第38話 落ちていく者どもを、見ている

 ヴィルハーレンは尼僧をまっすぐに見据えた。

「戦神は?」

 マルグリッドはすっきりとした顔で言いきった。

「ご加護はもう、いりません」

 後にも先にもこのときだけであったろう、魔王ヴィルハーレンが目を白黒させたのは。それを見た尼僧マルグリッドも、今まで見せたことのない笑顔を見せた。

「だって、もうすぐ死ぬという人の命を、もう何人も返していただいたのです。これ以上のお願いは、かえって天罰が降ります。それに……」

 そこで口ごもると、サンディが背中を叩いた。はにかむ顔からは目をそらして、面倒くさそうにせっつく。

「くだくだ言い訳すんな。ホラ、その顔! トシ考えろ年齢とし!」

 メルスも耳を覆ってみせる。いつもは冷たい表情を崩してニヤニヤ笑っているのは、マルグリッドが何を言いたいのか察しがついたからだろう。

「何にも聞こえてないから、ボク」

 マルグリッドは意を決したように、魔王を正面から見据える。サンディもメルスも、ごくりと息を呑んだ。言葉の通じない魔族たちはというと、何が起こったか分からないというふうに事の成り行きを見守っている。

 ソフィエンだけは、さきほどとはうって変わって険しい目つきをしている。うかつなことを言えばただでは済まさないと、その眼差しが言っていた。だが、マルグリッドはそんなことはもはや、気にも留めない。

「今のあなたは、勇者以上に勇者です」

 サンディがガックリと膝をつき、メルスも肩を落とす。ソフィエンだけが、冷ややかな眼付きでため息をついた。「まあ、許してあげましょう」といったところか。

 だが、勇者の立場をよりにもよって戦神の尼僧によってコケにされたのがランバールである。本人としては黙っていられないのか、顔だけ振り向かせて憮然と言い放った。

「その辺でやめとけ」

 もう戦神の尼僧ではない妙齢の女は、魔王のコートの間から白い足を覗かせたまま、色っぽい目つきで見つめ返した。

「どうしてですか?」

「それはだなあ……」

 勇者が言いにくそうに口をつぐんだとき、「決闘の間」にはその隙を突くかのように異変が起こった。

 金色の光が、床を裂いて広がっていく。小さな亀裂に入り込んだ「床食い」が、膨張を始めたのだ。このまま行けば、この「決闘の間」を食い尽くしてしまうだろう。

 だが、ランバールはというと落ち着いたもので、言うに言えなかったことをごまかす好機とばかりに騒ぎ出した。

「おい、逃げるぞ!」

 サンディはそれほど冷静ではなかった。無茶を言われた怒りを露わにして喚く。

「どこへ!」

 それに応じたのは、少女剣士に返ったメルスだった。目を見開いて立ち尽くすソフィエンを促す。

「早く!」

 魔王の孫娘は頷くと、魔族に向かって手をさっと振った。だが、脱出を指図される間もなく立ち上がった魔族たちは、すっかり浮足立っている。さっき入ってきたところから出れば済みそうなものだが、そんなことも分からないらしい。金色の裂け目が広がっていく広い「決闘の間」を、あたふたと逃げ回っている。

 それを見かねたのか、あの穏やかな声が一言だけ聞こえた。

「静まれ」

 荒々しくはない。だが、どこまで続いているか分からない「決闘の間」全体を沈黙させるだけの威圧感があった。

 魔王は孫娘を見つめて言った。

「先に行け、ワシは力場フォース・フィールドでここを支える」

「でも……」

 すがりつかれそうになるのを手で制する。ソフィエンは黙って、ただ一つの出入り口に向かって歩きだす。同時に、金色の光の及ばない闇の中に、壁が青白い形をとって現れた。本来なら対立して然るべき戦神の力で蘇った魔王が、「決闘の間」いっぱいに力場を張り巡らせたのだ。

