第26話 召喚された魔獣が魔王を見ている

 戦神の尼僧マルグリッドは、何が起こったか気付いていた。金色の光に照らされて、さっき削り取られた石壁の破片があちらこちらに転がっている。

位相転移フェイズ・シフト……」

 僧侶でありながら、自らは使えない魔法に関する知識は深い。

「この場所と、さっきの通路にあったものを入れ替えたのです。あの、青い光の届く限りの……」

 何となく分かった様子のメルスはふんふんと頷いているが、そうでもないサンディと勇者ランバールは怪訝な顔をしてあちこち眺め渡している。

「てことはだ、マリー、ここにあるものは、まんまさっきの……」

 サンディが見ているものから、勇者は敢えて目をそらしていた。それでいて、十文字槍はしっかりと小脇に抱えている。

 その理由は、暗い空間に広がる金色の光だった。あの青い光に巻き込まれてやってきた「床食いフロアイーター」である。さっきの危機は、去っていなかったのだった。勇者は魔王の姿を探した。

「おい、爺さん! 倒れてる場合か!」

 名前で呼ばれなくなった魔王ヴィルハーレンは、金色の光が広がる石の床に倒れ伏したまま動かない。倒れ伏したままである。勇者ランバールはマルグリッドへと振り向いた。1人だけ服を着ていない尼僧は、慌てて魔王のコートの前を掻き合わせる。今度はこちらが叱り飛ばされた。

「そんなこと気にしてる場合じゃねえ! これ何とかしろコレ!」

 ヴィルハーレンを起こせという意味か、溶けていく床をどうにかしろという意味かはともかく、尼僧はきっぱりと断った。

「私の力の及ぶところではありません」

「何だとおっ!」

 ランバールが勇者らしくもなくうろたえていた。武器でどうにもならないものは魔法でどうにかするしかない。だが、勇者が使える程度の魔法でどうこうできる相手ではなかった。

 メルスはというと、落ち着いたものである。

「つまり、ここがどのくらいの広さかは分かりませんが、いずれ足場がなくなることは間違いないというわけだね」

「そんなことはない」

 生き死にが関わっている割には悲観的な分析をひっくり返す声は、溶かされることになっている床から聞こえてきた。

「あれは、狭い床の端がある限りは、沿って広がる。このような広い所で、あれ以上は広がらん。」

「生きてるんなら生きてると言え、爺さん!」

 生涯の好敵手を名前で呼ぶのをやめた勇者だったが、顔は安心したように笑っている。それは、危険がないと分かったことだけが理由ではあるまい。真っ先に駆け寄ったのはマルグリッドだったが、その身体に持ち主のコートをかけるのはためらった。魔王もまた、それを押しとどめるように、尼僧の身体を支えにして立ち上がった。

「ワシのことなら放っておけ」

 燐光に包まれた身体は、僅かにふらついている。今度は、錫杖を突いたマルグリッドが支えに立った。荒い息の下で、魔王が顔を高く上げて告げる。

「来るぞ……我が甥が」

 そのとき、本来の力を失った「床食いフロアイーター」の放つ光の向こうから、ゆらゆらと歩み寄る者があった。かすかな燐光をまとっているところを見ると、魔族であろう。その名は、魔王ヴィルハーレンの口から洩れた。

「モードレ……正気が戻ったなら、大人しく隠れておればよいものを」

 肌が透けて見えるほどの薄い衣をまとったモードレが、冷たい笑いを浮かべた。

「確かに……あれだけの者どもを操る精神の糸が切れて、しばらくは己を取り戻すことは叶いませんでした。その間に見つけていただければ、この決闘の間デュエル・チャンバーで雌雄を決することもなかったのですがね」

