第16話 勇者が魔王の死闘を見ている

「いやあああああっ!」

 ソフィエンの絶叫が、魔王ヴィルハーレンと3人の女勇者たちが睨みあう対決の場に水を差した。とはいえ、魔王はたとえ孫娘がいかなる声を立てようとうろたえることはない。あさっての方向へ真っ先に気を取られたのは、サンディであった。

「おい……あれ!」

 長剣を構えた魔王を背中を目の前にしながら、サンディは声のした方向を指差した。そこには確かに、白い胸を隠してコートの前を合わせたソフィエンの姿がある。だが、それは飴でも曲げるかのように歪んでいた。まだ気を失っているらしい魔族たちの中から身体を起こしたのはランバールだったが、その姿も右に左に揺らいでいる。

 いつしかマルグリッドもメルスも、その光景に目を奪われて呆然としていた。

 ただ、魔王ヴィルハーレンだけが目を伏せて、不機嫌そうな声で告げた。

重力の結界グラヴィティ・バウンド……使えるのは、ワシか、それとも……」

 それと重なって聞こえるのは、鳥のクチバシベク・ド・コルヴァンの長い柄を杖に立ち上がったランバールの声だった。

「どこだ! マルグリッド! 赤毛の姉ちゃん! 胸のない嬢ちゃん! ……魔王! 魔王ヴィルハーレン!」

 もうすっかりねじ曲がってしまったその姿に向かって、サンディが叫んだ。

「ここだ、ラン!」

 もう魔王からはすっかり心変わりして、勇者を呼び捨てである。その尻の軽さにマルグリッドは上品な顔立ちながら思いっきり眉をひそめたが、勇者を呼ばないわけにはいかない。

「ランバール様!」

 だが、別のことを気にしていたのはメルスである。この神速の技を持つ少女は、ランバールと思しき影の背後から、何かが迫るのに気付いていた。

「何か来るよ!」

 その正体は、荒々しい怒号で知れた。その間に何度も、武器と武器とがぶつかり合う甲高い音がする。

「このうすらデカいだけの鎧人形があああああ!」

 それは、命令できる者が生きていることを示している。魔王がこれまで行動を共にしていた女戦士や尼僧、少女剣士と袂を分かつ戦いの中、勇者も含めて誰ひとり、倒された僭王モードレをどうするか考えてもいなかったのだ。

 魔王の背後に、息を吹き返した不肖の甥がいつの間にか佇んでいた。

「今、ここは全ての物体が私の自由になる空間です……いささか狭いですが」

「おのれ、いつの間に……」

 いまいましげに呻く魔王に、モードレは皮肉っぽく笑った。そんなことも気づかなかったのかというニュアンスたっぷりに、魔王と、武器を手にした裸の女たちをさっと見渡す。

「あなたが醜い同士討ちをしている間ですよ」

 それを真っ先に始めたサンディが、斧をふりかざして襲いかかる。自覚があるとすれば、満面に朱を注いでいるのは怒りのせいだけではあるまい。羞恥と屈辱とが、大斧の一撃には込められていよう。

 だが、その刃はモードレではなく、魔王の頭に落ちかかった。ヴィルハーレンは光の楯で、斧を見もせずに弾く。低い声でつぶやくなり、もう一方の手で長剣を振るった。

「人や物の速さや重さだけでなく、見えるも見えぬも思いのままにできる結界ではあるが……」

 斧の運動を操って身をかわすだけの余裕をつくったモードレは、光さえもねじ曲げて姿を消すと、魔王の正面に移動したのだった。それを読んだ魔王の一撃は、紙一重の差で僭王の鼻先をかすめていた。

