第35話 断末魔の僭王が見ている
目が落ち窪んで、元の美貌も何処かに失せたモードレが一瞬だけ顔を見せたのは、無駄にはならなかったということだ。ソフィエンが勇気を振り絞ってまとめてきた魔王の民は、その地位を僭称する者にあっさりと横取りされてしまったわけである。
勇者が正面のひとりに向けて、長剣を振り上げた。
「じゃあ、ジジイもう死んでんだから……」
魔界の民には何の義理もない。
その刃を唐竹割に叩きつけようとすると、尼僧が鋭い叫びで止めた。
「死んではいません!」
反撃をやめた勇者は横殴りの
男たちに腕を捩じ上げられ、あるいは羽交い絞めにされる中、ひとりもがいていたのはサンディである。
「は……放せ!」
後ろに回った男の首を掴むなり、背負い投げを食らわしたが、そこで何人もの男に横倒しにされる。勇者が床に転がって立ち上がれないでいるうちに、女たちは男たちに数人がかりで捻じ伏せられた。
その魔の手は、王女ソフィエンにも迫る。床に落ちた松明の炎など、とうの昔に消えている。金色の光の中、男たちは穢れを知らぬ最も高貴な娘を取り囲んでいた。
「嫌……来ないで」
僭王の怨念で操られているというのは、もはや言い訳でしかなるまい。野卑な笑みさえ浮かべて、ひとりの男の荒々しい手がソフィエンの肩を掴んだ。
だが、それ以上の狼藉はなかった。男はぎゃっと呻いてその場に転がる。その手首には、年齢を感じさせる親指の先がめり込んでいる。恐らく、それが神経のつながりを断ったのであろう。それでもまだ、ソフィエンは恐怖に震えている。
その身体を抱きしめるようにして起き上がったのは、瀕死の魔王であった。
「お爺様……いけません」
そう言いながらも、孫娘の声には復活への喜びがある。それに励まされるように、魔王ヴィルハーレンはよろよろと立ち上がった。向かう先には、床に組み伏せられた女たちがいる。
「やめて……」
マルグリッドが呻けば、サンディが暴れる。
「離せこら、卑怯だぞ、男が何人もかかって、女ひとりを!」
メルスも気丈に抵抗する。
「どうする気だ、ボクを……!」
いくら高貴な生まれの令嬢とはいえ、その先に思い及ばないわけがない。目を固く閉じて、羞恥に頬を赤く染めている。
途中で、カラン、と鳴ったものがあった。マルグリッドの落とした、戦神の紋章を頂く錫杖である。身体を支えるためか、それとも魔王の意に背く魔族たちを凝らすためか、ヴィルハーレンはその柄に手を伸ばした。
「駄目です、ヴィルハーレン様!」
男たちの意のままにされようとしている尼僧は我が身も構わず声を上げたが、遅かった。眩い閃光がその場にいる者の視界を灼かんばかりに炸裂する。許された者を除いては手にすることのできないのが、戦神によって聖別された錫杖のようだった。
もとよりぎりぎりの力を振り絞って歩いていた魔王のことであるから、その衝撃に耐えられようはずはなかった。再びその場に膝を突くよりほかはなかったが、女たちへの凌辱にかかっていた男たちも相応の報いを受けていた。
ひとり残らず、その目を抑えてのたうち回っている。いくら僭王モードレが苦し紛れに使った「邪眼」で意のままにされていたとはいえ、同情の余地はあるまい。同じように目を灼かれたはずのソフィエンがよろよろと立ち上がったのも、そうした思いからであろう。
王女の威厳をみなぎらせた叱咤が、「決闘の間」に響き渡る。
「目を覚ましなさい! 恥ずかしくはないのですか!」
その声に奮い立ったのは、むしろ女たちのほうだった。既に閃光の失せた薄闇の中、金色の光を頼りに各々の武器を手に取る。マルグリッドだけは錫杖を手に取ると、羽織ったコートを持ち主に返そうとした。
微かな声が、それを止める。
「もう少し……着ておれ。替えの服が、ここにはないのだ」
コートの下が全裸であることに今さらながら気付いたのか、マルグリッドは前を慌てて掻き合わせる。
だが、そんな微笑ましいやり取りをしている場合ではなかった。背後から突進してきたサンディとメルスに、続けて押しのけられたからである。
「何やってる!」
「ボクたちに援護を!」
魔族から改めて奪ったらしい
「いつの間に這い上がってやがった……このバケモノ!」
月並みもここに極まれりという罵倒であるが、もともと彼に豊かな修辞を求めようというのが無理な話である。なおかつ、思いがけず戻ってきたのが、果てしない闇の底へ沈んだはずの最も厄介な相手である。いったんケリが着いたはずの死闘に再び勝利しなければならないのだから、身体よりもまず心と頭が疲れ果てて当然である。
だが、その娘は正気を保っていた。戦いの行方を見守りながら、魔王を励ます。
「ご心配なく、まだ……」
唯一の望みは、ようやく戦いの当事者であることを自覚した魔族たちだった。魔王の孫娘であるソフィエンにまで手をかけた罪を償おうとするかのように、雄叫びを上げてモードレの巨体に殺到する。
だが、手負いの獣は死に物狂いで暴れる時が最も危険なものである。
「おのれえええええ!」
その獣性を剥き出しにしたモードレもまた、同じであった。雑兵たちがいかに斬りつけてこようと、どれほどの手傷を負わせようと、怯むことがない。襲いかかるそばから薙ぎ倒され、床の上に無残な姿を晒した。
その絶叫は、聞こえたかと思うと「決闘の間」の闇に吸い込まれて消えていく。死力を尽くして闘い抜いた者たちのために、マルグリッドはひたすら祈り続けていた。
「約束されざる勝利のために戦う小さき者たちを
錫杖が頂く戦神の紋章が柔らかな光を放ち、闘いに倒れた者たちを包み込んだ。その中で魔族たちは微かに息を吹き返したが、立ち上がれるほどではない。だが、魔王ヴィルハーレンは尼僧の腕の中で感謝の言葉をつぶやいた。
「それでよい……ワシにはお前がいるだけで充分だ」
声も立てずに戦っているのは勇者ランバールと、刃物を手にした女2人だけである。だが、それは戦慣れした落ち着きからではなかった。
反撃に転じているモードレも、それは察しているようだった。
「そろそろ諦めなさい! 息が上がっていますよ!」
ランバールの脳天へと、拳が叩きつけられる。それは剣で斬り払われたが、鮮血を浴びたほうも悪態をつくのがやっとだった。
「そっちこそ、もうあっちこっち膾切りじゃねえか!」
魔界の主を僭称する者と、対峙する勇者。その力は拮抗している。その隙を見逃さなかったのは、置き去りにされていた戦神の尼僧であった。
「今です! サンディ! メルス!」
一瞬の閃光が巨体の喉笛を切り裂き、その背後からの渾身の一撃が太い腕を打ち落とした。致命傷を負った僭王モードレは、もんどりうって床の上に転がる。それを見下ろす3人のうち、勇者の口から安堵の息が漏れた。
「やったか……」
モードレの息も、喉に開いた傷口をひゅうひゅうと鳴らしている。その高い音の間から、微かな怨嗟の声が聞こえた。
「元はといえば、魔界を侵した……」
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