第一章 The incident of the beginning that was composed
ホームズがベイカー街へとやってきてから一週間は何もなかった。
だが、これは先日ホームズが言っていた「面白い事件」とやらが何もなかったという意味だ。実際には―――まあ、いろいろあったとも。
彼女自身が「名探偵」と評していたように、このアパートメントには毎日のように依頼人がやってきた。それは、通常であればスコットランド・ヤードに持ち込むような事件性の高い事柄であったり、単純な失せ物探しであったりと様々だ。時折、手紙で依頼が送られてくることもあるのだから、ホームズの探偵業は大いに繁盛しているようだ。
それらの依頼の多くを、ホームズはソファーに腰掛けたま解決していった。その場から動くことなく、依頼人の話だけで問題を解決してしまうのだから、名探偵を自称するだけのことはある。
ただ、依頼人の前でこそ何も言わないが、当の本人は持ち込まれる依頼の数々に対して大いに不満らしく、「つまらない」「退屈だ」「簡単すぎる」「自分で考えろ」などの他、淑女にあるまじき言葉を含めた罵詈雑言を吐いていた。
それも、私に向かって。
その度に、紅茶を淹れてやりながら小一時間ほど愚痴に付き合うわけだが、愚痴が長い辺りは実に女性らしいと、心の奥で溜め息を吐いていたわけだ。
しかし、そんなホームズが依頼完了後に文句を言わなかったものもある。何故、彼女から文句のひとつも出なかったのかについては、聞いてもらえれば分かるだろう。ちなみに、その時の依頼内容は『猫探し』である。
一見なんの変哲もない依頼なのだが、この依頼は、流石に座ったままで解決できるような案件ではなく、私ことワトスンも駆り出された。
ホームズ曰く「人手がいる」とのことで、私は彼女の指示に従って、スラム街を走り回り、草木を掻き分け、文字通り泥だらけになりながら猫を探し、猫に関する情報を集めて回った。そして、大した成果もないまま、ホームズに指示された仕事を終えてアパートメントに戻ると、彼女は件の猫を膝の上に乗せながら、庭先で紅茶を飲んでいたのである! 挙句、泥だらけの姿で呆然と立ち尽くしている私を見て「これは傑作だ」と大笑いしたのだ。
この上、依頼に文句まで言っていたら流石の私も引っ越しを考えたことだろうが、憤慨しながらホームズに詰め寄った私に向かって、彼女は目尻に浮かんだ涙を指で拭いながらこう言った。
「いやいや、笑ってしまってすまない。君の姿が予想以上に面白かったものだから、つい、ね。しかし、そのお陰で、こうして依頼の猫を捕まえることができた」
「どういうことだ?」
不思議そうな顔をする私が面白かったのか、ホームズは再び噴き出しながら応えた。
「ふふっ。猫がいなくなったのがいつなのか。そのことを私は依頼人には訊ねていない。何故なら、それは三日ほど前だと容易に分かるからだ。依頼人の様子、焦りや目の隈の深さなどからね」
相変わらずの観察力に目を丸くしている私を置いたまま、ホームズはつらつらと自身の推理を開陳していく。
「家猫だから食いだめなどできないだろうし、この三日間を生き延びるための食料を求めるはずだ。であるならば、探すべきはそれを確保しやすい、スラム街か草木の多く生える公園などが候補に挙げられる。しかし、そういった場所は野良猫の縄張りになっているものだ。仮に野良猫に殺されていないのであれば、件の猫も野良猫と共に行動していることが予測できる」
一呼吸置いたホームズが、紅茶で軽く唇を湿らせながら肩を竦めた。
「ただ、よしんば迷い猫を見つけたとしても、それを追いかけて走り回るというのは、実に非効率的だ。そして、大抵の場合、野良猫には巣やたまり場というものがある。だから、君にあちこち走り回ってもらったのさ」
「って、まさか……」
流石の私もそこで察しが付いた。
つまり、彼女は私を体のいい牧羊犬に仕立て上げたのだ。近辺にいる猫という羊を追い立てるための牧羊犬。さしずめ彼女は、そこから動くことなく羊を巧みに操る腕利きの羊飼いというところだろうか。
自身の立てた計画を理解した私を見たホームズが頷く。
