグスンに対して、レストレードは心底呆れたような溜め息を吐いた。溜め息を吐かれたグレグスンの苛立ちが、ペースを上げた靴音に現れている。


 一方のホームズは、先ほどから口元を手で覆いながら肩を震わせていた。


 グレグスンを鼻で笑いながら、レストレードが持論を繰り広げる。


「何か、だって? つまり、こいつを書いた人物はレイチェル(RACHEL)と書こうとしたんだが、最後のLを書こうとしたところで邪魔が入ったのさ。よく覚えておきたまえよ。事件が解決すれば、レイチェルという女が関係していることがはっきりとするはずだ」


 ついに笑いを堪えられなくなったホームズが吹き出した。医学方面でドイツ語を学んでいる私から見ても、レイチェルとは的外れも良い所だが、流石に笑いすぎだろう。その笑い様は『腹を抱えて笑う』 という言葉が比喩ではなくなっているほどだ。


 片方の眉を吊り上げたレストレードが、些か怒った様子で腕を組む。


「おや、ホームズさん。どうぞどうぞ、そうやってお笑いになるがいいでしょう。あんたは確かに頭が良いのかもしれないが、結局最後に物を言うのは年を重ねた知識と経験なんですよ」


「いや、どうも失礼した」


 先ほど噴出した笑いを引っ込めつつ、ホームズが拍手を贈る。


「これを発見したのは確かに貴方のお手柄ですとも。どう見たって今回の事件に関係する人物が書いたものだ」


 軽く部屋を見渡しながら彼女が続ける。


「この部屋そのものはまだ調べていなかったから、良ければ早速取り掛かるとしよう」


 そう言ったホームズは、ポケットから巻き尺と大きな丸い拡大鏡を取り出すと、それらを手に部屋の中を音もなく動き回り始めた。「邪魔だ」と私たちを部屋から追い出し、余人の目には一体何をやっているのか見当もつかないことをしている。


 現に、戸口から顔を覗かせているグレグスンとレストレードの両名は、ホームズが調査をしている間、ずっと頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた。


 当のホームズはと言えば、素早く部屋の中を動き回っていたかと思えば、突然立ち止まって膝を付いたり、埃だらけの床に腹這いになってあちこち這いずり回ったりしている。調査に集中しているせいか、私たちのことなど気にも留めず、何事かをうわ言のように呟いている。その中には呻き声やら口笛、叫び声、歓声なども多々含まれていた。


 女性としてはどうなのだろうか、と思わなくもないが、探偵という見方をすれば、彼女が調査している様は、よく訓練されたフォックスハウンドを思わせる。今や、コートどころか顔まで埃だらけ汚れだらけになっているが、ホームズの顔は、アパートメントで顔を合わせてから一番生き生きとしていた。私の目には、そんな彼女のことが宝石のように眩しく映るのだった。




 ◆◆◆◆◇◆◆◆◆




 若きメネラオス・ヘレネーは黙り込んだまま、仲間と共に馬を進めていた。


 眉根を寄せ、唇を引き結んだ表情は、仕事一筋で寡黙な職人を思わせる。共に行く仲間たちもまた、「相変わらず仕事熱心なヤツだ」と、下手に声を掛けるようなことはしない。さりとて、彼らの仲が悪いというわけでもない。仕事に向かう時の彼は、いつもこのような真剣な顔をしているからだ。


 ただ、今のメネラオスにとって、真剣な顔をする対象は仕事ではなくなっていた。


 先ほどの思いがけない出会いが、彼の心を掻き乱していたからだ。山脈を吹くそよ風のように自由奔放で健やかな美しい娘に、胸の奥底から心を揺さぶられたからだ。


 もしも彼女が牛に踏み潰されていたかと思うと、悲しみで胸が苦しくなるし、彼女の家に招かれた時に感じた苦しさは、悲しみのそれとは別種の動悸であった。


 彼女の背中を見送った時のことを思い返し、彼は自分の人生における大きな岐路に立っていることを悟った。今この時の感情に比べれば、これから仲間たちと行う銀の採掘だろうが何だろうが、心底どうでも良いもののように感じる。


これは思春期の少年が感じるような淡く気まぐれな恋心ではない。強い意志と自尊心で満たされた男の熱く激しい恋だ。


 彼は誓った。人間として、ひとりの男として、出来うる限りの努力と忍耐をもって、彼女を必ず自分の妻とすることを。何があっても望む成果を得るのだと。


 メネラオスはその晩さっそくゼース・テュンダレオスの農場を訪ね、その後も頻繁に顔を出し、そして二月も経つ頃には、その農場ですっかり馴染みの人間となった。


 農場で仕事一筋に生きてきたテュンダレオスには、この土地に来てからの十二年間というもの、外の世界を知る機会はゼロに等しかった。そんな彼にとって、かつてはカリフォルニア地方の開拓者だったメネラオスが聞かせてくれる冒険譚は、彼ばかりか娘のマティルダをも楽しませてくれる素晴らしいものだった。


