序章 The beginning of the first mystery
~ベイカー・Y221・フューナス・ハドスン夫人邸の二階~
その日の私は忙しかった。
私自身もロンドンに引っ越してきたばかりで荷物の整理も済んでいないというのに、今日から同居人が来ることに決まったのだ。
元より同居人が来ることは決まっていたのだが、先方が「一日も早く」と要望したため、私の引っ越しが終わるや否やというタイミングとなったのである。
しかし、と周囲を見渡して思う。こう言っては家主のハドスン夫人に失礼ではあるが、生活をシェアするには、このアパートメントは少々手狭だ。私の荷物は世間一般から見ても、そう多くないものだとは思うが、同居人の荷物が仮に私に倍するものであれば、生活を始める前に荷物の処分も検討しなくてはならないだろう。
そうでなくとも部屋が片付いていないのだ。仮に同居人の荷物が想定より少なくとも、今の状況で未処理案件が積み上がれば、より混沌とした惨状が生み出されることは想像に難くない。
だからこそ私は今、箒を片手にアパートメントの中を行ったり来たりしているわけだ。
額の汗を手の甲で拭い、栗色の髪を掻き上げながらぼやく。
「あまり騒がしくしていると夫人に怒られてしまうな」
その瞬間、ブザーにも似た低音の呼び鈴が鳴り響いた。
噂をすればだ。と肩を竦めつつ声を張り上げる。
「今出ます!」
箒を壁に立て掛け、捲り上げたワイシャツの袖を元に戻しながら歩く間にも、二度、三度とブザーが鳴らされる。
「はいはい。今行きますってば」
どうやら相当にご立腹のようだ。
ドアの前でワイシャツの襟を正し、軽く身だしなみを整え、言い訳の準備も抜かりない。
軽く一呼吸吐いて、ドアノブに手を掛けた。
「あー、ミセス・ハドスン。どうやらネズミが入り込んだようでして―――」
だが、ドアを開いた先には誰もいない。
左右を見やり、おや、と首を傾げた時、落ち着き払った少女の声が耳朶を打った。
「よく見たまえ。下だ」
「下?」
声の通りに視線を向けると、そこには身長五フィートにも満たないであろう小柄なレディが一人。
その姿に思わず息を呑む。
いかにも高級そうな黒のスリーピーススーツにシルクハットという姿は、貴族のような印象を与えるが、それはあくまで紳士の話。淑女であるところの彼女が身に着ける衣服としては些か不釣合いに見える。
はっきり言ってしまえば、頭がどうかしている。当時のロンドンにおいて、その格好は異様としか言いようがなく、街を歩けば、間違いなく距離を取られるタイプの人種だ。
だが、絹のような滑らかな金髪、十人中十人が振り返るような愛らしくも美しい顔立ち、鋭くこちらを見つめる緑の瞳は、なるほど高貴な身分にある者すら傅かせるほどの美貌だ。
ただ、何度も言うようで申し訳ないが、その格好が全てを台無しにしている。
こちらを上から下まで舐めるように見つめた彼女が、シルクハットを取って恭しく頭を下げた。その姿は女性ながら紳士の如く堂に入っている。
「ごきげんよう。同居人殿」
そして、自信に満ちた顔で名乗った。
「私の名はホームズ。シャルロット・ホームズだ」
黙っている私に向かって、ホームズと名乗った少女が顎をしゃくる。
「話は聞いているはずだが?」
「ああ、これは失礼」
彼女の風貌と雰囲気に圧倒され、すっかりと呆けてしまっていた。
慌ててこちらも頭を下げる。
「私の名前は―――」
と、名乗ろうとした私を彼女が手で制す。
「ワトスン」
「は?」
「ジョン・H・ワトスン。君の名前だよ」
「いや、私にはちゃんと名前が」
「いいじゃないか、ワトスン君。畢竟するに、名前とは記号に過ぎない」