「その通り。君が走り回っていたのは、野良猫がよく集まる場所を中心とした範囲だよ。鬼気迫る勢いで走って回れば、野良猫たちはその場から立ち去り、自然とその中心部、野良猫のたまり場へと集まってくる。あとは、そこで迷い猫が来るのを待ち構えていれば良い。というわけだ。実に効率的だろう?」
得意満面といった風情のホームズに向かって思わず怒鳴る。
「それは、私が非効率にも走り回ったからだろう!」
「はははっ! 確かにそうだ。だが―――」
とホームズが私の背後へと視線を向ける。
「働いたのは君だけではないよ」
視線を追って振り返った先では、数人の子供たちが横一列に並んでいた。彼ら彼女らの格好は、御世辞にも綺麗とは言い難く、はっきりと言ってしまえば、みすぼらしい。一目見て、ストリートチルドレン――都市の路頭で生活している子供たち――だと分かる。
ホームズが猫を抱いたまま椅子から立ち上がると、彼らの中でも一番年上と思われる少年が一歩前に進み出た。
どうやら、彼女の手から放たれた牧羊犬は私だけではなかったらしい。少年たちの態度は、よく訓練された犬の群れを思わせた。
「ウィギンス。よくやってくれた。約束どおり、一シリング―――現在における二十ドルほど―――を君たちに送ろう。出来立てのパンを丸々十個ほどは買えるはずさ」
ウィギンスと呼ばれた少年が、片膝を付いて恭しく両手を差し出す。
女王から剣を受け取る騎士を気取ったようなポーズだが、その顔は喜色で溢れており、騎士には程遠い。後ろに並ぶ子供たちもそわそわと落ち着きがない。
彼らはまだまだ子供なのだ。一シリングなどは充分に大金だろう。
その手に一枚の硬貨を乗せながら、ホームズが続ける。
「有用な情報を持ち帰れば、その時は一シリングなどと言わず、一ギニーを報酬として渡そう。だから、今後ともよろしく頼むよ」
一シリングを受け取ったウィギンスの目が大きく見開かれた。背後の子供たちもざわついている。
かく言う私も、彼女の言葉には耳を疑った。一ギニーと言えば、二十一シリング。先ほどのパンを例に取れば、二百個買ったとしてもお釣りがくるほどの金額だ。ストリートチルドレンである彼ら彼女らならば、均等に分け合ったとしても一ヶ月は余裕を持って生活できるだろう。
驚く彼らにホームズが満足げに頷く。
「では行きたまえ」
その言葉を聞いた子供たちは、「ヨシ」と言われた犬のようにはしゃぎながら庭から出て行った。
再び椅子に座り直したホームズに、私は声を掛けた。
「彼らはいったい誰なんだ? それに一ギニーなんて大金を渡す約束までして」
「彼らは『ベイカーストリートイレギュラーズ』。命名は私だがね。私が雇ったんだ」
「雇ったって、いつの間に………」
「つい先ほど、君が方々を走り回っている最中にね」
「しかし、何故ストリートチルドレンなんだ?」
暗に、人手が必要なら他にも有用な人材がいくらでもいるだろう。ということを含めたのだが、彼女は呆れたように首を振って私の考えを否定した。
「彼らだから良いのさ。彼らなら、大人では入り込めないような場所に潜り込むことができるし、私や警官相手では警戒されて聞き出せないことも、彼らなら警戒心なく話してもらえる。ロンドン中の裏道、抜け道に詳しいというのもポイントだ」
それに、とホームズが続ける。
「彼らの情報網というのも侮れないんだよ。悲しいことではあるが、彼らのようなストリートチルドレンはロンドン中にいる。それぞれのグループには大小の縄張りがあり、グループ同士の情報交換も活発だ。時にはグループ単位で協力することもある」
彼女の口振りには、ストリートチルドレンに対する侮蔑や卑下などは微塵も見られなかった。何なら同情心も窺えない。それは、彼女の生まれ育った環境によるものなのかもしれないし、単に全ての人を同じ物差しで測っているだけなのかもしれない。
「それこそ、スコットランド・ヤードの警官一ダースよりも、彼ら一人の方がずっと役に立つくらいさ」
人によってはそんなホームズの在り方を非難するかもしれない。だが、少なくとも私にとっては、とても好ましいもののように思えた。
◆◆◆◆◇◆◆◆◆
ソルトレーク・シティ。
そこは、アプロディタ・ダイティを指導者とするモルモン教徒たちが迫害から逃れ、長い旅路の果てに見出した〝約束の地〟であり、彼らがイチから作り上げた都市である。
