第32話 勇者が魔王の墜落を見ている

「それ以上の狼藉は許さん」

 厳しくも穏やかな声が、どこからか聞こえた。はっと気づいたソフィエンが茫然とつぶやく。

「お爺様……?」

 そこで身体を起こしたマルグリッドの視線があちこちをさまよう。

「ヴィルハーレン!」

 モードレの脇に抱えられたサンディが、再び立ち上がった魔王の名前を呼んだ。

「ヴィル!」

 それは助けを求めるというよりも、無理な闘いを止めているというべきであったろう。サンディには、その姿が見えているようである。筋肉で膨れ上がったモードレの腕で身体を締め付けられながらも、サンディは自らの力でそれを振りほどこうともがいていた。

 意識のないまま一方の手で掴み上げられていたメルスは、眠る幼子のような目をうっすらと開いた。

「魔王……ヴィルハーレン」

 再び戦おうとする男が何者であるか気付くには、少し時間がかかった。だが、それまで様子を黙って見ていた僭王モードレは、不敵に笑った。

「まだ生きていらっしゃったとは」

 マルグリッドが振り向いた先には、魔族たちの掲げた松明の灯に揺れる影がある。 

 魔王が、立ち上がったのだ。

 モードレが愉快そうな含み笑いと共に、メルスとサンディを床へ投げ落とした。

「いちいち邪魔しないでいただきたいものですね、私の楽しみを」

 言うなり膝を突くと、そこへ拳を叩きつける。魔王の足下に向かって床に裂け目が走ったかと思うと、その両側に向かって大きな陥没が生まれた。

 ようやく立ち上がったばかりの魔王は、足場を不意に失ってよろめく。崩壊する床から逃れようとしてか、どうにか踵を返しはしたが、すでに安定を無くした身体は背中から、暗く深い穴に向かって転落していた。

「お爺様!」

 ソフィエンが穴のそばへと駆け寄る前に、ずんぐりした肉の塊が動いた。

「ジジイ!」

 毛深い腕が伸びて、ヴィルハーレンの手をしっかと掴んだ。床の崩れた辺りに身を伏せ、苦し気に顔を歪めているのはランバールである。魔王の危機を救った勇者が、呻き声を上げた。

「離すなよ、離すなよ、離すなよ!」

 一方のヴィルハーレンが黙っているので、どちらが落ちかかっているのか分からなくなるほどの騒ぎようだったが、それだけに身体の反応も早かった。その肌には汗が粒となって滲み、やがて腕には幾筋もの跡を残して滑りはじめた。

 当然のことながら、その先には魔王の手をしっかりと掴んだ指がある。2つの掌の間がつるりと滑るたびに、ランバールは抜け落ちそうになる魔王の指に自分の指を絡める。だが、崩れた床の端にようやく引っかかっている肩は、今にも外れそうである。

「こらえろ、ジジイ、今すぐ……!」

 口ではそう言うものの、身体には相当の無理が来ているのか、肩から背中にかけては見て分かるほどの震えがあった。それを抑えようとしているのだろう、ランバールは身悶えしながらも、ヴィルハーレンを引き上げようとしていた。空いたほうの手を床に貼り付けるようにして、じりじりと床を後ずさりしていく。

 その傍らに、ソフィエンが白く滑らかな膝を突いた。

「私も……」

 しなやかな腕を伸ばしはするが、その手はしっかりと握り合うランバールとヴィルハーレンの手を包み込みのが関の山だ。汗などかけば、かえって二人の指を滑らせかねない。

 魔王の孫娘の細い身体を、勇者は肩で押しのけた。

「邪魔だ、嬢ちゃん」

 だが、床に生じた崩れの角に当てた腕は、肘が曲がるのとは逆さに反っている。このまま無理をすれば、折れるのは時間の問題だった。ランバールは歯を食いしばり、目を固く閉じて、言葉で表すことのできない想いを、痛みと共に抱え込んでもがいた。

