第3話 狼女の登場です
防衛省「亀の湯対策本部」の暗い会議室では、三人の中年男が顔をつき合わせている。いずれも浮かない顔だ。
「大気圏外まで届くパルスレーザーまで所有していたとは……」
対策本部長の鶴田はため息をつく。国防軍の切り札、ピンポイント攻撃衛星「いかずち」をスクラップにされてしまった。
「外部からの通常攻撃では、亀の湯の破壊は不可能でしょう。無数のセンサー、トラップ、カムフラージュされた民家、さらに迎撃部隊であるFS部隊の応戦。破壊どころか、瓦一枚壊すことができません」
険しい顔で答えたのは、副本部長の羽尾である。
「恐るべき要塞だ」
そして鶴田はもう一人の方を向いた。
「横瀬君」
「はい」
答えたのはやや若い、といっても三十代後半だが、防衛副大臣の横瀬である。
「総理にソーリーと伝えてくれ」
「はあ?」
「万策尽きたので諦めてほしい。当本部は解散しよう」
それを聞くと、横瀬は顔をしかめた。
「そうはいきません。現政府ではあらゆる協力を惜しまないと決定しております。亀の湯の存在は我が国の、ひいては世界の脅威なのです。たかが銭湯一つ。確実に破壊するまでやっていただきますよ」
「そうか……困ったな」
鶴田は椅子の背もたれによりかかって、上を向いて考える。
「あのう本部長、外部からがダメであれば、内部から壊すべきかと思います」
羽尾が何かを思いついて進言するが、鶴田は上を向いたままだ。
「ふん、どうやって? あの銭湯はああ見えて人間をチェックしているよ。こないだ潜入したイケメンスパイが、熱湯を浴びて病院送りになったのは知ってるだろう。彼のところのシャワーだけ熱湯に変わってたんだ。表向きは事故だったがね」
「いえいえ、壊すべきはまず亀の湯地下にある防衛施設かと」
「そっちはますますセキュリティがキツい」
羽尾が笑う。
「いえいえ、人でなければいいのです。あそこは女ばかり。女が弱いものを潜入させればいいのですにゃ」
「ほほう、にゃるほど。アレだな」
鶴田はにやっと笑った。
出社した佐倉は、昨日と同じように会議室で待っていた。結局辞表は持ってきていない。昨夜、辞めることにしたという連絡を実家にしようとする直前に、当の実家の母親から電話が来た。
「真由、どう社会人初日は? なかなか大変でしょ。でもがんばってね。お前が無事に就職できたことをみんなとっても喜んでいるんだから。今だから言うけど、お前が就活している間、あたしは心配で心配で心配で、胃に穴がいくつもあいちゃって、十二月からずっと病院に通ってたのよ。お父さんもね、一月に救急車で運ばれたけど、あれは過労じゃなくて仕事中もずっとお前を心配してたからなの。弟の洋一郎だって二月に一週間ぐらい寝込んでたけど、あれはお姉ちゃんにパワーを送るんだって言ってね、お前のパンツはいて学校に行って、それがまた友達にバレちゃったもんで思い切りバカにされて、精神的にダメージを受けてたからなの、あの頃家庭崩壊寸前だったけど、もうみんな大丈夫よ。何も心配してないからね」
一方的な母からの言葉を聞きながら、佐倉はぽろぽろと涙をこぼした。これではとても辞めるとは言い出せない。
ため息をついて机にあごを乗せてぼんやりしている。まだ宇賀神が来ない。ふと見ると、開けたままの会議室のドアのところに、白と茶の斑猫がいた。やや小さいので子猫だろうか。佐倉を見て、にゃあと鳴いた。かわいい声だったので、何となくなごんでしまう。佐倉は微笑して体を起こした。
「あなたはここの飼い猫?」
そう言っても答えるわけはない。猫はそのままどこかに行ってしまった。
しばらくして、総務部の中村がやってきた。
「宇賀神指令が忙しいんで、今日はもう、自分の机で仕事してもらいますね」
「あ、はい……地下ですか?」
「いえ、ここのフロアです。非常時の呼び出しがあれば地下にも行ってもらいますが」
中村は佐倉を促す。佐倉は会議室を出ると、キョロキョロと辺りを見回した。
「どうしました?」
「いえ、さっきの猫、どこかなって……」
「猫? 猫なんかいませんよ」
「え? ここの飼い猫じゃないんですか?」
「オフィスで猫は飼いませんよ。やだな、本当にいたの? 野良猫でも入ってきたのかな……とりあえず、席に案内します」
