第30話 獣の目で僭王が女たちを見ている
先端に鷹の紋章が輝く錫杖を手に、戦神の尼僧マルグリッドが現れる。
「あなたにはもう、欲望に任せるよりほかに心を満たす術がないということです。悪あがきはおやめなさい」
コートの合わせ目から覗く白い肌と膨らみを眺めて、荒い息と共にモードレは唸った。
「悪あがきかどうか、その目で見るがいい!」
その薄絹の下の身体は、微かに震えている。だが、それは恐怖によるものではない。モードレの顔は、歓喜にほころんでさえいる。やがてしなやかな腕を交差させて自らの身体を包み込むと、その場にうずくまった。
サンディがその隙を見逃すはずがない。グレート・アックスを振り上げると、僭王が垂れた頭に向かって一直線に走る。
「もらった!」
だが、叩きつけた斧は粉々に砕け散った。モードレが掌で受け止めるや、その刃を片手で握り壊してしまったのである。勢い余ってつんのめったサンディであったが、手の中に残った長い柄が、杖となって身体を支えた。
その頭上から、ぼんやりと金色に光る空気を縦に切り裂いて、拳がひとつ降ってくる。大きくはないが、それに力を与えている腕は、一本の巨木のようであった。サンディは気付いたが、刃を失った柄だけでは到底、防ぎきれるものではない。長い棒が1本折れて、全身鎧を着た女戦士は床に叩きつけられた。
立ち上がったメルスは「
「勇者殿に任せるのです」
その見つめる先には、腕と足と胴体だけが異様に膨れ上がった、モードレの巨大な姿があった。その身体には、薄衣の残骸がまとわりついている。それが一枚、また一枚と剥がれていくところへ、勇者ランバールはマンティコアが落としていったとおぼしき十文字槍の穂先を、低く構えて突進していった。
モードレの頭や拳は、ますます不格好に小さくなっていく。身体が、極限まで筋肉で強化されていく過程にあるからだ。膨れ上がるモードレの身体を前にしたランバールだったが、怯む様子は全くない。最後の一歩を、大きく踏み込む。
「その分、的は大きくなる!」
切ろうが突こうが、必ず命中するということだ。
ただし、傷を与えられなければ意味がない。斜め下から突き上げた穂先はモードレの身体を深々と刺し貫いたが、そこからは血の一滴たりとも流れ出すことはなかった。自らの受けた傷を傷と思うこともなくなった者にとって、いかなる一撃も恐れることはない。無限に強化された肉体が繰り出す拳は、ランバールの横面をすさまじい速さで張り飛ばした。
膝を突いた勇者に、情け容赦のない殴打と蹴りが繰り出される。横倒しになったランバールは身体を二つに折りはしたが、声は立てなかった。
「ラン!」
女戦士サンディが叫んだが、尼僧マルグリッドは首を横に振る。もちろん、納得はされない。
「お前が止めても、オレが!」
先へ行こうとしているのを、マルグリッドは止めようともしなかった。
「武器はどうなさいますか?」
ただ、冷ややかに切り返されただけで、サンディは引き下がった。見つめる先にあるのは、巨大な筋肉の塊と化したモードレと、短い刃物1本で立ち向かう勇者との死闘である。
ランバールは十文字槍の穂先を力任せに押し込むと、苦しい息の下でモードレをからかった。
「そんだけやっちまったら、もう魔法は使えねえだろう」
モードレは言葉に詰まる。巨体の上で苦しげに歪む小さな顔を見上げて、勇者はにやりと歯を剥いた。
「じゃあ、存分にやらせてもらうぜ!」
そういう勇者も、膝が笑っている。槍の穂先を抜くことなく、横に切り裂きにかかった。モードレも足を横に踏ん張ると、ランバールの腕を掴んで止めた。
「引っかかったな!」
踏ん張った方の足を内側へ蹴たぐると、モードレの身体は勇者と共に床に転がった。大小2つの身体が、幾度となく上になり、また下になりを繰り返す。女たちが叫んだ。
「ラン!」
「ランバール!」
「勇者殿!」
だが、最後に上を取ったのは、モードレの巨体だった。ランバールに、馬乗りになったところで横っ面を両の鉄拳で連打する。槍の穂先を掴んでいた手が、ずるりと床に落ちた。横向きになった顔には、もう眼の光がない。
「ヴィル!」
サンディが真っ先に呼んだのは魔王の名前だったが、同じく振り向いた尼僧マルグリッドはかぶりを振った。生命を削るようにして魔法を使ってきたヴィルハーレンは、杖にした剣にようやくすがるようにして、床に膝をついている。
モードレにはだけられた服を再び身に付けながら、メルスは勇者にまたがる筋肉の塊を睨み据えた。
「では、私たちだけで……」
生まれ育ちの高貴さが、冷たい怒りに火を点けたようである。「
サンディも、無言でそれに応じる。ところどころ金属板の剥がれた全身鎧の前に、刃を失った長い柄が携えられた。マルグリッドは錫杖を振って守りの円陣を戦神に返すと、祈りの言葉を唱えはじめた。
「共にあるべき勇者力尽き、我ら自ら信ずるところに従いて魔界の僭王に挑まんとするなり、願わくば戦いの行方を眺めおき給いて、見るべきところあらばご加護を賜らんことを……」 だが、モードレはそれを一笑に伏した。
「あなた方では勝てないことは、もう身体で感じているのではありませんか?」
女3人が3人とも必殺の一撃を見舞うべく身構えているが、自ら最初の一歩を踏み出そうとする様子はない。先ほどモードレに思いのままにされた恐怖が、手足のどこかに染みついてしまっているのだろう。
勇者ランバールが身体に残した十文字槍の穂先を逆手に掴んで引き抜くと、モードレは隆々と膨れ上がった足で女たちに歩み寄った。動けないままに、サンディが呻く。
「畜生……」
不格好なまでに膨れ上がった腕の一振りで、頼みとする唯一の武器は女戦士の手から離れて砕け散った。そのまま薙ぎ倒されたサンディは、痛みのせいか悔しさのせいか、立ち上がることもできない。抱え起こしたマルグリットのそばで、低い声がした。
「ボクが……!」
床を蹴って高々と跳び上がったメルスが、モードレの頭を横一文字に斬り払う。だが、鞘からほとばしる銀光は、折れた槍の穂先にであっさりと弾き飛ばされた。バランスを崩して落下する小柄な体が、ひと蹴りで床に転がされる。マルグリッドが叫んだ。
「メルス!」
傷ついた者を見捨てることのできない尼僧の性が裏目に出て、マルグリッドは錫杖を振るう暇もない。折れた十文字槍の刃が真っ逆さまに襲いかかる。だが、戦神の祈りは伊達ではなかった。
淡い光が尼僧を包み、無防備な身体への一撃を阻む。尼僧の行いは、戦神の目に止まったらしい。だが、その守りも二度はなかった。振り下ろされる穂先を、マルグリッドはうずくまったまま、錫杖を掲げて受け止める。その表情が歪むのを見て取ったのか、モードレは哄笑した。
「よくやりましたが、この力の差はどうにもなりますまい!」
続く一撃が、尼僧の手から錫杖を打ち落とす。その勢いで、マルグリッドの身体も床へと叩きつけられた。その上で、これまでの疲れのためか、これからの欲望によるものか。巨体が荒い息を弾ませる。魔法で自らを見るに堪えない姿に変えた僭王の前に、美しい女たちが為す術もなく倒れ伏していた。
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