キザワの紡いだ言葉たち

前編:光

 駅前のスクランブル交差点は今日も家路を急ぐ足取りで満たされている。

 それぞれ帰る場所があって、それぞれ抱えている思いがある。そしておのおのがそれを知らないまますれ違う。一頻りの移動が終えたあと、今度は色とりどりの機械達がその空間をひしめきあう。全ては信号機の仰せのままに。

 その赤い信号機を細い目で睨みつけてから、一つ大きなあくびをすると、八木は腕時計に目をやった。そしてトントンと足を鳴らし始める。

 あー、あちぃな。そう言葉にならない溜め息をもらしてからセミロングの髪を拭った。茶色のウェーブがかったその曲線が一瞬だけ踊る。

 陽は沈みかけているとは言え、蒸し暑さが残るこの季節。ほんの数秒の信号待ちですら、死活問題だ。下肢に張り付いたスラックスを手で無理やり引き離し、パタパタ、と風を送る、せめてもの労い。同様にワイシャツも一部をつまんでパタパタしてみるが、所詮焼け石に水だった。


「暑いっすね、奈良崎さん」


 そう言って八木は隣に立つ自分より頭一つ飛び出た男に声をかけた。

 奈良崎と呼ばれたその男は横断歩道の前に、すっ、と立っていた。横にはまるで犬が、はあ、はあ、言っているような息遣いの八木。二人を並ばせると、その奈良崎の直立不動で微動だにしないシルエットは、ある意味異様だった。あたかも別の季節で息でもしているかのように。


「夏だからな」


 奈良崎がそう呟き終えるタイミングで、その足が一歩前に出た。信号が青に変わったのだ。おっ、と言いながら小走りする八木は、まるで飼い主に遅れまいとする飼い犬だった。 

 

 完璧。

 その言葉はこの人のためにあるんじゃないか、と時々八木は思う。だからこそこの横を颯爽と歩く奈良崎は実は深い闇を抱えているんじゃないかと思うこともあった。

 仕事も出来て、気配り上手。下手にライバルから目をつけられることもなく、上司へのお膳立ても一級品。それでいて部下からの慕われ具合も凄まじい、そんなうまい話があるだろうか。


「奈良崎さんって、スマホも月に一回は買い換えるって本当っすか?」

「あぁ。常に新しいものを手にしていたいからな」


 八木はちらっと横顔を見た。

 この真夏の熱気の中ですら涼しげなこの横顔の奥には、実は今にも悲鳴をあげそうな歪みが隠れているんじゃないか。そう思わせるほど、奈良崎は非の打ち所が無かった。



 ちょうど交差点の真ん中に差し掛かった時、ビルのビジョンにニュースが流れた。

 内容は連続女性社員殺人事件だった。

 手口が似ていることから、同一犯の犯行として警察は捜査しているが、一向に手がかりはつかめていない、そんな内容だった。


「あの殺人事件、犯人まだつかまってないんですね。しかも、結構ここから近いじゃないですか、現場。俺、こんな時だけ男でよかったな〜なんて思っちゃったりしますよ。あれ? 奈良崎さん?」


 八木が何箇所も目をやってやっとみつけた奈良崎は駅へ続く階段にいた。そこで老人の荷物を一緒に持って階段を上がっていたのだ。あふれんばかりの笑顔を振りまきながら。老婆はその曲がった腰のまま、何度も何度もその白くなった頭を下げ、奈良崎にお礼をしていた。

 その光景を見ながら、八木は先ほどの奈良崎の深い闇説を考えた自分を恥じた。


——奈良崎さんだけは本物だ。

 きっと自分の中にある闇と戦って、打ち勝ってきたすごい人なんだ——


 そして何事も無かったかのように、こちらに向かって来る。そして、軽やかにこう放った。

「じゃあな」

「あれ? 奈良崎さん、バス停逆方向ですよ?」

「今日は歩く。最近運動してないからな、また明日」

 そう言って後ろ姿で手を振る奈良崎を見て、やっぱあの人はかっこいいな、道理で女にモテるわけだ、と妙に納得していた。俺もあんな風になりたい、そんな妄想を浮かべぼーっとする八木の肩を、すれ違う誰かがドスッと、当たって行った。


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