オフィスは教室ぐらいの広さで、机をまとめた島がいくつかある。全部で十数名しかいないようで、何となく閑散としている印象だ。地下の方がよほど活発に見える。指定された席に座る。隣にも席があるが、そこの人はどこかに行っているらしい。
「地上のこのオフィスはカムフラージュです。一応、表の店舗で女性向け防犯用品の販売をしています」
「はい」
それは就活時に分かっている情報だ。もちろんカムフラージュとは思わなかったが。
「仕事は隣の神野(じんの)さんに訊いてね。それじゃ」
そう言って、総務部の島に戻ってしまった。神野さんってどんな人だろう。宇賀神指令みたいに怖かったら嫌だと佐倉は思う。
しばらくして、ごく普通のスーツを着た女性が隣の席に座った。年齢は佐倉と同じかやや上のようだ。佐倉の方を見てにっこり笑った。
「神野です。よろしくね」
「あ、はい、佐倉です。よろしくお願いします」
よかった。優しそうだし普通の人だ。
「じゃあ、端末の設定からしようか。慌てなくていいからね」
佐倉のノートパソコンが配布され、そこにユーザ登録やら社内連絡用のメールソフトの説明などを受けた。神野の説明は優しくて丁寧で、ちょっとした質問にもちゃんと答えてくれる。笑顔も素敵だし、佐倉は彼女のような社会人になりたいと思った。
午前の時間が過ぎて、すぐに昼休みになった。
「佐倉さんはお昼どうするの? お弁当?」
「ええ、コンビニででも買おうかなと」
「じゃあ、いいお弁当屋さんあるよ。あと、ちょっとした公園もあるから、そこで一緒に食べない?」
「あ、いいですね」
神野の行きつけの弁当屋で買って、少し歩くと、広くはないが日本庭園風の植え込みと、小さな池ある公園があった。そこにテーブル付きのベンチもいくつかあって、広げて食べることができる。自分達以外、人はいなかった。
「へえ、素敵ですね」
神野は笑顔になる。
「まあ、穴場ね。今日は天気もいいし、こういうところで食べるとおいしいよ」
食べながら聞いたところ、神野は去年入社してきたそうだ。一ヶ月の研修期間で、一通りのことは学ぶという。
「FSも使わされるよ。私には不向きだったけどね」
背中に付けて空を飛ぶ装置。FS部隊は亀の湯防衛の要だという。蒲原の離脱のことも知っていた。
「あの人は宇賀神指令の右腕みたいだったもの。彼女がいないと痛いね……」
食べ終わると、神野はスーツの内ポケットに丸めて入れてあった薄い本を出して読み始めた。佐倉は辺りを見回してみる。亀の湯の高い煙突がすぐ近くだ。
「ここは亀の湯のすぐ裏手なんですね」
「そうだよ。そういえば、社交会を手伝ったんだって? どう? 驚いた?」
神野は本を見ながら訊く。
「はい……なんかもう異世界っていう感じで……」
勤めている以上、あまり否定的なことも言えないな、と佐倉は思う。
「気が知れないよね、あの人達」
「はい! はい、そうですね。全然上流じゃないですよ!」
佐倉はややはしゃいで答えた。あの場でさんざんな目にあわされた身としては、神野が同じ感想を持ってくれて嬉しい。
「なんでもっとスキンシップしないのかしらね」
「え? スキン……シップ?」
ここで佐倉は神野が見ている本が目に入る。それは小説ではなくマンガだった。そこでは裸の男達が戯れ合っていた。
「いっ……」
少なからず血の気が引いて青ざめる。
「分からないの? スキンシップって、つまりこういうことよ!」
そう言って神野は、佐倉に開いた本を見せつける。男同士のエグい描写に佐倉は引いたはずの血が逆流してきて、今度は赤くなって口ごもる。
「あ、あの、あの、つまりあの、男湯の話……ですか?」
「他に何なの! あんなババアどもが何をしててもどうでもいいでしょ。問題はああいう場で愛の世界に開花せずに普通にお風呂入っているだけの男達よっ! 気が知れないっ!」
神野はそう言って、立ち上がって身を乗り出す。目つきも口振りもさっきと全く違って怖い。また血の気が引き始めて青くなり、佐倉は体を後ろに引く。神野はそれを見て微笑した。
「あなたは可愛いね。食べちゃいたいくらい」
