第37話 自由を、見つめる

 ぐっと詰まったランバールは、メルスを促した。

「お前はどうなんだ、もうこのジジイに習うことなんてねえだろ……おとなしくウチへ帰んな、送ってやるからよ」

「どうやって?」

 ランバールには、返す言葉がなかった。この「決闘の間」にいるのは、「床食い」に道を阻まれて、魔王の力で飛んできたからだ。帰り道を知っているのは、ソフィエンと魔族だけだ。

「帰るぜ……俺の娘」

「イヤです」

 きっぱりと断る声は、魔王への愛と、その地位を継いで魔族を統べる者の気迫に満ちていた。

「全てを見届けるまでは」

 そこでランバールはマルグリッドに尋ねた。

「で……どうなんだ、神様はよお」

 答えはなかなか返ってこなかった。サンディとメルスが、ソフィエンが、そして魔族たちが、戦神の尼僧をじっと見つめる。その眼差しに押されるようにして、つぶやくような声が漏れた。

「その御心は分かりかねます……人の身では」 

 だが、全てを諦めきったかにも聞こえる一言が終わるか終わらないうちに、奇跡は起こった。

 金色の光を放つ「床食い」がぼんやりと照らすだけだった「決闘の間」の闇が、隅々まで吹き払われた。そこは、何百人もの騎士が馬上槍試合を行えるくらいの広さだと分かる。マルグリッドの錫杖が頂く紋章からは、それだけの光がほとばしっていたのだった。

 その場にいた誰もが目を閉じて、その場にうずくまる。

 1人を除いて。

 光を放つ錫杖に背中を向けていたランバールだった。

「そう来ると思ったぜジジイ!」

 辺りが再び闇に沈んだとき、勇者は振り向くなり、長剣をかざして突進した。その先には、まっすぐに立ち上がった魔王ヴィルハーレンがいる。その片手が軽く差し招いただけで、僭王の胸を貫いた剣が掌の中に収まった。