 あくまでも内輪の話であっただろうが、部外者である勇者にも、この辺りの理屈は理解できたようであった。

「爺さん……ここ、狙って来たのか?」

「知らぬ場所に転移して、壁にめり込むこともあるまい……まあ、どの辺りかは覚えてもおらんかったから、運もよかったのだが」

 叩いてみせる軽口の震えは、魔王の疲れを物語っていた。それを察したのか、モードレは楽し気に頷いた。

「なるほど……私を探し回るよりも、魔界の王族のしきたりに従って待つほうが、力を温存できるというわけですね?」

 メルスが怪訝そうに眉をひそめた。

「しきたり……?」

 上流階級に生まれ育った身には、馴染みの深い言葉であったろう。魔族の王家にまつわるしきたりとなれば、気になっても不思議はない。そのまなざしを受け止めたモードレは、以前に見せた好色な眼差しを再び返した。

「知りたければ、後でたっぷり教えて差し上げます……ソフィエンと並べて、何もかも」

 顔を赤らめたメルスを見やって、魔王ヴィルハーレンは怒りに声を震わせた。

「それ以上、ワシの前で不埒なことを口にするでない……」

「ほう? どうなさるおつもりです?」

 余裕たっぷりに嘲弄するモードレに、ヴィルハーレンも笑ってみせる。

「お前を跡形もなく消滅させるぐらいの魔法を使う力は、まだ残っておるわい……お前と違ってな」

 モードレは一瞬、息を呑んだ。その隙を突いて、魔王はさらに甥の弱点を言い募る。

「あれだけの意識のない群衆の支配コントロール・モブ・アンコンシャスを使って、そうそう他の魔法を操るだけの力が戻ってくるものか」

 高らかな哄笑が、これに答える。何の気負いもない、心の底を余さずさらけだしたかのように爽やかな笑い声であった。

「おっしゃる通りです。実は、立っているのがやっとなのですよ」

 全身鎧に身を固めていたサンディが、両手に携えていたグレート・アックスを、頭の上で二度、三度と振り回して勢いをつけた。

「そんなら話が早いや! 覚悟しな!」

 もう裸を気にすることもなく、女戦士は思いのままに斧を振るうべく突進する。だが、最も血気にはやっていてもおかしくない中年の勇者は、それを押しとどめた。

「待て! こういうときは罠があるってのが相場だ!」

 魔界の貴公子に斬り込みかかったところで足を止めたサンディの目の前を、どこからか飛び出してきた大きな獣が横切った。モードレが残念そうなため息を吐く。

「さすがは勇者ランバール、場数を踏んでいらっしゃる」

 ライオンのような獣が軽々と身を翻して、魔王たちの頭上を飛び回っている。密閉された室内に、羽ばたきの音が響き渡る。猿のようにくしゃくしゃとしかめられた人間の顔が、魔王たちをこすっからい目つきで見下ろした。その下では、長い針の一本ついたサソリの尾が揺れていた。

 ヴィルハーレンが軽蔑混じりに、その魔獣の名を口にした。

「マンティコアか……随分と低級なものを」

その名を知っているのか、メルスは目を輝かせて剣の柄に手をかけた。剣の修行相手に不足なしと踏んだのだろう。だが、勇者ランバールは、その傍に立って「落ち着け」とたしなめる。

 身構える勇者たちを一瞥すると、モードレは魔王に向けて頬をほころばせた。 

「同じものを呼ぶ力も残ってはいないでしょう、あなたも」

 モードレの嘲笑に目を剥いたのは、マルグリッドだった。不安げな眼差しを魔王に向ける。確かに、その息は荒かった。心なしか肩も落ちて、背中も少し丸まっているようである。だが、それは肉体面での疲れに過ぎない。魔王ヴィルハーレンの精神は、僭王に屈してはいなかった。

「同じものは……な」

 意味ありげに口元を歪めて、低い声で呪文を唱えはじめる。たちまちのうちにマンティコアは翼の自由を失い、真っ逆さまに堅い床へと墜落した。それでもまだ息はあるようで、耳障りな絶叫を上げてのたうち回っている。その上へ、無数の金属片が降り注いだ。

 モードレが呻いた。

元素変換エレメンタル・シフト……」

 空気が金属に変わり、マンティコアから風に乗る力を奪った上に刃物となって襲いかかったのである。

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