いきなりそんなことを言われ、佐倉はまた動揺。引いたはずの血がまたまた戻ってきて赤くなる。
「え、そ、そうですか?」
神野は微笑を引っ込めた。
「何を勘違いしているの。可愛いのがアタマに来るからアタマからバリバリ喰ってやりたいという意味よ」
「いっ?」
神野は佐倉に指を突きつける。
「だいたいっ! あなたのように男ウケを狙っている萌えキャラ気取りがいるから男が男に目覚めないのよ! 目覚めよと叫ぶ神の声を阻害するなんて人類の敵であり万死に値する。それに……」
「じ、じ、神野さん、か、か、顔、顔から毛が生えてます……」
佐倉が涙ぐんで指摘する。神野の顔一面にうっすらと銀色の毛が生えてきていた。顔の形もやや変形して、口と鼻が前方に出始めている。
「おっと……落ち着かなきゃ」
神野は目をそらし深呼吸して座った。そのままマンガ本をしまう。
「佐倉さんごめんね。私ね、興奮すると狼になっちゃうんだよ……」
「お、狼? あの動物の狼ですか?」
「そう、だからあまり興奮させないでね。何やらかすか分からないの」
なんかこの人も普通じゃない、と佐倉は思った。
亀の湯地下、トータスセキュリティの中央司令室では、迷い込んできたらしい小柄な斑猫を囲んで女性職員が集まっている。
「かわいい~」
「どっからきたの~?」
「ミルク飲むかな」
見下ろしている人や、しゃがんで頭を撫でている人など。猫はそれに答えるように、にゃあにゃあと甘え声で鳴いている。
一方、防衛省の「亀の湯対策本部」の一室では、コントロール端末が持ち込まれ、鶴田と羽尾がその前に座って操作している。すぐ後ろで横瀬が立って見守っている。
「よーし、やっとここまで潜入できたか」
本部長の鶴田がつぶやく。
「あとはそのスイッチを押せば、亀の湯もろとも防衛施設はコッパみじんですな」
副本部長の羽尾も薄笑いしながら言う。
「早くやっちゃって下さい」
背後から防衛副大臣の横瀬が急かすが、鶴田はコントロールレバーを手に、じっと画面を見たままだ。
「まあ待て……もう少し左だ……うーん」
「どうしたんです?」
「スカートの中が見えそうだ」
「何をしょうもない!」
羽尾があきれて言う。
「いやしかし、この低い猫の視点からスカート姿の若い女性を見上げるなんて機会はまずなかろうよ」
「そうですがね……それを言うならこっちの子の方が可愛いです」
羽根がレバーを奪って動かした。
「あ、こら、勝手にいじるな」
「でもこっちの方がほら、明らかに美人だし、超ミニスカートですぞ」
「だめだよ、こっちだ」
鶴田がレバーを奪い返す。
「なんで!」
「そっちはうちの娘に似てるんだよ。見たくない」
「そんなの関係ないでしょ。ちょっと私にも貸して下さいよ!」
「ええい本部長は俺だぞ!」
鶴田と羽尾はレバーの奪い合いを始める。それを見て、横瀬がわざとらしい咳払いをする。
「えっへん! 任務を忘れちゃ困りますな」
「黙れ小僧!」
奪い合いをしながら鶴田が怒鳴る。横瀬が気を悪くする。
「こ、小僧って……私は三十代も後半だし、妻子もいるんですよ!」
「うるせえ。二流政治家の分際で官僚様に文句言うんじゃねえ」
「そ、そんな、だ、大臣に言いつけますよ!」
「あいつ自虐史観のことをドM史観って失言したばかりじゃねーか。そろそろ辞任だにゃ」
「総理に言いつけます」
「二、三年で交代する総理なんて怖くないよーだ。ぶゎ~か」
鶴田が振り向いて横瀬にアカンベをする。その時羽尾が叫んだ。
「みみみみ見えたっ。見えましたぞ!」
鶴田も画面に注目する。
「くそ、政治家のせいで見落としたぞ。もっと感度を上げろよっ」
「これが限界です」
「じゃあやっぱりこっちの女だ」
「あっ、せっかく見えそうなのに……」
亀の湯地下では猫の挙動が変なので、囲んでいる女達が心配している。
「どうしたのかしら?」
「首だけ右向いたり左向いたりを繰り返してるね」
「病気かなあ」
そこに宇賀神が早足で歩いてくる。
「どうした? 何をしている?」
女達が脇にどいて、宇賀神に猫を見せた。猫は宇賀神を見て、可愛らしくにゃあと鳴いた。
「猫ちゃんが迷い込んできました」
「ここにミルクありませんでしたっけ?」
