第36話 許し合う者たちが、お互いを見ている
「いかん!」
跳ね起きたのは、いくばくかの力を残してマルグリッドに身体を預けていた魔王だった。
「いけません!」
似たような一言を発した尼僧へと、僭王を倒した勇者たちは目を遣った。その先では、魔王が魔族のひとりが落とした短剣を手に、これで最後ともいうべき呪文をかすれた声で唱えている。
「おいジジイ、こいつはもう……」
生き死にを共にした勇者がなだめたが、魔王は応じない。それを見かねたのか、サンディが駆け寄った。
「ほら、無理すんな」
そう言いながら魔王の手を取ると、露わになった胸に当てようとする。微かな喘ぎがそれを拒んだ。
「いや、ワシには瞼の奥の亡き妻が……」
真っ赤になったメルスがつかつかと歩み寄って、その手を引き離した。だが、魔王はそのどちらの手も振り払った。
「構うでない」
かすれ声で囁くと、燐光を放つ短剣を手によろよろと、しかし足音も立てることなくモードレの死体へと歩み寄る。
だが、その計略は全て徒労に終わった。
「ジジイ、こいつ!」
ランバールが気付いたときには、既に遅かった。死んだはずのモードレが上体を起こすや、振り向きざまに投げたものがある。それは凄まじい勢いで空を切ると、魔王の身体を吹き飛ばした。
マルグリッドは悲鳴を呑み込んだが、代わりにサンディが呻いた。
「こいつ……」
同じ驚きを言葉にできたのは、メルスだけだった。
「自分の、腕を」
膨れ上がった自分の腕を巨大な肉の砲弾として、モードレは魔王に叩きつけたのだった。だが、「決闘の間」の闇の中で、魔王ヴィルハーレンはなおも身体を起こそうとする。
「やめろジジイ」
そう言うなりランバールはモードレに向き直ったが、魔王は微かな声で止めた。
「いかん……立ち向かっては」
だが、メルスもサンディも聞かなかった。モードレに止めを刺すべく、長剣を逆手に振り下ろすランバールのもとへと武器を手に駆け寄った。
「いけない! モードレにはまだ……」
立ち上がったマルグリッドだったが、口にできなかったその危機を止めることまではできなかった。
落ちくぼんだ眼窩の奥で見開かれた目。
それは、あの「
その眼前に、3つの刃が向けられた。
錫杖で払いのけようと思えばできそうなものであったが、マルグリッドは敢えてそうはしない。魔王のコートを脱ぎ捨ててその裸身を晒すと、錫杖を高々と掲げた。
「戦神よ、わが命を捧げます……どうか、奇跡を!」
だが、同士討ちの手は止まらない。長剣と片刃の剣と斧が、露わになったマルグリッドの胸めがけて襲いかかる。
その時だった。
ひゅっと風を切る音がたしなめる。
「馬鹿者……奇跡は、自ら起こすものだ」
その声は、「邪眼」をぎらつかせるモードレの背後で聞こえた。
呆然として見下ろすその目が見ているのは、心臓から突き出した魔王の長剣の切っ先である。
力場を発生させて穴の底から戻ってきた魔王がなぜ、素手で戦ったのか。それは、この場にいる誰ひとりとして気にもかけてはいなかったであろう。
その捨て身の罠が、僭王モードレに止めを刺したのだった。
今やその命も尽きようとしている僭王の「邪眼」もまた、その力を失ったらしい。マルグリッドの美しい乳房を前に、女たちの冷たい刃は凍り付いたように動かなくなっていた。持ち主たちも呆然と口を開けたままで、その表情はわずかの泣き笑いも見せることなく固まったままだった。
いつまでも続くかと思われた沈黙を、モードレのあがきが破る。
「私が……まさか」
モードレがうつ伏せに倒れると、切れ味鋭い魔王の剣は、切っ先が床に当たっただけでするりと背中から抜けた。泉のように湧きだす鮮血が、「決闘の間」の床を濡らす。
その血だまりに膝を突いたヴィルハーレンに、不肖の甥は恨みがましく繰り返した。