 メネラオスが老農場主に気に入られるまで、さほど時間は掛からなかった。それどころか、かの老人は彼のことをしきりに褒めそやし、そんな時のマティルダは、ほんのりと頬を染め、まるで自分が褒められているかのように嬉しそうで幸せそうな表情を浮かべていたのだ。


 彼女の想いが誰に向けられているかなど、一目にして瞭然だろう。気付いていなかったのは堅物の父親くらいのもので、いつも彼女を見ていて、彼女の愛情を勝ち得た当の本人が気付かないはずはない。


「マティルダ、俺は出発する」


 ある夏の夕暮れ時、後にした家に振り返ったメネラオスはそう切り出した。


 見送りに出ていたマティルダの両手を優しくとって見つめる。


「今、一緒に来てくれとは言わない。でも、今度帰ってきたときには、俺に付いて来てくれるかい?」


 驚いた乙女の表情が、次の瞬間には幸せそうにほころんだ。


「いつ頃になるの?」


「遅くとも二ヶ月先だ。その時、君を貰いに来る。君のお父さんも賛成すると言ってくださったんだ。俺たちの仲を邪魔する者はいないさ」


「まあ! 父さんと貴方の間で話が付いているのなら、もちろん貴方に付いていくわ!」


「ありがとう!」


 かすれた声でそう言うと、メネラオスは彼女を熱く抱擁し、かがみ込むようにしてマティルダにキスをした。


 ゆっくりと顔を離したメネラオスがにっこりと笑顔を浮かべて言った。


「さあ、これで全て決まりだ! これ以上は別れが辛くなる。仲間も谷で俺を待っているからね」


「あら、お仲間さんはついでなの?」


「もちろんさ!」


 互いの冗談に笑い、彼女から身を離す。


「さよなら、マティルダ。二ヵ月後にまた会おう!」


 門の前に繋いでいた馬にひらりと飛び乗ると、メネラオスは颯爽と駆け出した。その姿は、まるであと一度でも彼女の顔を見たら、別れの決意が揺らいでしまうとでも言うかのようだった。そんな彼の姿が見えなくなるまで、マティルダは門前で彼を見送り続けた。彼の影さえも見えなくなった頃に、彼女が呟く。


「二ヵ月後が楽しみね!」


 おそらく、このソルトレークシティで一番幸せな笑顔を浮かべたまま、マティルダは家の中へ戻っていった。


 その二ヶ月間が、彼らの運命を左右するとも知らずに。




 ◆◆◆◆◇◆◆◆◆




 二十分ほども続いたホームズによる調査がようやく終わった。


 その間、彼女は、足跡と思しき痕跡と痕跡の間の距離を正確に測定したり、巻き尺を壁に当てて、『RACHE』と書かれた文字の高さを測ったり、その近くでは、床に積もった何かの燃えカスを丹念にかき集めて封筒に仕舞い込んでいた。


 最後に調べたのが、『RACHE』という血文字だ。それを拡大鏡で一字一字、一筆一筆を丹念に調べた後、ようやく満足した顔で巻き尺と拡大鏡をポケットに戻し始めた。


 戸口で彼女を見守っていた私の下へ、弾むような足取りで近付いてきたホームズが上機嫌で口を開いた。


「天才とは、無限に続く苦痛に耐え得る能力を持つことを言うそうだ」


 そして、にっこりと笑った。


「くだらない定義ではあるが、探偵という仕事にはピッタリと当てはまるだろう?」


 それは「自分は天才だ」とでも言いたいのだろうか。もしも天才の定義が先ほどの言葉の通りであるのなら、確かに彼女は天才なのかもしれないが。


「その定義なら、少なくとも、今ここにいない二人は天才とは言えないようだ」


 グレグスンとレストレードの両警部は、早々に退屈という苦痛から逃れてしまった。


彼らは、曰く『アマチュア探偵』のホームズがする調査を、最初こそ興味津々と眺めていたものの、その調査があまりにも地味で泥臭かったためか、五分も経つ頃には、彼女に軽蔑の眼差しを投げて踵を返してしまった。