宇賀神はしばらく黙って猫を見ていた。次の瞬間、パァン!と高い音がした。片膝をついた宇賀神のハリセンで猫がブッ飛ばされていた。その場の女達が凍りつく。宇賀神は怒鳴った。
「仕事中に何やってるかバカモノ! だいたいどうして不審な生き物が入り込んでるんだ! 猫型ロボット爆弾だったらどうする!」
宇賀神自身、図星だとは思っていない。飛ばされた猫はかなりの速度でそこらじゅうを走り回っている。
「目障りだ! 早く追い払え!」
宇賀神が怒鳴るが、猫の走る速度は普通じゃなかった。おまけにそこらじゅうにぶつかっては、そこにある物を壊していく。
この事態に亀の湯対策本部も慌てていた。鶴田がレバーを操作するが、全く思ったように動かない。
「本部長、どうしたんです?」
「ダメだ。さっきの衝撃で制御系がイカれた」
「じゃあもう爆発させましょう」
「そうだな」
鶴田はコントローラーの赤いボタンを押すが、モニターにはひたすら亀の湯地下を走り回っている猫ロボットからの映像が映るばかりで、何も変化がない。
「ダメだ。コントロールが効かん」
「ええっ?」
「大丈夫。このまま走っていれば、ぶつかってあらゆる物を壊してくれる。そしてやがては自動的に爆発するのさイッヒッヒ」
亀の湯地下では宇賀神の罵声が飛び交っている。
「早く捕まえろ! グズ! 鈍足! ノロマ!」
「で、ですが宇賀神指令、網でもなければとても無理です」
「……役立たずが」
吐き捨てるように言うと、携帯電話を手に取った。
地上のオフィスでは、佐倉が神野の指示でまったりと午後の仕事をしていた。何とも眠い。そこに内線電話が鳴った。佐倉は受話器を取る。
「はい、地上オフィス……」
『佐倉っ! 大至急、網をありったけ調達して地下に持って来い!』
いきなりの宇賀神からの命令に、眠気が吹っ飛んだ。
「は、は、はい、アミって、アミって……お、オキアミですか?」
『バカタレが! 海の生き物じゃねえ! 猫をとっつかまえる網だ! 急げ! 早くしろ!』
そうしていきなり電話が切れた。隣の神野が心配そうに見ている。
「どしたの?」
「大至急、猫を捕まえる網を持って来いって」
「え? じゃあ買いに行かなきゃ。手伝うよ」
数分後に、近くの雑貨屋で網を五本ばかり購入した佐倉と神野が、地下本部に向かった。エレベータで降り、長い廊下を走って、本部のドアを開けると中が騒然としていた。
「見失いました!」
「そっちだ! その機械の陰に入ったぞ!」
宇賀神の罵声が飛んで、その度に職員の女達が追いかけ回す。しかし、暴走猫の方が遙かに早い。宇賀神は呆然と見ている二人と、持っている網に気がついた。
「おい、網が来たぞ! 取りに来い!」
その声で、数名の女達が網を取りに来て、猫を追いかけ始めた。しかし、網があったからといって、早く走って追いつけるでもなく、一向につかまらない。暴走猫は机にある物を散乱させ、キーボードやモニターを床に落とし、壊していく。その度に宇賀神がさらにヒートアップする。
「何しとるか! 鈍いぞお前!」
パァン!と音がしてハリセンが炸裂。打たれた女が倒れる。
「相手は猫一匹だぞ。それでもトータスセキュリテの社員か!」
またパァン! 佐倉はそれを見ながら「不思議の国のアリス」のハートの女王様を思い出す。首がチョン切られるかわりに、ここでは恐怖のハリセンが飛んでくるのだ。
とうとう一人が逆ギレした。半ベソで宇賀神に網を突き出す。
「そんなに言うんなら、宇賀神指令やってみて下さいよっ!」
宇賀神はしばらくその女を睨んでいたが、おもむろに網を奪い取った。
「分かった。見てろ」
宇賀神は網を手に散乱した司令室の中央に立つ。辺りを見回す。
「いいか、よく見てよく耳を澄まして、奴の進路を予想しろ」
全員静まり返り、いくつかの機械の音と、猫が走る音だけが聞こえる。
「そこだーっ!」
宇賀神が叫んで網を突き出した。そこに暴走猫が見事に飛び込んできた。全員どよめく。しかし、次の瞬間、網が突き破られた。猫はもう猫ではなく、火花を散らし、毛皮が半分ぐらい剥がれて、中の機械が見えていた。
「ロボットだ!」