 魔族たちが歩きだすそばから、床の裂け目が金色に光りだす。魔族の最後の1人を見送ったランバールが魔王のもとへ戻ってくると、その踵の辺りが金色に割けて、魔王と勇者とその一行を取り囲む。

 脱出の望みは、完全に失われた。

「なぜ逃げん」

 そう問われて、勇者ランバールは知らん顔で答えた。

「さあな……だいたい、カッコつかねえだろ」

 サンディも、魔王から目をそらした。

「まあ、オレも」

 メルスは、魔王の目を見てきっぱりと言った。

「誇りを捨てては、屋敷の門をくぐれません」

 それぞれの思いを口にした3人は、マルグリッドの言葉を待った。銀髪の元尼僧は答えない。ただ、裸の胸をヴィルハーレンの身体に寄せるばかりである。見ている方は、困ったような魔王は放っておいて、顔を見合わせたまま微笑んだ。

 だが、一行は尊い自己犠牲の精神を発揮することはできなかった。さっき出ていった魔族たちが、ソフィエンを殿しんがりに戻ってきたのである。

「何をしておるかソフィエン!」

 先ほどの穏やかさからは想像もつかないほど激昂する魔王に、孫娘は息を切らせて答えた。

「城が……城が!」

 その後を追ってきたかのような金色の奔流が、床を食い尽くそうとするかのように広がる。魔王は忌々し気に唸った。

「モードレめ……こんな仕掛けを!」

 自分ではどうにもならないことだというのに、勇者が答えを急かす。ここでの沈黙は、諦めるのに等しい。

「何だ、何だよコレは!」

 魔王ヴィルハーレンは、情けなさそうにため息をつくと、その謎を一気に解いてみせた。

「予め、自分が死んだら城のあちこちに裂け目が生じるようにしておいたのだろう。『床食い』がある程度まで増殖すると、その裂け目が広がって、城の床をどこまでも食いつくすようにな」

「卑怯もここまでくると天晴ですね」

 皮肉たっぷりのメルスは相手にしないで、サンディは天井を仰いだ。

「これじゃあ、何のために居残ったか分かりゃしねえ」

 ちらりと見やった先のマルグリッドは、魔王の腕にすがりついたまま、しれっと答えた。

「戦神はもう、私を見てはいません」

 祈ってもムダだということだ。

 魔王は苦笑すると、自らのコートを羽織った裸の女を優しく抱き寄せた。だが、そこに睦言はない。

「許せ、エイボニエル……お前に城さえも残せなかった」

 諦めの瞬間にひとりの女の想いに応えてやるにあたっても、ヴィルハーレンは魔王であり続けようとしたのであろう。口にしたのは、勇者の手に倒れた息子のことである。

 本来なら、ヴィルハーレンは隠居して、この息子が若き魔王として君臨しているはずだったのだ。

 だが、その玉座が在るべき城は、異形の世界から呼びこまれた醜悪な「床食い」の金色の光に呑まれ、崩れかかっている。

 そして、その足元で食われずに残った僅かな床も、崩れていこうとしていた。

 まず、勇者ランバールが光の中に落ちた。

「じゃあな」

 続いて女戦士サンディが、落ちる。

「そんじゃ」

 少女剣士メルスも、落ちていく。

「みなさま、ごきげんよう」

 魔王ヴィルハーレンもまた、マルグリッドを抱いたまま、落ちていった。見上げるのは、残った足場で身体を寄せ合って震える魔族たちの中心に立つ孫娘である。

「許せ、ソフィエンよ……」

 本当なら、ずっと傍にいてやらなければならない娘であった。いずれは若き魔王の息子の妻として人間界との懸け橋となるはずだった。

 そのソフィエンは、女を抱いたまま落ちる魔王の姿を見送ると、不安げな魔族たちを泣きながら見渡した。

「ごめんなさい……私なんかで」

 最後の一瞬は、眩いばかりの閃光が辺りの誰かれ構わず包み込む。その光は鎮まることなく、どこまでも、どこまでも広がっていった。

 まるで、魔界そのものまでも包み込もうとするかのように。 

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