第27話 マンティコアの眼が尼僧の肌を見ている
森羅万象を構成し、また動かしていると考えられているのが「地」「水」「火」「風」の四大元素である。それらは互いを生成し、また牽制し合いながら、世界の均衡を保っている。それらの性質と役割を交換してしまうのが、「
魔王ヴィルハーレンの詠唱する呪文が朗々と響き渡り、マンティコアが飛び立とうとしてもその度に翼を封じてしまう。その人間のような顔も苦悶に歪んでいた。
いや、それは魔王自身も同じことであった。身体はガタガタ震え、両の足も頼りなく揺れ動く。口の端からは微かに血が筋を引いて落ち始めていた。
その異変に気付いたのは、勇者ランバールであった。
「いかん、気力がもたんぞ、あれは」
多少なりとも魔法については、実際に使ったことのある勇者や修道院で学んだことのあるマルグリッドのみならず、使われているのを見たことしかないサンディやメルスの目にも、それは明らかであったろう。
ましてやモードレが気づかないはずはない。さっと片手を振ると、マンティコアは復讐に燃える目をぎらつかせて、最も無防備な相手を目ざとく見つけて襲いかかった。勇者でもなく、女戦士でも少女剣士でもない。呪文を唱えることしかできないそれは魔王でもない。
獲物となったのはその立場とは真逆の娼婦のごとく、黒いコートの奥には一糸まとわぬ尼僧マルグリッドであった。
好色な笑みを浮かべて涎を垂らした狒々の顔めがけて、魔王をかばうように叩きつけられた戦神の錫杖は、サソリの尾で軽く払われる。祈りの言葉を口にする間もなく、はだけられたコートの前から覗く白い裸身は床に組み敷かれた。
人質を取った形のモードレもまた、余裕たっぷりに口元を緩める。その視線の先には、荒い呼吸に大きく弾む胸がある。涎がしたたりおちて汚された自らの肌をどうすることも出来ず、マルグリッドはただ見つめているしかない。唯一の抵抗は、獅子の逞しい脚に挟まれた太腿を、固く閉じることだけであった。
「見ろ、いい格好だ」
ランバールは十文字槍を振り上げたまま、動けない。投げればサソリの尾に弾き飛ばされ、同時に皺の塊りと化した顔が尼僧の喉を食い破るだろう。斧や剣を手に近づいても、事態がそれより好転することはない。
しかも、マンティコアは獅子の身体をも、人間の男の欲望に任せようとしていた。硬い毛で覆われた獣が、女の滑らかな肌に荒々しく覆いかぶさる。マルグリッドは人とも猿ともつかない顔を、目を怒らせて睨みつけた。
「恥を知りなさい!」
人の言葉が分からないのか、それとも知らぬ顔をしているのか、獅子の腰が高々と上げられる。ランバールもサンディもメルスも、その光景を息を呑んで見ているしかない。魔王もまた、大きく息を吸い込むんだが、呪文の抑揚を変えることしかできなかった。モードレだけが、その沈黙の様子を楽しげに眺め渡していた。
「待って!」
静まり返った「決闘の間」の空気を突如として切り裂いたのは、甲高い叫びだった。だが、それはマンティコアに思いのままにされるマルグリッドの悲鳴ではない。魔獣もまた、声の主を見つめている。
「ボクを……。マルグリッドさんの代わりに、ボクを……。モードレ!」
剣を投げ捨てるなり、背中に手を回して胸甲を外した。服の胸元を開くと、浅いが確かにある谷間が見える。少女剣士の申し出に、モードレは高らかに笑った。
「同じ女性の危機に、自らを投げ出すとは……高貴なお生まれのようですね、身も心も清らかです」
「いけません!」
四肢を踏ん張ったマンティコアの胴体の下で、戦神の尼僧は身体を横たえたまま止めた。だが、メルスの手は止まらない。滑らかな肩が露わになり、幼さを残す身体が「
だが、気高い令嬢の裸身が僭王と魔獣の前に晒されることはなかった。女戦士の逞しい手が、華奢な腕を掴んだのである。少女剣士はその手を振りほどこうともしない。唇を固く結んでいるが、その目を閉じた表情は穏やかだった。そこには感謝とやんわりとした拒絶が現れていた。
そのどちらであろうとも、サンディの知ったことではないようである。
「そのケダモノはごめんだけどよ……お前なら、まあ、いいぜ」
斧を投げ捨て、誘惑の言葉と共にモードレに歩み寄る。もっとも、メルスと違って、全身鎧はそうそう脱げるものではない。それでも身体の奥底からにじみ出る野生の色香は、魔界の貴公子の欲望をそそるに足りたようであった。
「態度で示していただかないと……」
からかいの言葉に、妙な色気のあるささやきが手足よりも先に絡みつく。いつになく艶のある唇が、しっとりとした声を漏らした。
「あんたならどうにでもできるだろ、こんな鎧」
だが、慣れない誘惑は僭王の心をとろかすには遠く及ばなかった。モードレはサンディの言葉と身体を冷たく跳ねのける。
「そんな力も惜しいのですよ!」
指を一振りしただけで、隙を狙って十文字槍を突き出したランバールが金縛りに遭う。雄叫びを上げようとして開けたままの口を閉じることも出来ない。そんな惨めな勇者を眺めて、モードレが鼻で笑った。
「そんな色仕掛けに引っかかる私ではありません。前魔王の力が尽きれば、あなたの命とお嬢さん方の操は手に入るのですから」
そう言いながらマンティコアに向けて顎をしゃくる。マルグリッドが、諦めたように顔を背けた。その虚ろな目は、もう流す涙もないようである。床にこぼれた銀色の髪が、揺れる金色の光にゆらめいていた。
横たわる無力な肢体のしどけなさを見ても、醜い獣の涎が垂れるのを見ては食指の動くことはないのであろう。モードレは皮肉っぽく付け加えた。
「魔獣に汚された尼僧くらいは返して差し上げても差し支えないのですがね」
だが、人間の老人の顔をしたマンティコアは、抑えに抑えた欲望を形にすることはなかった。むしろ、自由にならないはずの翼をはためかせて、どこにあるとも知れない暗い天井に向けて舞い上がりさえしたのである。
勝利への陶酔を邪魔されたモードレは、苛立ちを剥き出しにして命じた。
「昏き深遠より召されし魔獣よ! 勝手な振る舞いはならん……」
その言葉が続かなかったのは、魔王を除いた他の面々と同じ理由からである。そこには、思いを言葉にできるかできないかの違いしかない。
「
これまで詠唱されていたはずの、地水火風の四大元素を操る呪文である。途中でやめられるようなものではない。当然の疑問であるが、荒い息の中で穏やかに答える声があった。
「
魔王ヴィルハーレンが尼僧の貞操を危機に晒してでも唱え続けたのは、マンティコアの
すんでのところで命拾いしたモードレが立ち上がろうとするところへ、一喝する声がある。
「覚悟せい、不肖の甥よ!」
剣を抜き放った魔王が、身体をふらつかせながらも大股に歩み寄るところであった。
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