第39話 隠居魔王を美男子が見ている
ベルクレースイは急峻な山脈の麓の地である。その険しい山々の間にも、人は細々と住んでいる。
痩せた土地に鍬を下ろし、ささやかに開いた畑の周りに、小さな家が点々と見える。だが、狭い土地にも隅っこというものはあるもので、その人里離れた山裾に、いつの間にか掘っ立て小屋が1つできていた。
その戸を開けて、ひとりの老人が出てきた。霜の降りた地面を踏みしめて歩くその髪は、冬を待つ空にも似て寒々とした灰色である。
かつて、魔王と呼ばれた男である。名を、ヴィルハーレンという。
井戸に歩み寄ってつるべに手をかけ、水を汲もうとしたところで、人の住む里のほうからやってきた娘がそれを止めた。
「私がいたしますわ、お爺様」
粗末な木綿の服をまとってはいるが、その身のこなしの優雅なこと、まさしく魔王の孫娘……いや、勇者ランバールの娘ソフィエンであった。
「いや、寒いところを歩かせたのだから」
ヴィルハーレンは白い息を吐きながら、汲んだ水を傍らの桶に移す。
「無理なさらなくても」
ソフィエンは物々交換で得た肉や野菜を抱えて、小屋の中へと入る。魔界から持ち出したいくばくかの貴金属や純度の高い鋼は、まだ残っている。これがなくなる前に、来年の麦を蒔く畑を開墾しなければならない。
「あの女戦士の苦労に比べれば」
井戸に立てかけた鍬を取ったヴィルハーレンが思いを馳せるのは、不可触民の地位から這い上がるために斧を武器にしたサンディのことである。ソフィエンも、遠い空を見つめて微笑んだ。
「上手くやっていらっしゃるかしら」
それ以前に、まず彼ら自身が無事であったこと自体が奇跡であった。
……あの光に包まれた「決闘の間」は、魔王であったヴィルハーレンでさえも、どことどうつながっているのか見当もつかなかった場所である。光が消えたときには、目の前で魔王の城が跡形もなく崩壊するところであった。
魔王から下々の魔族に至るまで、その魔界のシンボルの滅亡を呆然と見ているしかなかったわけであるが、人間たちの思いは複雑であった。
まず、サンディはさっぱりしたものであった。
「つまり、魔王はもういないわけで、城もない。オレ達の勝ちってことじゃないか?」
かくして勇者ランバールの名誉は保たれ、サンディも望み通りの名声を手にした。問題は念願の社交界入りであったが、これは高貴な令嬢メルスが、ランバールと縁故をつなぐことで達せられた。
「魔王の技も捨てがたいんだけど、世捨て人になるつもりはないんだ」
そう言って、メルスは人脈の紹介と、礼儀作法の特訓を引き受けた。彼女の剣の師匠となった勇者ランバールの七光りもあって、サンディは不器用ながらも社交界でそれなりに立ち回っている。わざわざ胸元を強調したドレスは、それなりに貴公子たちの目を釘付けにしているという……。
「あの尼僧、お前の母になったかもしれぬのに」
ヴィルハーレンが言うのは、マルグリッドのことである。いったんは戦神を捨てて魔王の元に走ろうとしたはずだったが、ここにはいない。ソフィエンは振り向きもしないで、口を尖らせる。
「結局、それをお望みにはならなかったではありませんか」
……生きて帰れたことに気付くや否や、マルグリッドはヴィルハーレンに無心したものである。
「このコートを、くださいませんか?」
戦いが終わって辺りが落ち着けば、一時しのぎの服を魔法でまとわせてやるくらい、ヴィルハーレンにはわけもないことであった。実際、恥ずかしげにコートの前を掻き合わせたマルグリッドは、驚きの声を上げた。
応えたのは、この一言である。
「あの吊り橋の向こうにある町までは保とう」
それは、魔王からの
「神を捨てた私にも、その慈悲はありました。修行をやり直して……魔界までも見ていてくださった神に、再び仕えようと思います」
見つめあう二人を、ソフィエンは黙って眺めていた。
その顔には、祖父によく似た苦笑が浮かんでいた……。
「気を遣わせてしまったかな……お前のことで」
目を伏せる魔王を、孫娘はキッと見据えた。
「女というものを見くびらないでください。あの方は、在るべき場所と行く道を自ら選ばれたのです」
「お前がそんなに言うようになっていたとはな」