講釈めいた口調でそう言った少女、シャルロット・ホームズは、私を軽く手で押し退けながら部屋へと足を踏み入れると、部屋の中を見回しながら続ける。
「名前とはそれが誰であるか、何であるかを示すためのタグ付けだ。ならば、その名が誰を示しているか、それを使う本人たちが認識していればそれでいい。違うかね」
「確かに間違いではないだろうが、勝手に名前を付けられるというのは、気分のいいものじゃないだろう?」
彼女のことを聞かされてはいたものの、この時点で、私はホームズに対する不信感のようなものを持っていて、敬語を使おうという気はとうに消え失せていた。
しかし、彼女は私の言葉遣いを特に気にする風でもなく、淡々と、まるでそれが当たり前であるかのように正論を並べていく。
「そもそも、今のロンドンでは労働者階級の人間の情報をいちいち調べてまとめていたりなどしていない。だから、市民のひとりやふたり名前が変わった所で気にも留めやしないさ」
「しかし―――」
「なら、ニックネームだと考えればいい。愛称を付けられた経験は?」
問い掛けに首を振ると、「あ、そう」とさして興味もなさそうに彼女は軽く肩を竦めた。
「私はある。けど、それはどうでもいい。それに、ニックネームというのもあながち間違いではないのさ」
「どういうことだ?」
私の問いにひとつ頷き、彼女は机の上に放ってあった手紙を手に取った。
それは知人から私宛てに送られてきたもので、裏面には、フルール・ド・リスに似た三つ又に分かれた蛇の印の封蝋が押されている。
その宛名を私に見せながらホームズが口を開く。
「『ジェームズ』。これは君の名前だ。その愛称である『ジョン』。名付け親たるこの私、ホームズの『H』。そして、ここの家主であるハドスン夫人を文字って『ワトスン』さ」
そういうことを聞きたかったのではないのだが、どうも上手く伝わっていないようだ。彼女の表情からすると、わざと話を逸らしている気もする。
こめかみを軽く押さえながら新たな問いを投げる。
「あー、名前の由来はいいんだ。そもそも貴方の名前だって私が事前に聞いたのと違っている。ホームズというのはどういうつもりだ?」
「おいおい。ロンドン市警の資料にもある由緒正しい名前だぞ?」
黙ったまま眉根を寄せると、彼女はあからさまな溜め息を吐いた。
「探偵だよ。名探偵ホームズ。そう言えば分かるだろう? そして、その助手のワトスン。ホームズとワトスン。どうだい、悪くないと思わないか?」
開いた口が塞がらないとはこのことだ。
よりにもよって、あのホームズとは。ロンドンにおいて、知る人ぞ知る探偵の名前だが、まさか、としか言い様がない。その名探偵が目の前の自分だとでも言いたいのだろうか。
先ほどの彼女の言ではないが、現在のイギリスでは労働者階級の情報管理などしていない。だから、彼女がホームズを名乗っていたとしても、それが本当に彼女のことなのかどうか、今の段階で証明する術はない。
私が黙っているのを賛同と受け取ったのか、調子づいたホームズが部屋の中を歩きながら言葉を紡ぐ。
「中々いいだろう? これが元の名前ならこうは行かない。名前を変えるというのも、これからの新しい門出に相応しいと言える」
「いやいや、ちょっと待ってくれ。思わず呆けてしまったが、助手? 私に君の助手をやれというのか?」
立ち止まったホームズがこちらを振り返る。その顔は、なんとも不思議なモノを見るような複雑な表情をしている。
「当然だろう。探偵に助手は付き物だ。それに君はアフガニスタン帰りで医術の心得もある。何かあった時、銃を扱えて、肝も据わっており、応急処置もできる人材などそうはいないだろう。まさに掘り出し物というやつだ」
「その話を誰から聞いた? あらかじめ私の身辺を調べたのか?」