 そこから救ってやる方法は、ひとつしかない。

「もうよい、勇者よ」

 言葉一つ残して、魔王は勇者の目の前から消えた。

「ジジイ!」

「お爺様!」

 ランバールとソフィエンの叫びと重なって、僭王モードレの哄笑が高らかに響き渡った。それを松明を手に呆然と聞いている魔族たちの前に、魔王を追うマルグリッドがふらふらと立ち上がった。

「ヴィルハーレン……ヴィルハーレン! ヴィルハーレン!」

 あまりのことに言葉を失ったらしいメルスが、崩れた床の端にむかって這っていく。その向かいでは、ランバールが深い穴の下を覗き込んでいた。

 うずくまったまま、その様子をじっとうかがっているのは、サンディであった。魔王の腕で拘束されていたのが、余程こたえたのであろう。

「……ラン! ヴィルは?」

 ようやく尋ねることができたところで、勇者は一言だけ答えた。

「落ちてく」

 それが、今、起こっていることの全てだった。

 魔王は落ちていく。真っ暗闇の中を、くるくる回りながら、どこまでもどこまでも落ちていく。どこまで広がっているか分からない、「決闘の間デュエル・チャンバー」の、真ん中といえば真ん中あたりにばっくりと開いた穴の奥深くへと。

 その穴の端へとたどりついたメルスが叫んだ。

「戻ってきてよ! ヴィルハーレン! 魔王ヴィルハーレン! 僕は……まだ何にも教わってない!」

「無駄ですだ」

 その背後で、モードレは嘲笑する。

「どこまで深い穴が開いたか、私だって知らないのですから」

 腹這いになったまま、キッと振り向いたメルスの眼差しは厳しかった。サンディはもとより、モードレの表情までが一瞬だけとはいえ、凍ったほどである。

 だが、ぼそりと聞こえたランバールの声は、意外に間延びしていた。

「……なんか来る」

 穴の底で何かがぼんやり光ったかと思うと、凄まじい勢いで上昇してきた。それは次第に穴一杯に広がり、輝きを増していく。その中心にいたのは、ひとりの初老の男だった。

 それを見るなり、ソフィエンが涙に咽ぶ。

「お爺様……。」

 離れた所から立ち上がれないままでいる尼僧の顔も、歓喜に輝いた。

「ヴィルハーレン!」

「おのれ、力場フォース・フィールドか!」

 同時に吐き捨てたモードレだったが、彼にとって幸運だったのは、それが大穴のてっぺんにまで至らなかったことだった。それは、魔王の力の限界を示している。ヴィルハーレンがモードレに次の一撃を加えるには、自ら身長ほどの高さを這いあがらなければならなかった。

 それでも勇者は、好敵手が生きていたことをひねくれた言い方で喜んだ。

「お前そんなことが」

「長続きはせん」

 すっぱりと切って捨てる魔王には、もともと愛想というものがない。ましてや、これは命と名誉が懸かった闘いである。その目が見つめている相手は、かつて倒した勇者ではなく、自分の足元であった。比喩的な意味でも現実に意味するところでも、魔王は不安定な場所にいた。

 その身体を空中で支えている力場の光が、時折うっすらと翳ることがある。呪文の効果が充分ではないのだろう。魔王の言う通り、この不完全な力場が消えてなくなるのは時間の問題だということだ。

「上がってこい、もう一度」

 ランバールは性懲りもなく、穴の下へと手を差し伸べる。魔王も再び、力場を踏み台にして手を伸ばす。床が崩れて崖となった面に足を掛けると、どうにか勇者の手を掴むことができた。だが、築かれてから長い歳月を経た城の床は、すっかり脆くなっていたらしい。一度崩れると際限がなく、魔王を助け上げようと力を込めて立ち上がった足元も、それがかえって仇となった。

 息を呑むソフィエンの目の前を2人まとめて転げ落ちながら、それでもランバールはヴィルハーレンの手を離さなかった。崖の途中で、太い足を踏ん張って立ち上がる。そのしぶといまでのたくましさに、ソフィエンがある種の敬意を込めて、呆れたような安堵のため息をついた。

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