餓死寸前だった所を、旅の最中だったモルモン教徒たちに救われた、ゼース・テュンダレオスとその養子のマティルダもまた、モルモン教徒たちと共に艱難辛苦に満ちた旅路を進み、その大いなる遍歴に最後まで付き合った。
約束の地に辿り着く頃には、かつては外様であったテュンダレオスも、指導者アプロディタと四大長老であるパリス、ヒケタオン、ラムポス、プリアモスに次ぐほど広い肥沃な土地を与えられ、それに反対する者がいないほどに彼らからの信頼を勝ち得ていた。生まれ持った生活力があり、商売にもそつがなく、手先も起用だったテュンダレオスの手によって農場は際立って繁栄したのである。
三年も経つ頃には、近隣の誰よりも暮らしが良くなっていた。六年後には蓄えを入れても十分に余裕のある暮らしができるようになり、九年後には裕福でありながら人柄も豊かであると噂され、そして十二年後、ソルトレーク・シティ全体を見渡しても肩を並べる金持ちは五、六人しかいないまでになった。
テュンダレオスの娘であるマティルダは、彼の元ですくすくと成長し、養父の仕事をいろいろと手伝うようになった。
年ごとに体つきはすらりとして健やかに、頬は艶を増し、娘らしいしなやかな肢体が小麦畑を跳ねる度に、テュンダレオス農場沿いの街道を行く旅人たちはしばし足を止め、長く忘れていた青い春の香りが胸に蘇る心地を味わった。十二年前はつぼみだったそれが、見事に花開いたのである。
父親が近隣一の富農になった頃には、娘もまた、ロッキー山脈の西側一帯でアメリカ娘の見本と言われるほど美しい女性へと成長していたのだった。
ただし、その素晴らしさに最初に気付くのは父親ではない。その成長は緩やかであり、日常を共にしている男に気付けるものではない。そして勿論、彼女自身でもない。それに気付くのはいつだって他人だ。
そして、彼女に心奪われた彼の手が、彼女の頬に触れた時、思いもよらぬ胸の高鳴りと共に気付く。心の中に大きな慣性力を持つ衝動が目覚めたことを、そこでついに知るのである。
人生が一変したある日の出来事を覚えていない女性はまずいない。マティルダの場合、その出会いによって、彼女だけでなく、彼女たちの周囲を取り巻く数多くの運命に多大な影響を与えてしまったことを別にしても、一歩間違えれば死んでいたかもしれないほどの大事件だった。
◆◆◆◆◇◆◆◆◆
ホームズが密かに結成していたベイカーストリートイレギュラーズの面々が去り、迷い猫を持ち主の元へ送り届けた後のことだ。
がっしりとした体格に、質素な身なりをした男が部屋を訪れた。目深に被った帽子のせいで、その表情はあまり窺えない。
「シャルロット・ホームズさんにこれを」
私が戸を開けるなり、彼はそう言って手紙を差し出してきた。
「あー、便利屋の方かな?」
「はい。その通りです。制服は繕いに出しておりまして」
なるほど、と私は頷いた。
便利屋とはその名の通り、様々な雑事を代行する、いわゆるサービス業だ。便利屋を語る犯罪を抑止するために制服が支給されており、高い信頼性を持つ組合である。
目の前にいる中年男は制服を着ていないが、何かを請け負うというならばともかく、手紙を届けに来たというのならば、便利屋を語る犯罪者ではないのだろう。
「ありがとう」
そう口にして手紙を受け取ると、彼はカツンと踵を合わせ、素人目に見ても堂に入った敬礼をしてからキビキビとした足取りで出ていった。
手紙の宛先はホームズ、差出人は、トバイアス・グレグスンとなっている。
「ホームズ。君宛てに手紙だ」
そう言って手紙を差し出すが、彼女は安楽椅子にゆったりと座り―――彼女のような容姿の女性がパイプを使っているのを見ると一瞬ドキッとするのだが―――お気に入りのパイプを咥えたまま、じっと扉の方を見つめている。
「ホームズ?」
「ん? なんだ?」
それは少し苛立たしげな声だった。
何に苛立っているのか分からなかったが、あえて私は踏み込んでみた。
「何か悩んでいるようだが、どうかしたのか?」
「だからどうした」
そっけない言葉が返ってきた。それは私を突き放すような言い方だった。しかし、私の驚きを感じ取った彼女は、すぐに苦笑混じりの笑顔を浮かべた。
「いや、すまない。思考を中断されたものだから、つい苛立ってしまった。だが、すると君はあの便利屋に何の違和感も抱かなかったのかい?」
