第33話 魔王と僭王の死闘を勇者たちが眺める

 だが、転落の勢いを留めることはできなかった。メルスやサンディが強張らせた肩の力を抜いたのも束の間、勇者の足はつるりと滑る。魔王は何ひとつ期待してはいなかったのか、声も立てはしない。自ら作った力場の上で、勇者と共に横になった。

 ソフィエンの溜息で事情を察した女たちは、勇者と魔王が転げ落ちた穴に膝でにじり寄った。だが、3人の女のうち、誰ひとりとしてその姿を見ることができた者はない。ソフィエンの後ろで立ち上がることもできなかったマルグリッドはともかく、なんとか動くことのできたサンディやメルスの前で、それは起こった。

「私の……足元まで?」

 モードレが、目を見開いた。膨れ上がった胸筋の上にちんまりと乗った頭に、落ちくぼんでぼんやりと光る眼である。

 床の崩壊で魔王と勇者が転落したのは、別に魔法をかけられたからではない。同じ床に起こったことが、モードレの足下に起こっても不思議はなかった。

 総身に知恵が回りかねたのか、大男と化したモードレは足を滑らせてのけぞると、崩れた床の斜面を滑り落ちていった。その先には、ようやく身体を起こした魔王がいる。続いて立ち上がった勇者の足下に、ヴィルハーレンは僭王ともつれあって転がった。

 肉体が強化されている分、組み敷くのがどちらになるかは火を見るより明らかである。歯を剥いて嘲笑うモードレを、魔王は目を見開いて睨み据えた。

 それでも、その声は落ち着いている。

「先に行け」

 勇者ランバールが行動を起こすのは早かった。その一言を待っていたかのように、穴の反対側へと駆け上がった。そこにはサンディとメルスが待っている。

「大丈夫か?」

 いちいち各々の安否を確かめている間もないのか、まとめて2人に呼び掛ける。その返事もまた、異口同音に聞こえた。

「それよりヴィル」

「ハーレンを!」

 後ろを一瞥したランバールだったが、うつむくなり、諦めたようにつぶやいた。

「アレじゃあどうにもならねえよ」

 もはや互いに魔法を使う力も失せたのか、そこでは獣のごとき肉弾戦が繰り広げられていた。

 肩を押さえてのしかかるモードレの喉を、魔王は指も折れんばかりに掴んでいた。渾身の力を込めていることは、血走った目を剥く悪鬼のごとき形相からも見て取れる。やがて、魔王は身体を起こすと、自分よりはるかに大きいモードレの身体を持ち上げた。

 その口からは血が滲んでいるが、それは魔王も同じことだった。違うのは、血が喉からあふれたものか、それほどまでに力を込めて歯を食いしばったことによるものかということである。

 そのいずれにせよ、双方の力が尽きるのに、大して時間はかからなかった。高く掲げられた魔王の腕がゆっくりと下ろされると、若き僭王は力なくつぶやいた。

「そんな……力が」

 弱っていたのは言葉の響きだけではなかった。魔法で膨れ上がった腕もまた、勢いを失った振り子のように肩から垂れ下がる。

 メルスは息を呑んで身を乗り出したが、サンディが歓声を上げた。

「やったぜ!」

 まさかというように身体ごと振り向いたランバールだったが、再び背を向けると苦々しげに吐き捨てた。

「まだ倒れてちゃいねえよ」

 それは、決して望んではいないモードレの反撃を冷静に予告するものだった。

 巨大な腕の先の小さな手が跳ね上がると、魔王の喉を掴み返した。その指先に抉られた喉が、たちまちの内に充血する。それを引き剥がそうとする腕は、反撃も空しくモードレの剛腕に捩じ上げられた。

 床に伏した尼僧を除いて、女たちは戦いの行方を各々の眼差しで見守っている。

 ソフィエンはただ胸の前で両手を固く組んでいたが、何に祈るというわけでもない。ただ、祖父と呼んできた男を見つめるばかりだった。

 そう年齢の違わないメルスはといえば、その向こう側で男たちのの死闘から目を離さないでいる。もはや拳が交錯することもない、力と力の均衡がどちらに傾くかを見守っているようでもある。