思わず眉を顰めて、詰問するような口調になってしまったが、私は過去に踏み入られることを好まない。もはや、ホームズに対する警戒心は限界にまで達していた。
確かに、彼女の口にした情報は全て真実だが、アフガニスタン帰りなどと言う言葉は事前に調べていなければ出てくるはずのない言葉だ。
この時の私は、彼女を追い出すことまで考えに入れていたのだが、彼女のあっけらかんとした台詞に、またしても呆気に取られることになる。
「いや? 私は特に調べたりなどしていないよ。精々、名前くらいのものだ。まあ、周りの者は多少なりとも調べはしただろうが、私はそれを聞くほど野暮ではないつもりさ」
「じゃあ、なんで……?」
「ん? ああ! そういうことか!」
ひとり納得したような声を上げた彼女が急に笑い出したので、私はもう不満げ雰囲気を隠そうともせず、憮然とした表情で尋ねた。
「いったい何をひとりで笑っているんだ」
「いや、済まない。ようやく分かっていないことが分かったのさ」
「?」
「うん。私にとって今程度の推理はできて当然のことなんだよ。私には一種の直観力と天性の観察力があるし、長年の習慣で思考の回転が非常に速くなっているから、途中の段階を飛ばして結論を出してしまったんだ」
「推理?」
「ああ、そうさ」
彼女はその推理とやらで私のことを暴いたのだと言う。まだ出会って一時間も経っていない。そんな相手のプロフィールを推理することなどできるのだろうか。
そんな気持ちが表情に出ていたのだろう。軽く笑みを浮かべたホームズが、滔々と自分の推理を披露していく。
「つまりはこういうことだよ。『この紳士は軍人タイプだが、長年軍に務めていたというほどではない。部屋にはドイツ語で書かれた本が多くあり、医学に関係する本の割合が大きい。すると、軍医に違いない。それに熱帯地域から帰ってきたところのようだ。顔は焦げ茶色が治りつつある上に手首は白いから、生まれつき色黒というわけでもない。左腕を負傷しているらしい。動かし方が少々ぎこちなくて不自然だ。そして、イギリスの軍医が腕に負傷までするような、熱帯地方の戦場は、アフガニスタン以外にはない』これだけ考えるのに一秒も掛からない。そのことを口にしたら、君が不審感を露わにしたというわけさ」
「なるほど。説明を聞いてしまえば至極簡単だな」
実のところ、私は内心で舌を巻いていた。
これだけ考えるのに一秒も掛からないと言っていたがとんでもない。普通の人間には一秒どころか、答えに辿り着くことができるかどうかすら怪しいものだ。
この推理によって、私は彼女の評価を改めることになった。それこそ、服装の異常性など些細なことに思えるほどの衝撃だ。見聞きした以上に凄まじい能力を持っているのではないか、と期待するほどの出来事だったのである。
「エドガー・アラン・ポーのデュパンを思い出すよ。あんな人物が本当に存在するとは思わなかったけれど」
それは私にとっては最上級の褒め言葉であったのだが、彼女には些か不満だったらしい。
この部屋で一番上等な椅子にどっかりと腰を下ろすと、話のリズムを取るように、テーブルをトントンとノックし出した。
「もちろん、褒めたつもりでデュパンの名を出したんだろうけど、私に言わせればデュパンは数段落ちるよ。十五分も黙り込んでおいて、おもむろに真相を突いて友人を驚かせるようなやり方は、わざとらしいことこの上ない。確かに分析的才能はちょっとしたものだが、もっと凄い奴は沢山いるさ。私とかね」
ウインクをしてみせたホームズの口ぶりは自信たっぷりで、自分の能力に一分の疑いもないことが感じられた。その頭脳こそ卓越してはいるが、どうやら彼女は相当の自信家で自惚れ屋らしい。
「ところでワトスン君。君は紅茶を淹れるのだろう。一杯頂けるかな?」