「違和感?」
先ほど部屋を訪れた便利屋のことを思い返すが、他の便利屋と比べて特におかしな所はなかったように思う。
便利屋は退役軍人で組織された組合だが、先の彼も元軍人らしいカッチリとした態度に見えたし、彼のような人物は、私がかつてベトナムにいた頃に、それこそ見飽きるほど目にしている。
「そうか。それは困った。ここまで言ってしまった以上、君は何かしらの説明を受けなければ納得できないだろう?」
「ああ、そこまで言われてしまうと、その違和感とやらが何なのか気になってしまう」
「私からすれば当然すぎることで、説明するのは逆に難しいくらいなんだが。二足す二が四になるのは何故なのか、と問われては君も困るだろう? だが、まあ、なんとか説明しよう」
パイプをひと吸いしてから、ホームズが改めて口を開く。
「まず、便利屋が退役軍人なのは君も知っているだろう。現に、彼の態度は幾分か尊大で支配的なところがある。彼の頭のそびやかし方を見たろう。そして、顔もこれまた真面目なしっかりとした中年男という感じだ。年齢を考えても退役軍人と言われれば納得するくらいさ」
そこまで言って、彼女は再び考えるようにして口元に手をやりながら呟いた。
「だが、彼の歩き方と私たちに向ける視線がどうにもおかしい」
そして、ホームズは自身の考えを整理するように、独り言に近い説明を続ける。
「おそらく彼はごく最近に便利屋となったのだろう。それは彼に染みついている軍人らしい歩き方が全く薄れていないことから分かる。しかし、あの歩き方はそれなりの地位にいる者の歩き方だ。完全な縦社会である軍人という職業にあり、便利屋になるような退役軍人は兵曹以下が一般的だ。通常、兵曹以下の者の歩き方には目上の者に従うような、一種卑屈さの入り混じった何となく中途半端なものだ。しかし彼にはそれがない。そして、それなりの地位にいるということは便利屋のような小間使いではなく、それに相応しい席が退役後に用意されているはずだ」
早口で言い終えたホームズは、安楽椅子に深く座り直してパイプをゆっくりとふかす。
彼女の淡い桃色の唇から紫煙が静かに吐き出された。
「仮にそのおかしな偶然が成り立つとして、つい最近まで高い地位にいた者が向ける眼ではない、か」
暫しの沈黙が部屋を包み、ただパイプの煙が部屋の中を揺蕩う。
またホームズから苛立ちをぶつけられるかもしれないと思いつつ、私は彼女の独り言に口を挟んだ。
「私のことを知っていた、とは考えられないか?」
彼女の視線がこちらを向いた。多少の興味は引けたらしい。
「私は軍医だった。つまり、軍内では大佐に相当する地位だったし、今でも一応軍に籍は残っているから、そのことを知っていて礼儀を示したのかもしれない」
半ば興味を失ったように鼻を鳴らしたホームズが、軽く肩を竦めて笑った。
「確かに、その可能性が絶対にない、とは現段階では言い切れない。いずれにせよ。今の情報量では彼の正体を特定することは難しいだろう」
彼女の言葉には、苦笑や呆れが多分に混ざっていたが、とりあえず、先ほどの便利屋の男について考えるのは止めたらしい。
私は内心ほっとしていた。彼女が思索を始めると対応が面倒だというのは、この二週間足らずで十分すぎるほどに経験していたし、彼女が相変わらず凄まじい洞察力と推理力を備えているということも既に分かっている。それに、このままでは、いつまで経っても届いた手紙の話に進めないという理由もあった。
「ホームズ。手紙を」
「ん」
考えることを止めながらも、まだ先ほどのことが頭の隅に引っ掛かっているらしく、気怠い返事で手紙を受け取ったホームズだったが、その手紙を開いた途端、その顔付きが変わった。
「私は以前、『最近は大した犯罪もなくなった』と嘆いたが、どうやら思い違いだったようだ。これを見たまえ!」
目を輝かせながら、グレグスンなる人物からの手紙を放り投げるように寄越したホームズの顔は実に楽しげに上気している。
私も自然と笑みを零しながら、その手紙にざっと目を通した。
「へえ!」
そこに書かれていた内容はとても恐ろしいものだった。だがそれは確かに彼女が喜びそうな謎に満ちたものでもあった。
「どうやら、普通の事件ではないようだ」