 最もそれらしくない様子を見せていたのはサンディである。男勝りのガサツさはどこへやら、両手で口を覆ったまま、目に涙を一杯に溜めている。それほどまでに、腕力の差は歴然としていた。 

 とうとう、魔王の身体が大きくのけぞった。「決闘の間」の天井に向けられた口から、血飛沫が高々と上がる。それは魔王ヴィルハーレンと僭王モードレの身体を、「床食い」の放つ金色の鈍い光の中で朱に染めあげた。

 だが、あふれる血の勢いはとどまることがない。それが力場いっぱいに広がると、ヴィルハーレンとモードレの足元は次第に暗く、頼りないものとなっていった。

「共に奈落に落ちる気もありませんのでね」

 言うなり、空いた腕を振るって魔王の横面を張り倒した。万力のような指先が、掴んだ喉から引き剥がされる。ヴィルハーレンが前にのめって倒れる先には、自らの吐いた血だまりがあった。それが広がる魔法の力場は、そろそろ消えようとしている。

「ヴィル!」

「お爺様!」

 左右双方から駆け降りようとする女と少女を、振り返ったランバールが一喝した。

「行くな!」

 サンディもソフィエンも聞きはしない。穴の底へと足を滑らせようとする。だが、それをかすれた声が止めた。

「来るでない」

 聞こえるか聞こえないかの微かな響きではあったが、そこには女戦士も孫娘も尻込みさせるほどの凄みがあった。やがてその声は意味の取れない低いつぶやきに変わったかと思うと、いつの間にか絶えることのない呪文の詠唱となった。

 それを聞く者のうち、いかなる魔法であるか気づくことができるのは2人しかいない。

 魔界の僭王モードレ。

 そして、魔法は使えないが、修道院での学問でそれを知りつくした戦神の尼僧マルグリッド。

 各々が、ほとんど同時に恐怖の呻き声を上げた。

血の拘束ブラッド・バインド……」

 おのれ、と吐き捨てたのはモードレだったが、さらにマルグリッドは、コートに包まれた裸の身体を起こして魔王を止めた。

「いけません、それは魔界ですら忌み嫌われた邪悪な術……血を触媒とするなど、あなたの命を縮めてしまいます!」 

 そう言っている間にも、力場を浸した鮮血は泡を吹いて沸騰しはじめた。低く漏れる声が戦神の尼僧に答える。

「ワシを誰だと思うておる……魔界の蛇、ヴィルハーレンよ!」

 泡立つ鮮血の塊りがあちこち膨れだし、生き物のように蠢きだす。見る間にそれは無数の触手となって、モードレに絡みついた。

「これしきのことで!」

 次々に襲い来る触手を引き剥がし引きちぎり、筋肉の塊と化した身体はもがき、暴れた。だが、血だまりの中から触手は無数に生えてくる。足の指からくるぶしから絡みついてきたかと思うと、ちょうど蛇が木に這い上るようにするすると、脚や胴に巻き付いていった。

「いかに忌まわしい邪悪な魔法とはいえ、この程度は小手先の術……」

 足をくわえこんだ触手を引き剥がすと、モードレは倒れ伏したままの魔王に歩み寄る。その無防備な首筋に、筋肉を撚り合わせたかのような太い腕が迫った。黙って見ているしかなかったランバールもサンディも、穴の底へと駆け降りようとしていた。静観していたメルスも、その後を追う。

 まだ動揺を隠せないマルグリッドもまた、よろよろと立ち上がりはした。ただし、その身体は錫杖にすがりついている。

 その4人を止めるかのように、ソフィエンが叫んだ。

「お待ちください!」

 突然、モードレの身体が闇の中に高々と浮き上がった。いや、正確には血だまりが無数の触手となって持ち上げたのだ。女たちが下手に近寄っていれば、触手が見境なく絡みついて空中に晒していただろう。

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