「……ああ、私のことか。その呼び方には慣れないな」
「なに、すぐに慣れるさ。人間とは慣れる生き物だからね」
言いながら、テーブルの上にあったティーカップを持ち上げた。
おそらくティーカップの状態を見て、私が紅茶をよく飲む人間だと推理したのだろう。ハドスン夫人の元には、世話好きのメイドがいるのだが、何故、私が自分で紅茶を淹れるタイプだと分かったのかは分からない。例の直観力と観察力やらで見抜いたのだろうか。
軽く息を吐いて、ティーカップを受け取る。
「分かった。今淹れてくる」
「ああ、そうだ。下に私の荷物が置いてある。その中に私が持参した茶葉があるから、それを使うといい。ついでに荷物をここまで持ってきてくれると嬉しいね」
キッチンに向かおうとしていた足を止めて振り返った私の口から、恨みがましい声が漏れる。
「私は雑用係か?」
「雑用も助手の務めさ」
さも当然という口調に、先ほどよりも大きな溜め息が出てしまう。
どうも、ホームズという人間は自分の考えや意思を曲げない頑固さがあるようだ。
「給金は弾んでもらうぞ!」
精一杯の抵抗とばかりに捨て台詞を残し、乱暴に玄関のドアを開けた私の背中に、彼女の言葉が飛んできた。
「ははっ、期待したまえ」
変わらぬ自信に満ちた声音に、今度こそ私はホームズには何を言っても無駄なのだと理解したのだった。
暖炉で沸かした湯を注いだポットを手に、ホームズへと問い掛ける。
「いくつか茶葉があるようだが、ダージリンでいいのか?」
階下から女中の手も借りて二階へと運んできた四つほどの旅行鞄には、衣類などの生活必需品や雑貨の他、ひと抱えほどもある紅茶の茶葉が旅行鞄のひとつにギッシリと詰められていた。
「ああ、それで構わないよ」
ホームズはと言えば、この部屋で一番大きな窓の前に置かれた肘掛け椅子――この部屋に置かれている中で一番高級なものだ――に悠然と腰掛け、手元に置いた本を早いペースで捲っている。
どうやら彼女は速読もできるらしい。数百ページもあるドイツの医学書なのだが、あのペースでは一時間もしない内に読み終わってしまうに違いない。
「分かった。少し待っていてくれ」
他人の本を勝手に読むな。という言葉を飲み込んで紅茶を淹れる作業に戻る。どうせ何を言っても無駄だろう。
彼女からは特に返事はない。どうやら相当に集中しているようだ。
肩を竦めつつ、ポットの中の湯を入り口脇のタライに捨てる。このタライに捨てられた湯は、後でハドスン夫人が雇っている女中が回収する。回収された湯は、掃除の際などに使われることになるのだが、その辺りのことをこの場で事細かに解説する必要はないだろう。
私はホームズが持ち込んだ茶葉の中からダージリンが入った瓶を取り出す。
蓋を開けた途端に、ダージリンの持つ強い香気が立ち昇った。
「良い香りだ」
おそらくはセカンドフラッシュだろう。夏摘みのダージリンは一年で最も品質が高く、それ故に他の収穫期に比べて高値で取引されることが多い。
湯で温めたポットにスプーン一杯ほどの茶葉を入れ、沸騰したての湯を勢いよく注いでゆく。より明確になった香りが鼻腔をくすぐった。
すぐさまポットの蓋を閉じ、手製のティーコジー――ポットを冷まさないようにするための半月形の布――でポットに被せる。
一度お湯を注いで温めたカップを片手に、彼女の下へと赴く。
「随分と本格式だ」
気配を感じたのか、医学書から顔を上げたホームズがそう呟いた。
「それは褒めているのか?」
「もちろん、そうだとも」
さして感情の込められていない頷きの後、私を急かすように目の前の小さな丸テーブルを叩く。その瞳は期待に満ちて輝いている。
「もう少し我慢というものを覚えてくれないか」
