黒猫と文字
手入れの行き届いていない小さな雪の家に着いた言ノ葉はある違和感に気づいた。
「あれ、雪の両親は?」
脇にそろえられた下駄は埃がかかっており、何人かの人間が生活していた痕跡はあれど、人の気配はひとつもなかったのだ。
「少し前にね、亡くなってしまったの。流行り病で……」
言ノ葉の何気無い疑問に雪の空気が沈む。
「ごめん、そうとは知らず。大丈夫だよ、これからは僕がいるから!」
慌てて言葉を紡ぎ雪の気を浮上させようとする言ノ葉に雪は笑顔でありがとうと言った。しかしその笑顔は作り物で、言ノ葉は耐えきれずうつむいてしまった。
「私、貧乏だから言ノ葉に贅沢なんてさせてあげられないの。なのに連れてきてごめんね。」
雪は言ノ葉に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟いく。その言葉には「無責任に貴方の命を預かってごめんなさい」という雪の心情が隠れていた。
(大丈夫だよ。僕の方こそありがとうなんだから)
言ノ葉はその真意を知ってか知らでか、何も言わずに頭を雪の足に擦り付け、本来の猫のようにゴロゴロと喉を鳴らした。雪もさっきまでの歪な笑顔ではなく、本心から嬉しそうに笑う。
こうして、会話ができる一人と一匹の奇妙な生活が始まった。
雪がご飯を用意している間に言ノ葉は家を探検していた。何もかもが真新しく、野良猫として生活していては知る事ができなかったものばかりだ。
「何これ?」
その中でも言ノ葉は机の上に置いてある物に興味を持った。それが何かわからないが、なぜか物凄く惹かれるのだ。初めて人間達が話しているのを見た時のように。
「ご飯できたよ」
しかし、机に乗ろうとした時、雪の声が聞こえたため疑問をしまった。自分の好奇心よりも食欲の方が勝ったのだ。そこはやはり獣としての本能が働いたのであろう。
「ごちそうさまでした。そういえばあっちの机に乗っていたのってなに?」
食事も終わり、言ノ葉はしまっていた疑問を今度は雪に問うた。気になったものは何がなんでも知りたくなる性分なのかもしれない。言ノ葉の中には再びあの時の好奇心が湧き上がっていた。
「ああ、あそこに乗ってるの? あれは戯作だよ」
「戯作?」
聞いたことのない単語に言ノ葉は首を傾げる。そんな言葉は盗み聞きしてた人間達の会話に一度もでたことがなかったため、どんなものか想像すらつかない。
「そう、東海道中膝栗毛っていって十返舎一九って人が書いた物語なの。昔、父が一冊だけ買ってきてくれてんだ。読んでみる?」
「うん!」
言ノ葉は勢いよくそう答え、雪は表紙をめくった。
「なんて書いてあるの?」
これが一枚目を見た言ノ葉の感想だ。そこには様々な文字が文となり物語を綴っている。しかし、言ノ葉の目にはよく分からない記号がたくさん映っているだけに見えたのだ。
「そっか、言ノ葉は言葉が使えても文字は読めないんだね。そうだ! 私が文字を教えてあげる! 少しの間だけど寺子屋に通ってたんだ」
文字が読めない。その事にいち早く気づいた雪はそんな提案をする。この本は雪のお気に入りだったから、どうしても言ノ葉にも読んで欲しい、知って欲しいと思ったのだ。
「本当に?」
「うん」
「やった! じゃあこれはなんて読むの?」
こうして、雪による言ノ葉の文字教育が始まった。
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