宇賀神の顔にも動揺が走った。女達が何人か叫んで逃げ出し、出口に殺到する。そこに半分機械になった猫が走ってきて、女達を蹴散らした。叫びが一段と高くなる。
「待て! 落ち着け!」
宇賀神が叫ぶが誰も落ち着かず、フロア内をバラバラに逃げ始める。猫は佐倉と神野の方にも走ってきて、二人は思わず近くの机の下に隠れた。
「神野さん、どうしよう。ここから出なきゃ」
「それより、あれが爆弾で爆発したら、この司令室もみんなもおしまいよ。早くつかまえて爆発物処理室に入れるのが一番いいね」
その時、佐倉がふと思いつく。
「あのう、神野さんの狼って、走るの速いですか?」
「速いけど」
意図を察した神野の顔色が変わる。
「ちょっと……まさか、私に狼になってあれをつかまえろって言うの?」
「え、それ、いけませんか?」
「い、イヤだよ私そんなことするの! 宇賀神指令が何とかするよ」
その時、暴走猫が二人が隠れている机にぶつかった。二人は無事だったが、かなり大きな音がして、鉄板が凹んだ。
「ひいいい……怖いよう……」
佐倉に泣きが入る。佐倉は落ちている紙に、落ちているペンで震えながら書いた。
「♂♂」
そしてそれを神野に見せた。神野は顔をしかめる。
「何? それ?」
「あの……男と男ですぅ」
「あんた私をバカにしてるの?」
「で、でも……」
また走ってきた猫が机に激しくぶつかる。今度は机ごと少し動いた。佐倉は半ベソで近くを探す。机から落ちたらしい亀の文鎮が二つ転がっていた。佐倉はそれを拾って、亀の頭と頭をくっつけて神野に見せた。
「じ、神野さん、ほら、かーめさんとかーめさんがチュッって、チュッチュッチュッって……」
そう言いつつ、佐倉はあらぬ想像をして顔を真っ赤にしてしまった。神野はそれをあきれて見る。
「何自爆してんのよ」
神野はその二匹の亀を見つめていたが、いきなり体ごと変化した。体中に銀色の毛が生え、顔が変わり、体型が四つ足動物に変化し、着ている服が破け、しっぽが生えて、狼の姿になった。狼は机の上に乗り、高い声で吠えた。
「わおおおおおおおおん!」
宇賀神がその声に気づいた。
「そこの狼! あいつを捕まえて処理室にぶち込め!」
狼はもう一度吠えると、ものすごい速度で猫を追いかけ始めた。猫は変わらず暴走していたが、すぐに追いつかれて捕まえられ、首筋をくわえられる。狼はそのまま走っていき、処理室の丸い扉から火花を散らす機械猫を中に放り込んだ。近くの者が重い扉を閉めてロックする。直後、ドォン! という衝撃音と共に床が震えた。ロボット猫が中で爆発していた。
「やれやれ……間一髪か」
さすがの宇賀神も、安堵と共に近くの椅子に座り込む。処理室の脇では、破れたスーツで半裸の神野がうずくまっていた。そこに佐倉が駆けてくる。
「神野さん! 神野さん! さすがです。私感動しました!」
神野は立ち上がって佐倉を睨む。
「感動しましたじゃないでしょ! このスーツ高かったんだぞ。だからイヤだって言ったのに!」
「でも、この本部を救ったんですよ。神野さんは救世主です!」
そう言われると、神野もまんざらでもない様子だった。そこに宇賀神が来る。
「神野、よくやった。ご褒美をあげよう」
宇賀神が差し出したのは、いつも神野が読んでいるような薄手でかつ表紙に二人の仲睦まじいイケメンが描いてあるマンガ本だった。神野はひったくるようにそれを奪うと、中をパラパラ見始める。目は真剣そのものだ。
「……違う。宇賀神指令、違います。私のこだわりはもっと年齢差があって片方はツンデレ気味で三角関係に悩むシチュエーションも必要でそれから……」
言葉が終わる前にパッカーン!と音がして、マンガ本もろとも神野がハリセンでブッ飛ばされていた。
「細かいことなど分かるかっ! その本は有沢にもらったんだ。文句があるならあいつに言えっ!」
そう言って宇賀神は行ってしまった。佐倉は慌てて神野のところに駆け寄る。
「神野さん、大丈夫ですか?」
神野は起き上がって赤くなった頬をさする。
「理解者がいないのは辛いわ……佐倉さん、あなた理解者になってくれる?」
「いえ、それはちょっと……」
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