落ち着き払った口調ではあるが、その顔には隠し切れない喜びが滲んでいる。些か不謹慎ではあるが、謎に飢えていたこの名探偵にとっては、まさしく待望の出会いであるようだ。
手紙の内容は要約すると次のようなものだった。
シャルロット・ホームズ様
昨夜、ブリクストン通りの外れ、ローリストン・ガーデンズ三番地で怪事件が発生。
午前二時、パトロール中の巡査が、以前から空き家であるはずのこの家に明かりが点いているのを発見し、不審に思って調べたところ、玄関のドアが開け放たれており、家具ひとつないがらんとした食堂の床に、立派な身なりの紳士が死体となって倒れていました。
死体のポケットからは、「アメリカ合衆国オハイオ州クリーヴランド市、ポルダケス・プリアモス」という名刺が複数枚見つかり、金品を奪われた形跡もなく、現状、死亡原因も定かではありません。
室内に血痕が数か所ありますが、死体に外傷はまったくないのです。また、この男がどうして空き家などに入ったのか、その理由も不明です。とにかく、何もかもが不可解で分からないことだらけの事件です。
小生は本日の正午まで同家におりますので、それまでにおいで頂けませんか。お待ちしております。
ご連絡があるまで現場には一切手を付けずにいます。万一ご都合の悪い場合には、後ほど小生から詳しくご報告致しますので、ご意見をお聞かせ頂けると助かります。
何卒、ご助力の程、よろしくお願い申し上げます。
敬具
トバイアス・グレグスン
「グレグスンってのは、スコットランド・ヤードきっての腕利きでね。この男とレストレードという警部は、いっそ見本市を開けるくらいにヘボ刑事が揃っているヤードの中では優秀な方だ。君もこれから顔を合わせる機会が多くなるだろうね」
そこでホームズが耐えきれないように苦笑を漏らした。
「二人とも機敏で精力的なんだが、惜しむらくはやり方が月並みすぎるんだ。それこそ子供にだってできるほどにね。おまけに商売女も裸足で逃げ出すほどに醜い対抗意識をお互いに持っているんだ。対抗心に凝り固まっていると言ってもいい。カチカチのアイスクリームのようにね。この二人が関わると言うならば、それはそれは面白いことになるだろうさ」
彼女があまりにものんびりと話しているので、私の方が慌ててしまった。
「ホームズ。今は一刻も早く現場に行くべきじゃないのか。何なら私が辻馬車を呼んでこようか?」
「まだ行くと決めたわけじゃないさ。私は酷い怠け者なんだ」
その言葉に思わず眉を顰める。
一瞬、ホームズにやる気がないのかと思ってしまうが、そうなると先ほどの彼女の態度と矛盾が生じてしまう。
「だって、これは願ってもないチャンスじゃないか。君だって、大した犯罪とやらが起きて楽しそうにしていただろう」
「しかしな、ワトスン君。この事件を私が解決したとして、手柄はまるまる全部がグレグスンやレストレードの所へ行ってしまうんだ。名探偵とはいえ、視点を変えれば、私は一介の民間人に過ぎないからね」
「しかし、現にこうして助けを求めてきているじゃないか」
呆れに満ちた鼻息と共に肩を竦めながら彼女が答えた。
「そりゃそうさ。自分たちに私ほどの力が無いことは、流石の連中だって承知しているからね。私に敵わないことは重々承知している。けれど、それを公に認めてしまうことは絶対に許さないはずさ。それを認めれば自分たちが無能だと知らしめることになるからね。そうするぐらいなら舌を噛み切って死んだ方がマシだと思っているはずだ」
やる気のいまいち感じられない様子で、手にした上等なパイプをためつがめつしていたホームズだったが、何の前触れもなく立ち上がった。
「とはいえ、だ。ちょっと顔を出してみるのも悪くない。何の得にもならないが、連中の悔しがる顔でも見ながら一杯やるくらいはできるだろう」
やはり事件に関する興味自体はあったらしい。それらしい理由を述べながら外套を手に取ると、今までのやる気のない様子とは裏腹に、慌ただしく動き出した。
その姿はネジ巻きの玩具に近い。謎に満ちた事件でネジを巻くことでようやく動き出すゼンマイ仕掛けの人形だ。
「さあ、行くぞ!」
一分後、私たちは呼び出した辻馬車に乗り込んで、ブリクストン通りへ向かって走り出した。
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