苦笑しながらポットとカップを置き、ティーコジーを取り外す。ポットの蓋を取って、
スプーンで中をひと回し。
ほんのりと温かくなっているカップに紅茶を回し注いでいく。
その途端、先ほど嗅いだよりも濃く、強い香りが部屋中に広がる。
ダージリンの上質なセカンドフラッシュ特有のマスカテルフレーバー。巨峰のような葡萄の皮を口に含んだ時にも似た甘く渋い香り。味覚で感じる葡萄の皮よりも、嗅覚で感じる分、その香りは豊かに肺を満たしていく。
上質な紅茶の香りには、いかなホームズと言えども頬を緩めてしまうようだ。
大きく鼻を膨らませて香りを楽しんでいる様子は、数秒前までの鋭い目をした天才とは打って変わって、見た目相応のレディにしか見えない。
ソーサーに乗せたカップをホームズの眼前に置く。
「どうぞ」
「うむ。ありがとう」
一言告げ、カップを口元まで持ち上げた彼女が、今度は静かに香りを吸い込む。
「やはり良い香りだ」
口端を軽く持ち上げながら呟き、ゆっくりとカップを傾けていく。
暫しの静寂。
小さな喉を鳴らして嚥下したホームズが、小さく息を吐いた。
「素晴らしいな。ダージリンの質はもちろんだが、その魅力を存分に引き出した手腕も素晴らしい! 」
「お褒めに預かり光栄です。お姫様」
ホームズの態度の大きさを皮肉った言葉と共に仰々しい一礼を返すが、私の態度を気にする風でもなく、ホームズが身を乗り出した。
「君は紅茶を淹れるのが巧いようだが、一体、どこで習得したんだい? 軍では専らアルコールだろう。紅茶を飲むにしても、いちいち時間を掛けて飲んだりすることは少ないはずだ!」
それはまさしく好奇心を刺激された子供のような勢いで、やや身を引きながら答える。
「確かに軍ではあまり飲まなかったが、大学にいた頃、友人にやらされてたんだ。淹れる度に『不味い』と言われたから、『美味しい』って言わせるために必死に勉強したんだよ」
「なるほど。その御仁には感謝しなければならないな。お陰でこうして私は美味い紅茶が飲めているのだから」
満足げに頷きながら、再びカップを傾ける。
そんな彼女に、私はふいに頭に浮かんだ疑問を投げ掛けた。
「そういえば、貴方にも分からないことがあるんだな。紅茶をよく淹れることをごく自然に当ててみせたものだから、その理由も見通しているものかと」
その問いに眉を顰めたホームズが、呆れとも苛立ちとも取れる息を吐き出す。そして、カップを置いてからこちらに向き直った。
「あのなあ、君。私は探偵であって、全知全能の神ではないし、遥か東方で語られる千里眼なんてものも持っていやしない。探偵とは、現場に残された情報から推理するものだ。先ほど君が説明した内容を示すものは、この部屋には無いよ。まあ、君が紅茶を淹れていたと思しき女性の名前は見つけたがね」
メアリー・モースタンと言ったかな? などと呟いている彼女を見て、私はすっかりと感心してしまっていた。
シャルロット・ホームズという女性は、確かに探偵であったのだ。
私は心のどこかで、天才的頭脳の持ち主なのだから何でも分かる。などと突き放したようなことを考えていた。しかし、彼女は卓越した観察力と直観力を以て、謎に対する答えを導き出す探偵だったのだ。
密かに彼女に対する評価を引き上げていると、ホームズは自分の懐に手を入れ、ごそごそと何かを取り出そうとしている。
少ししてスーツの内ポケットから取り出したのは、四角形に折り畳まれた包装紙。
「それは?」
「見れば分かるさ」
開けられた包装紙の上には、きめ細かい白い粉がスプーン一杯分ほど乗っかっている。それは、私が軍医として仕事をしていた際に使用していたモルヒネによく似ていた。
どうするのだろうと眺めていると、ホームズは何の迷いもなく、それを口元へと持っていく。