思えば、ヴィルハーレン自身も10年間、魔界を離れていたのである。幼子がいつしか、大人の女の仲間入りをしていても不思議はない。生まれたばかりの赤子が少年になるくらいの時間なのであるから。
……そうやって人生をやり直させられたのが勇者ランバールだったのだが、最後の最後になって告げたことがある。
「娘を頼んだぜ」
「お父、様?」
ヴィルハーレンへの言葉にソフィエンが目を見開いたが、その言葉のぎこちなさを勇者は聞き逃さなかった。
「無理するな。俺も、もう無理はしたくない」
それは、10年の間こらえにこらえていた冒険の旅が再開されることを意味していた。
「お互い、気楽にいこうや」
「もう?」
小首を傾げる娘には答えることなく、勇者は魔王だった男に向き直った。
「俺も実は、世間様に嘘をついていたのさ」
その眼差しは、目の前の相手ではなく、どこか遠くを見ているようでもあった。勿体をつけた物言いだったが、別段、ヴィルハーレンは興味を引かれたようでもなかった。
ここでの別れは、袂を分かつことを意味する。下手に聞き返せば、お互い、ずるずるとその機会を失ってしまう。
だから、どうでもいいといった口調で決別の言葉だけを口にする。
「お前たちの世界は守ってやる。こちらに手を出すようなら」と……。
その後に言葉が続かなかったのには、わけがある。
「こんなところで、ワシと共に朽ちていくことはないぞ」
「私の生き方は、私が決めます」
さらりと言って、ソフィエンは小屋の中へと入っていく。ぱたんと戸が閉じられて、朝食を作るかまどの煙が上がった。ヴィルハーレンは鍬をかついで歩きだす。
「行ってくるぞ」
「朝ごはんくらい」
細い木を筏のように結び合わせて作った扉の向こうから、引き留める声が聞こえる。もちろん、この頑固な老人は聞きもしない。
「できる頃には戻る」
行く先は、急な斜面にわざわざ開いた畑だ。
……なぜ、ヴィルハーレンとソフィエンは魔界を離れたのか。
先祖伝来の城は失われたが、それはまた築けばいい。それに、結界の外に去った勇者ランバールたちが戻ってくることは、まずない。他の人間が野心を持って踏み込んでくることがあるとしても、それはずっと先の話だ。
そもそも、魔王の座を継ぐ者がいない以上、誰かが魔界を統べなければならない。それは、凡百の魔族たちでは叶うまい。
「魔界に、女王がいなかったわけではないぞ」
そう言ってはみたが、ソフィエンはきっぱりと断った。
「私は、人間です。魔族の血をひいていません」
「しかし、ワシにも魔王の資格はもうないのだぞ?」
顔を見合わせる二人を、魔族たちは不安げに眺めていた。魔界の行く末が懸かっている。
その場にいる大勢が誰ひとり、口も開けずにいたところで、黙り込んでいたソフィエンが思い出したことがあった。
「お父様……いえ、勇者ランバールがついていた嘘とは、何だったのでしょう?」
「さあ、あの男の言うことだから……」
腕っぷしが強いことを除いては、好色で下品で、何一ついいところのない男である。明らかになっていない嘘をどれだけついてきたことか。
「でも、全部分かっているじゃありませんか」
子どものふりをしていたことから最後の決闘に至るまで嘘のつき通しだったわけだが、バレていないことはない。
「いや、真偽の定かでないことは」
そこで、ヴィルハーレンは口をつぐんだ。首を振って何か考え始めたのを、ソフィエンが気遣う。
「お爺様?」
いやいや、まさかと、かつての魔王はつぶやいた……。
人里を見下ろせる畑にまで登ってきた魔王の傍らに立った、端正な姿がある。15年前に魔王が城を出てから、生身で現れたことは一度もなかった者である。
「城を空けていいのか」
モードレとの戦いを終えたヴィルハーレンが魔界を去ってから、間に合わせの砦はどうにか完成したらしい。魔族たちは意地になって、それを「城」と呼んでいる。
「結界の入り口は、この辺りにもありますから」
その口調と背格好は、あの僭王によく似ている。だが、全くの別人だ。
「あまり無理をするな」
ヴィルハーレン自身はどこかで聞いた言葉だったが、傍らの青年はどうか。聞いていたかもしれないし、やはり知らないかもしれない。
「魔王がいないのに、
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