「元はといえば、魔界を侵した……人間、たちが……」
魔王も苦しい息の下で、それに応える。
「帰してやればよい、魔界の穢れに毒されぬうちに」
だが、死ぬ間際になっても僭王モードレの往生際は悪かった。倒れた床の上で顔だけをヴィルハーレンに向けて、なおも開き直る。
「だから、人間どもに侮られるのです、伯父上殿は……」
「我々は、ここでしか暮らしていけんのだ」
魔王直々のお叱りに、一時はその地位を奪い取ろうとまでしていたモードレは食い下がった。
「私たちとて、いつまでも日陰の身では……」
やり方は間違っていたが、魔界に住む者たちを思う気持ちは、その王と異なることがない。それを感じたのか、魔王ヴィルハーレンは口元に笑みすら浮かべている。だが、やがてかぶりを振ると、穏やかにたしなめた。
「あと100年は待たねばな」
もう口答えする力も残っていないのか、モードレは腹のそこからあふれ出したような深い息をついた。力尽きんとする魔王もまた、微かな声で尋ねた。
「このまま、
それは今の肉体を離れ、より高次の存在になって消えることである。だが、その誉れは直系の王族にしか与えられない。モードレには、もともとその資格も力もなかった。
「無理ですね………」
分かっていることを敢えて尋ねたのは、自分で諦めを口にさせるつもりだったからであろう。モードレの言葉を待っていたかのように、ヴィルハーレンは魔王としての命令を発した。
「ならば、消えよ」
その一言で、モードレの身体は何処かへと失せた。それが自らの意志によるものかどうか、また、本当に死んだのか、生きているのかどうかは分からない。
床に身体を横たえると、勇者ランバールに告げる。
「さあ、ワシを殺して娘を連れていけ」
ランバールはそのとき、一糸まとわぬマルグリッドの肢体に溜息を吐くぐらいの余裕を取り戻してはいた。だが、魔王の言葉には、さすがに慌てふためいて後ずさった。駆け寄った。
「何で、俺がお前を……」
「忘れたか、ワシは魔王でお前は勇者だ」
魔界を乗っ取り、人間界まで侵そうとした僭王モードレはもう、いない。だが、勇者は魔王と戦ってはじめて、勇者なのだ。ヴィルハーレンはなおも畳みかけた。
「それとも、人間界でウソをつきとおすか? 魔王を倒したと」
思えば子供の姿で女たちをたばかりとおし、狼藉の限りを尽くしてきたランバールであったが、これは男の生き方そのものに関わることであった。魔王に答えることなく、その黒いコートを拾い上げるとマルグリッドの肩にかける。
その耳元で囁いた。
「放っとけば、死ぬか? こいつ」
羽織るのは何度目かになるコートの襟をぎゅっと締めて、尼僧は固く目を閉じた。
「戦神が、私の祈りに応えてくださらなければ」
勇者は鼻で笑う。
「当てにならねえ神様だな……死に掛かってるジジイを手にかけるほど落ちぶれちゃいねえよ、勇者ランバール様はな」
言葉が通じる通じないはともかく、魔族たちはその言葉の意味することが分かったのか、一斉に静まり返った。面白くもなさそうに、勇者は魔族たちが現れた辺りへと歩きだす。
「帰るぜ」
マルグリッドもサンディもメルスも答えなかった。静かに横たわる魔王を囲んで目を伏せたまま、ただ立ち尽くしている。ランバールはイライラと怒鳴った。
「死んだんだよ、そのジジイは! 勇者が戦う前に! ここから出て、
「まだ分かんねえよ」
サンディが口を開いた。
「生き返るかもしんないじゃないか、そんときは戦おうぜ、勝って帰るんだよ、そうすりゃあオレ、玉の輿で……」
「俺が面倒みてやるよ」
遮る言葉へ、間髪入れずに切り返す。
「オヤジは趣味じゃねえんだ」
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