「ちょちょちょっと待て!」
寸での所で彼女の腕を掴んだ。
口を開けたまま動きを止めたホームズが恨みがましい視線でこちらを睨み上げている。
私はほっと息を吐いてから強めの口調で告げる。
「ホームズ。貴方は薬物なんてやっていたのか! こんなことが周りに知れたら!」
不思議そうに黙ってこちらを見上げているホームズから薬物を取り上げようと手を伸ばすが、それよりも早く彼女が口を開いた。
「どうやら君は勘違いをしているようだ」
「勘違い?」
不思議そうに見下ろすのは、今度はこちらの番だった。
ホームズ曰く『勘違い』をしているらしい私を見上げたまま、彼女が包装紙をこちらに差し出す。
「指に取って舐めてみるといい。これはモルヒネでもコカインでもないよ」
「本当に?」
問い掛けに、彼女は白い粉をさらに突き出して応えた。
眼前に差し出した包装紙に小指を伸ばして少しだけ掬い取り、恐る恐る口元へと運ぶ。
見た目はただの白い粉だ。一見しただけでは、その成分までは分からない。匂いも特にないから、少なくとも危険物ではないようだが。
ごくりと生唾を飲み込み、思い切って指先をひと舐めした。
「…………」
「どうかな?」
問うた彼女に、私は呆気に取られながら答える。
「……甘い」
「その通り! これはシュガー。ただの砂糖だよ。頭の巡りが良くなるんだ。頭を使った後に食べるのもいい」
「なんだ……私はてっきり」
胸を撫で下ろしている私に向かって、ホームズはにやりとした笑みを浮かべながら片目を瞑った。
「無事、薬物と勘違いしたようだね」
「ああ。驚いたよ……ん? 無事?」
くすくすと笑っている彼女を見た瞬間に、私は悟った。
――これはホームズの仕掛けた悪戯だ。
私が軍医だったことを始めとし、いくつもの事柄を推理して見せたホームズだ。ダージリンはストレートで飲むのが一般的であることを差し引いても、テーブル上にシュガーブロックの瓶が置かれていないこと、少し前まで軍に属していたことなどから、砂糖に接する機会が少ないことを直観し、軍医だったことから、白い粉を見れば砂糖よりも先にモルヒネなどの薬品が頭に思い浮かぶだろうことを推理したのだ。
思えば、『軍では専らアルコールだろう?』という質問の件も、軍属時代に紅茶を通して砂糖と接する機会が多かったかどうか、という推理材料のひとつになっていたのだろう。
シャルロット・ホームズとは、ほとほと恐ろしい人物であるようだ。
「まあ、私が中毒者であることは事実だがね」
楽しそうな顔で砂糖を口に流し込んだシュガージャンキーが続ける。
「とはいえ、今のロンドンにおいて薬物に関する犯罪も少なくはないがね。ただ、私は薬物中毒者ではないし、私からすれば残念なことに、そういった犯罪は大したことがない」
差し出された空のカップに、ポットから紅茶を注ぐ。再度ティーコジーを被せておいたから、紅茶はまだ熱いままだ。
「というよりも、最近は犯罪も犯罪者もまるで大したことがない。凶悪さ、という意味ではなく、難解さ、という意味でね。過去の犯罪を紐解くのは、良い暇つぶしになったものなんだがね」
ともすれば、犯罪の発生を望む不謹慎な内容にも聞こえる言葉をぼやきながら、彼女は窓からロンドンの街並みを眺めている。
ホームズが纏う空気は持っている玩具に飽いた子供に近い。
彼女はやはり変人なのだな。と思いつつも、私の口元は弧を描いていた。
何故ならば、彼女と共にいることで刺激的な日々を送ることができるであろうことを直観していたからだ。
名探偵シャルロット・ホームズとの出会いの日から十日後。
全ての始まりとなる事件が起こるのだった。
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