第34話 僭王の目が遠くを見ている
今、その憂き目に遭っているのはモードレである。血の触手は次から次へと闇の中を駆け登り、暴れる身体を拘束していく。やがてモードレは、闇の中でもはっきりと分かるほど毒々しい、真っ赤な繭に包まれた。
だが、その中からは怨念に満ちた声が響き渡る。
「それで勝ったつもりか」
ヴィルハーレンの魔術の思いもかけなかった邪悪さに呆然としているかに見えた女たちの中で、サンディだけが我に返って唇を歪めた。
「負け惜しみを……」
だが、女たちが血の触手で宙に浮いたモードレに気を取られている間、男一人だけが足元をじっと見ていた。
「いや、そうじゃねえ」
モードレには何らかの確信があることに、勇者ランバールだけは気付いていた。
「あれ見ろ」
その言葉の意味を察してよろよろと歩み出る尼僧マルグリッドを、逞しい腕が制した。
「ダメだ、もう間に合わねえ」
もはや打つ手のない勇者と女たちの眼下で、力場が最後の鈍い光を放った。マルグリッドは、ランバールの腕を押しのけようともがく。
「ヴィルハーレン……様!」
それまでのにはない響きを伴った叫びの中で、魔王の倒れ伏した力場が消滅していく。やがて、その身体は僭王を包み込んだ自らの血の塊を引きずるようにして、深い闇の中へと転落していった。
「嫌あああああああ!」
錫杖を魔王自身であるかのように抱きしめた、戦神の尼僧が泣き叫んだ。穴の向こうで勇者は為す術もない。
「おい、大丈夫かあの……」
名前が出てこないでうろたえたところに、メルスとサンディが同時に口を挟む。
「マルグリッド」
「マリー」
いささかの苛立ちを込めた冷ややかさにランバールが首をすくめたところで、高らかな平手打ちの音が響いた。勇者は女2人と共に呆然と穴の向こうを眺める。
そこでは、マルグリッドが膝を崩して頬を押さえていた。その正面では、ソフィエンが、右手を振り抜いた姿勢で片膝をついている。その険しい表情を虚ろな眼で見つめる尼僧の羽織った黒いコートがはだけられている。そこから白い乳房が覗いているのに気付いたのか、魔王の孫娘は祖父のコートの前を掻き合わせてやった。
「ごめんなさい……でも、落ち着いて。あなたは私より年上で、戦神の尼僧なんですから」
あられもない姿をさらしたせいか、それとも取り乱したのを恥じているのか、マルグリッドは自分より少し若い乙女の前にうつむいた。
だが、そんなささやかな心の交流も、長くは続かなかった。二人をどう呼んでよいか分からないらしいランバールが穴の向こうから叫んだのだ。
「何やってる……マルグリッド! ……嬢ちゃん!」
その足下に危機が迫っているのを、メルスが告げる。
「上がってきてるよ! あの……」
闇の底から這い上がってくる者の名前を、よく覚えてはいなかったようである。その男の美貌に一度は色目を使ったサンディはというと、名前もはっきり覚えていた。
「モードレが!」
ソフィエンとマルグリッドが、しゃがんだまま慌てて後ずさる。紙一重の差で、あの太い腕の先にある小さな手が穴の縁を掴んだ。
チッと舌打ちしたランバールが、穴の外周に沿って走りだした。どれほどかかるのかは、暗くて見当もつかない。それでもメルスが、そしてサンディが後を追った。
「遅いよ! 先に行くね!」
小さな体を床とほとんど平行にして、メルスが走る。サンディもランバールも、特にムキになることはなかった。どちらが言ったのか分からないくらいの間で答える。
「頼む!」
だが、その穴は思いのほか大きかった。疾走する少女剣士がたどり着く前に、床に張り付いた手が、その先にある巨体を引きずり上げようと指に力を込める。今にも、モードレの頭が穴の縁から顔を出すかと思われた、その時だった。