 最後の対決を見守りながら、マルグリッドはおろおろと戸惑いがちに、祈りの言葉を口にした。

「我らが戦神よ、その恵みに感謝いたします……しかし、どうすればよいのでしょうか」

 男の戦いの悦びに震える魔王と勇者の間合いが詰まっていく。もはや、どちらかが倒れないでは済むまい。

 そして、倒れたのは勇者のほうだった。

 床に身体を投げ出して、うつ伏せに転んだところには、間に割って入ったソフィエンがいる。みっともなくも鼻血をたらしたランバールは、顔を上げて実の娘を罵った。

「危ないだろ、殺すところだったじゃねえか!」

 思いつめたような面持ちで、ソフィエンはほとんど初対面の父親に哀願した。

「この方を殺さないで」

 まるで恋人との結婚を反対された娘のような真剣さに、マルグリッドがハッと目を見開く。 

 鼻血を拳で拭き拭き、ランバールは立ち上がった。美しく成長した娘を見つめる。

「いい女になりそうだな……ああ、俺の娘でなかったらな」

 身体を強張らせるソフィエンを見て、マルグリッドが勇者を叱り飛ばす。

「勇者様!」

「冗談だよ、冗談!」 

 そう言いながらも、その目は魔王ヴィルハーレンへと向けられた。勇者の視線を追いながら、サンディはその傍らにつく。

「どうする……殺さねえと、帰れねえぞ」

「言われんでも」

 ランバールは、毛深く太い腕で娘の華奢な身体を押しのけた。ソフィエンの力では抗うこともできない。声を上げるのがせいぜいだった。

「やめて!」

「人は人、魔族は魔族」

 おもちゃをねだる子供をたしなめるかのような口調で、ランバールは娘の制止を一蹴した。ヴィルハーレンは哀しげな微笑と共に、その剣を構え直す。

「我が子エイボニエルの仇、取らせてもらう」

「しゃらくせえ……返り討ちにしてやらあ」

 お互いの殺し文句の応酬のはずが、明らかに二人とも楽しんでいるのを感じさせる響きがあった。もはや誰も止めることなどできず、ただ固唾を呑んで見守るしかなかった。

 ただ、ソフィエンのつぶやきだけが無力だった。

「もう……父親とは思いません」

「子供なぞいらん」

 ランバールが大仰に肩をすくめた。

「だいたい、会ったばかりで何が……」

 娘が思いあふれてやっと口にした一言を嘲笑って、再び剣を振り上げた。

「行くぜ!」

「参れ!」

 鋭い声の掛け合いと共に、2つの刃が火花を散らした。ランバールが身体をぶるぶる震わせる。

「来るねえ……こう、じいんと……たまんねえぜ」

「心おきなく打ってこい、今度は子どもに戻したりはせん」

 余裕たっぷりの挑発に、勇者はいささか機嫌を損ねたようだった。

「あんまり……舐めんじゃねえぞ」

 息を低い音で吐きながら、足を横へ滑らせる。側面へ回り込まれた魔王もまた、弧を描く歩みで勇者の隙を伺った。その両手が円を描くように、大きく振りかぶる。

 勇者の脇が、ガラ空きになった。

「そこよ!」

 一瞬の隙を突いて剣を横薙ぎにした魔王だったが、その刃が勇者に届くことはなかった。まどろみの中かと見まがう緩慢さで、足が空を掻き、剣だけが宙を滑る。

 重力の遅滞魔法グラヴィティ・ディレイだった。

「おのれ……卑怯な」

 歯ぎしりせんばかりの魔王に、勇者はしれっと言ってのけた。

「真剣勝負なんて約束、したっけか?」

 言うなり、振りかぶった剣を叩きつける。

「終わりにしようぜ!」

 しかし、その声が泣いているのに、その場の何人が気付いていたか。

 少なくとも、1人はそれを知っていた。黒いコートをはだけて刃の真下に滑り込んだ白い裸身が、錫杖で剣を受け止める。ランバールは、もはやその素肌に目を奪われることはない。押し上げられた錫杖を力任せに剣で押し返していた。 

「人が肚あ括ったってのに!」

「いけません」

 そう言うとマルグリッドは大きく息を吸い込み、重々しく告げた。

「魔界の掟では、この方は魔王ではありません」

 ランバールが言葉に詰まるのは、もう何度目だろうか。メルスのつぶやく声が、ぽつんと聞こえた。

「そう言われれば……」

 既にヴィルハーレンは、息子エイボニエルに魔王の位を譲っている。息子の代わりに王を名乗ることも、本来はできないのである。

 つまり、今、ランバールは魔王に立ち向かう勇者ですらない。ふっと笑うと、錫杖との迫り合いをやめて剣を放り出した。

 サンディが呆れたように、乾いた笑いを立てた。

「このまま勇者の名前、捨てるのかよ」

 答える方は、きまり悪そうに目をそらしてぼやいた。

「仕方がねえ」

 それまで成り行きを黙って見ていたソフィエンはヴィルハーレンを見やると、溜め込んだ思いを身体一杯の息と共に吐き出した。

「魔王がウソをついてはいけませんわ、お爺様」

 そうはいっても、別に一同を騙していたわけではない。魔王と戦わなくていいことに、誰も気づかなかっただけの話だ。

 問題はヴィルハーレンである。魔王の位に返り咲こうと思えば、エイボニエルを倒したランバールへの復讐を果たさなければならない。しかし、老いたかつての魔王は、涼しい顔で自らの剣を鞘に収めた。

 誰ひとりとして、戦いたくはない。戦いは、終わったのである。

 各々の顔に、笑みが浮かんだ。それは魔族たちとて例外ではない。ひそひそ話す声が、次第に広がっていく。やがて、「決闘の間」を揺るがすほどの歓声が上がった。

 歩きだしたランバールの後を、サンディとメルスが追っていく。それを小走りに追い越したソフィエンが、前に立ちはだかった。3人は身構えたが、育ちの良さそうな少女は端正な一礼の後に告げた。

「ご案内いたします」

 魔族たちが立ち上がって、ぞろぞろと勇者たちの後に続く。

 ひとり置き去りにされたのは、尼僧マルグリッドだった。

「行かんのか? 勇者に必要なのは、お前たちではないのか?」

 銀色の髪が、左右に揺れる。迷うことなく、はっきりと告げなければならないことがあるようだった。

「ここに残ります……あの……私で、よろしければ」

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