 彼女が地道な調査をしている間、レストレードは他の部屋を漁り、グレグスンは外の部下に命じて聞き込みをしていたそうだが、特に目新しい成果はなかったようだ。


「彼らの行動も、通常の事件では間違いではないんだがね。こと今回の事件においては見当違いだ。そういう意味では、確かに君の言う通りかもしれないな」


 ホームズが控えめに笑みを零していると、彼女が部屋から出てきたことを見て取った両警部がほぼ同じタイミングで駆け寄ってきた。


 競い合っている割には存外仲が良いんじゃないだろうか。


「「ご意見を伺っても?」」


 その問い掛けも全く同時だった。


 同じことを思ったのか、ホームズが軽く吹き出し、それを見た二人が同じように首を傾げている。また笑い出しそうになったのを咳払いで押し留めたホームズが答えた。


「私なんかがお節介な口出しをすると、君たちの折角の手柄を横取りすることになるんじゃないかな?」


 どうやら、彼女はグレグスンとレストレードに調査結果を伝えるつもりはないらしい。それどころか、口元に笑みを浮かべながら皮肉たっぷりに言ってのける。


「こーんなに立派にやっているのに、邪魔をしては気の毒だ! もちろん、そちらの捜査状況を教えて頂ければ、できるだけの協力はさせて頂きますとも! ええ、喜んで、ね」


 ホームズが上座から皮肉を言う時、その語り口と身振りはいちいち演劇役者めいている。演劇に触れる機会でも多かったのか、その雰囲気は妙にサマになっていた。


 彼女の多才さに感心していると、私のコートの裾をホームズが引っ張った。


 だが、ホームズはこちらを見てはおらず、こちらが問い掛けるよりも早く、二人の警部に対して問い掛けた。


「ところで、死体を最初に発見したという巡査に会ってみたいんだが、名前と住所を教えてくれないかな?」


 レストレードが手帳をめくった。どうやらその巡査は彼の管轄らしい。


「ええと、ジョン・ランスという男です。今日は非番のはずですから、自宅にいるはずですよ」


 そこでまたホームズが私のコートを引っ張った。


 意味不明の行動に思わず眉根を寄せたが、彼女の視線を追ったところでようやく彼女の言いたいことが理解できた。


 彼女の視線はレストレードの手帳に向かっている。つまり、ランス巡査とやらの情報に関するメモを取れと言っているのだ。


「なんで私が……」


 口の中で小さく呟きながら、紳士服の内ポケットに入れていた黒い革張りの手帳を取り出す。知人から譲り受けた高級品であり、手帳の裏表紙にはブランド名なのか、『J』という文字が三つ並んでいる。


 私が手帳を取り出したのを確認したホームズが小さく頷き、レストレードに先を促す。


「それで、そのランス巡査の住所は?」


「ええ、ケニントン・パーク・ゲートのオードリー・コート四六番地です」


 私がメモを取り終わると同時にホームズは踵を返した。


「さあ、ワトスン君。早速そのランス巡査を訪ねてみようじゃないか!」


 歩き出したホームズが、ふいに「ところで―――」と言って振り返った。


「ひとつだけ参考になりそうなことを教えておきましょう」


 そう言って、人差し指を立てた右手を高く掲げた。その態度は、舞台上で観客の注目を集めようとする演劇役者のようだった。


「……また始まった」


 誰にも聞こえないくらいの声で私が呟く。


 果たして二人の警部は、ホームズの意図した通り、彼女の右手に注目を向けている。その指を先ほど出てきた食堂に向けると、二人の視線も導かれるようにそちらへ移っていく。


「これは他殺です」


 断定したホームズの言葉に、警部たちの視線が彼女へと戻った。驚きの表情を浮かべた両警部の顔は、続く彼女の言葉で一様に驚愕の色を濃くさせていく。


「犯人は男性で、身長六フィート以上の男盛り」


 身振り手振りを交えて説明するが、残念ながら彼女の体格では手を精一杯伸ばしても説明通りの六フィートには届いていない。


それはさておき、彼女の説明は続く。


「長身の割に足が小さく、先の角ばった靴を入ってトリチノポリ葉巻を吸っています」


 床をブーツでタップしながら、手に持ったイメージ上の葉巻を玄関の外に向ける。


「ここへは被害者と一緒に四輪の辻馬車でやってきたが、その馬車は右の前足だけが新しく、後の三個は古い。そしておそらく、犯人は赤ら顔で右手の爪が伸びているでしょう」


 両の手の平を広げて見せたホームズが手を叩いた。


「と、まあ、こんな程度だが、何かの参考にはなるだろう?」


 彼女の推理を聞いたレストレードとグレグスンは、まさかというような引き攣った笑みを浮かべて顔を見合わせている。


「他殺だとすると、一体どんな方法で殺されたんだ?」


「毒殺だ」


 私の問い掛けに、ホームズは、そんなの明らかだろうとでも言わんばかりに素っ気なく答えて歩き出した。


 その後を追いかけようと一歩踏み出したところで、ホームズはまたしても「ああ、そうだ」と何か思い出したように呟いて振り返った。


「レストレード君、もうひとつだけ教えておこう。『RACHE』というのはドイツ語で『ラッヘ』、つまり『復讐』という意味だ。くれぐれもレイチェルなどという女性探しで時間を無駄にしないように」


 明るい笑い声を捨て台詞のように残し、呆気に取られて大口を開けている二人の警部を背に、ホームズは事件現場となった家を出ていった。

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