「娘たちは、渡さん」
文字通り、地の底から轟く声があった。全身に微かな青い炎を揺らめかせて空中に舞うのは、暗闇の底から蘇った魔王ヴィルハーレンであった。
「ヴィル!」
歓喜の声を上げて駆け寄るサンディに、ソフィエンも和した。
「お爺様……ご無事で!」
先に着いていたメルスは、後から追いついてきたランバールと共に、いつの間にか倒れ伏していたマルグリッドを助け起こした。
「大丈夫か?」
はらりと開いたコートの前にランバールは思わず目を奪われたが、メルスに睨まれて小さくなる。尼僧はすすり泣きながら、魔王のコートの胸元を合わせてつぶやいた。
「あの炎は……」
その続きを口にする前に、モードレの頭部は目の辺りまでを現していた。すぐにでも這い上がってくるかと思われたが、床にかけた指の先は、着地した魔王の踵によって踏み砕かれた。
落ちくぼんだ目の放つ鈍い光が、再び穴の底へと沈む。かすかなうめきだけだ気が残された。
「卑怯な……」
「お前ほどではないわ」
鼻でせせら笑うと、魔王の身体を包んでいた炎の揺らめきが青い閃光を放って消えた。その身体が、再び倒れ伏す。
息を呑むソフィエンを押しのけるようにして、マルグリッドがにじり寄った。魔王の身体を抱き起すなり、静かに目を閉じた顔に頬を寄せる。
「あの光は……魔力を操る者の最後の命の炎」
「どういうことですの?」
年上の女に負けじと意地を張るようにして、祖父の身体に腕を回す。むせび泣くマルグリッドは、答えもしない。それを哀し気に見つめるメルスは、涙に濡れた顔を上げたソフィエンに敢えて微笑してみせた。
「例えばロウソクの炎が、消える前の最後の一瞬に激しく燃え上がるようにね」
「じゃあ、お爺様は……」
孫娘がすがりついて泣くのを、上流階級で育ったメルスはもちろん、野生児の勇者ランバールも、およそ教養とは縁のない社会で育ったサンディも止められない。ただ、無言で見つめるしかなかった。
その役目を終えた「決闘の間」には、しばらくの間、嗚咽の声だけが聞えていた。その活動をやめた「床食い」の放つ淡い金色の光の中、動く者はない。
いや、そろそろと動き出した者たちがあった。ソフィエンが率いてきた名もない魔族たちである。各々が武器を手にしながらも、魔界の頂点を争う魔王と僭王の戦いとなると、ただ傍観しているよりほかはなかったのだった。
戦いの終わった今になって、魔王の下にある民はようやく、国を束ねる者の周りへと集いはじめていた。1人、また1人と左右に別れて列を成す。それは葬列を準備するかのようでもあり、また……。
魔王の孫娘と勇者たちをも包囲するかのようでもあった。
まず、勇者ランバールが身体をすくめた。
「よっ、と!」
鮮やかな背負い投げで床に叩きつけた1人から、刃渡りの手ごろな長剣をむしり取る。サンディも、振り向きざまに背後の1人を文字通りの裸締めにした。片腕で首を絞められた魔族の男は、剥き出しになったサンディの片胸に顔を埋める形になる。
「欲しけりゃたっぷり吸わせてやるよ!」
言うなり袈裟固めに床へと転がされた男の手から、城の武器庫から持ち出したものと思しきハルバードを奪い取る。逆さに振り上げて突き刺そうとしたところで、メルスの声が止めた。
「いけない! 殺しちゃ!」
そう言いながらも、手にした片刃の剣は
「何だお前ら、いきなり……」
魔王の孫娘にさえも、男たちは襲いかかろうとする。マルグリッドも、悲しみに打ちひしがれている暇はなかった。立ち上がるために床についた錫杖で、振り下ろされる手斧を弾き飛ばす。
その口から、サンディの問いへの答えが返された。
「
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