 だが、そんなことは先刻承知とばかりに呪文の詠唱が続く。モードレは鼻で笑った。

「そう……重力結界を破るには同じ結界で中和するしかない」

 更に魔王は追い討ちをかけるが、剣は見当違いの方向へと流される。嘲笑がその意味を解き明かしてみせた。

「私の結界の効果もありましょうが……そもそも呪文を唱えながらでは狙いも狂おうというものでしょう。長い呪文ですからねえ」

 よく喋る口元に向けて、剣の切っ先が突き出される。それもまた、指先ひとつで講釈と共に止められた。

「こういう目に遭わないように、床で横になったまま、たっぷりとお時間をいただいたわけです」

 早い話が、死んだふりをして最小限の結界を張っていたわけである。この中では、モードレが傷つくことは絶対にない。絶対無敵の状況をもたらすためなら、どんなみみっちいことでも平気でするのがこの男なのだろう。

 その成果は、魔王にとってはイヤというほど発揮されている。どれほどの剣風を巻き起こしても、モードレにとっては夢の中も同じこと、せいぜい白いマントがなびく程度だ。横薙ぎの刃は指先でちょいとつまんだだけで止められ、くるりと宙を舞ってモードレの手に収まる。

「よい剣ですね……魔王の風格にふさわしい。つまり、これも私のものです」

 ここまでの間、女3人は身動きひとつできなかった。対峙する2人であるが、魔王と僭王の違いこそあれ、どちらも倒すべき魔族の中の王族である。だが、両方を攻撃しても戦力が分散されるだけだ。魔族の王が手を結んでしまったら、勝てる者も勝てない。

 そういうわけで、魔王が武器を奪われても、マルグリッドはただ見ているしかなかった。

「ヴィルハーレン……」

 だが、そんな女たちの迷いを断ち切るかのような叱咤が飛んだ。

「なにやってる! 早く戻れ!」

 外界の姿を歪めて見せる壁には、鎧人形と闘っていると思しき影が浮かんでいる。かなり苦戦しているらしく、鎧人形の影が様々な形に変化しているのに対して、勇者のほうはほとんど動く様子がない。

 だが、女たちもまた、誰ひとりとして動きはしなかった。

 戻るためには、重力結界を張っているモードレを魔王と共に倒すしかない。だが、魔王は素手である。状況は圧倒的に不利で、勝ったとしてもその後はまた、武器を取り戻した魔王と対峙することになる。何一つ変わることはない。

 しかも、魔王と僭王とが睨み合う中、その向こうに立つサンディが、他の2人を目で牽制していた。

 メルスはそれに気づくことなく、剣を手に走りだす。その先にいる男たちをまとめて仕留めようとでもするかのようであった。

 その目の前に腕をかざして止めたのは、マルグリッドであった。怪訝そうに、サンディに向かって眉をひそめる。

「どういう……つもり?」

 まあ見てなって、とサンディが言ったようにも見えるが、はっきりしない。素手の魔王と、その剣を手にした僭王の身体が一瞬で交差したのである。

 そのとき、何かが起こった。目には見えない。分かるのはただ、魔王の詠唱する呪文が聞こえなくなっていたことぐらいだろう。それがもたらしたものが何であるかは、膝を突いたモードレを見れば明らかであった。

 魔王ヴィルハーレンから奪った剣を横に一閃させたモードレが、自らの胸を押さえている。その指の間からは、人間と同じ色の鮮血があふれ出していた。それを呆然と見つめる目は、驚きに見開かれている。

「な……に?」

 自らの負傷が信じられないといった様子でつぶやくモードレに、魔王ヴィルハーレンは冷ややかに告げた。

「ワシに代わって魔族の王を僭称するなら知らぬでもあるまい。自他の入れ替えチェンジリングよ」

 自分に起こることを相手と取り替えるという、反撃魔法カウンター・マジックの一つをかけられた僭王は呻いた。

「こんな……こんな初歩的な魔法で」

 その声は己を取り戻してはいたが、そこには怒りの響きが現れていた。それがモードレをトリックに引っかけた魔王の老獪さに対するものであるか、それともトリックに引っかかった自らの未熟さに対するものであるかは分からない。

 モードレが何を考えているかはともかくとして、魔王ヴィルハーレンは、剣を掴んだまま身体を小刻みに震わせる不詳の甥を、穏やかにたしなめた。

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