第7話  魔界で魔族たちを見る

「ここだ」

 晴れ上がった空から降り注ぐ澄んだ日の光の下、魔王は何の変哲もない岩と岩との間を指差した。

「何にもないぜ?」

 腰を屈めたサンディが、顔をしかめて岩の間を覗き込んだ。確かに、そこには何もない。冷たい岩山の風が唸り声を上げているだけである。苔の間から生えた細い何本かの草が、それに煽られてびりびりと震えていた。

「ボクに、ここをを通れっていうの?」

 女戦士の後ろで困り果てて立ち尽くすほかはないメルスは、確かに軽装で小柄で細い。だが、それでも身体を押し込むのがやっとの幅しかなかった。たとえそれが誰かひとりにできたとしても、後に続くものがいなければ意味がない。

 まるでトンチ問答のようなやりとりをじっと見つめていたマルグリッドは、魔王が指した場所を、メルスの頭の上から覗きこむ。

「魔法陣……」

 驚きを込めてつぶやいたのは、マルグリッドが戦の神に仕える尼僧だからである。こうした目印や手掛かりの探索も、戦場に赴いて戦士や勇者と生死を共にする僧侶としては、必要な能力のひとつだった。

 2つの岩にはそれぞれ、雨風に削られた、うっすらと見えるだけの円が何重か描かれている。修道院で魔族についての知識として得てはいたが、実際に見るのは初めてだったのだろう。ましてやメルスやサンディには何のことやらわかるまい。

「これが結界ですか?」

 魔王を振り返ると、その目はいつになく鋭い光を放っている。

「先へ行くには、覚悟がいる。よいか?」」

 改めてそう告げられて、戦神の尼僧は口ごもった。

「心配はいらん。血でサインをしろなどとは言わん」

「まさか、そんな邪法など……」

 魔王の冗談に、ようやくそれだけ答えた。

 なりゆきでついてきてしまったが、マルグリッドにはもともと何の義理もない。動機といえば、この魔王を生かしている戦神の考えを知ることだけであろう。帰ろうと思えば帰ることもできる。

 マルグリッドはこっそり少女剣士や女戦士の顔を見やった。

「何だお前、ビビっちゃってんの?」

 サンディは笑ったが、声がいささか裏返っていた。

「そ、そんなことはありません!」

 最年長者のプライドと落ち着きはどこへやら、ムキになって打ち消すと、女3人の中では一番若いメルスが冷ややかに言い放った。

「怖いなら……正直に言った方がいいよ」

 少女剣士が戦神の尼僧を見据えている。だが、その身体は微かに震えていた。それを隠そうともせず、メルスはきっぱり言い放つ。

「ボクは……怖い」

 人の身で入り込んで、帰ってきた者はないのが魔界である。誰ひとりとして魔王の問うた「覚悟」に即答できなかったとしても、責めることはできない。

 それはヴィルハーレンも分かっていたのか、岩の間を指していた指を引っ込めた。

 だが、バールだけは気にもしないで、その中へと足を踏み入れる。人間には見極められないはずの、結界への入り口である。

「おい、ボーズ!」

 サンディがおたおたと周りの顔を見渡す。少女剣士メルス、戦神の尼僧マルグリッド、そして……魔王ヴィルハーレン。

 返答に困り果てた2人に挟まれた、老いた男の穏やかな声が促した。

「仕方がなかろう。後を追うしかあるまい」

 そして魔王のやった通り、見よう見まねで結界の中へと入り込んだ3人は、想像を絶する光景を見ることになる。 

 真っ青な、闇。これが魔界だ。

 急峻な山々が暗い影となって見下ろすのは、暗い天空を目指して伸びる、白い縦長の城の尖塔である。遠目に見ても、石壁の風化は見て取れる。おそらく何百年かはそこで、人間界とは違う厳しさの風雪にさらされてきたのだろう。それでも崩れもせずにそそり立っているのは、この城の堅固さを物語っている。

 だが、魔王ヴィルハーレンに付き従ってきた女たちの目を釘付けにしたのは、魔界の闇の色でも空の暗さでもなく、また、迂闊に近づく者の命を奪わないではいない、険しい山々に囲まれた城でもなかった。

「冗談だろ……」

 普段はちょっとやそっとのことでは物怖じしないサンディの声が震えている。

「まさかそんな……」

 たとえ剣1本で命のやり取りをするときにでも眉ひとつ動かさないメルスの息が弾んでいる。

「無理でしょう……」

 その日の歩みがどれほど過酷なものであろうと弱音を吐いたことのないマルグリッドが、絶望のため息を吐いた。

「こうなってしまった以上、どうにもなるまい」

 最後に口を開いた魔王だけは、いつもの通りだった。

 悔いても嘆いても、何とかするしかない事態が、目の前にある。それを招いた張本人はというと、ケロッとしていた。

「いや、オイラも悪気はなかったんだよ」

 だが、バールがどう弁解しようと、悪意でなければこんなことはできない。

 目の前に並んでいるのは大剣に小剣に長剣に短剣、斧は長いものから片手持ちの短いものまで大小さまざまのものが取り揃えられ、徒歩のものから怪しげな鋼鉄色の仮面を付けた馬に似た幻獣に跨っている騎士にいたるまでが、革鎧から鎖帷子、リングアーマー、プレートメイルと甲冑の見本市のごとき武装で身を固めている。

 一言で述べるならば、たった4人が子連れでどうこうできる相手ではなかったのである。

「あ……あの、別にアタシ、ヴィルとこの城で暮らしても」

 魔族たちとの睨み合いに耐えかねたのか、女戦士は目の前の現実を乗り越えなければ得られない、遠い未来のことに想いを馳せた。だが、一触即発のときに、それはあまりにも危険すぎる。さすがに戦神の尼僧マルグリッドが見かねてたしなめた。

「サンディさん!」

 メルスはというと、まだ冷静であった。剣の柄に手をかけて、抜き打ちに必殺の一撃を見舞う構えでいる。

「ボク……ここで剣を極めたらどうかなって思うんだ」

 その声は恐怖からか、はたまた武者震いからか、わずかに震えている。マルグリッドはその傍らに立って囁いた。

「ええ……きっと叶います、それは。その技、生きて持ち帰ってください……人間界に」

 バールはいつの間にか、その後ろに隠れている。

「門番が弱そうだったから……オイラだけでもなんとかなると思ったんだ」

 そのつぶらな瞳が見つめる先には、鋲をびっしり打たれた巨大な城門がある。バールはここにハルバード斧鉾を持って立っていた兵士に挑んだのだ。

「そんな短剣じゃどうにもならないでしょうに」

 呆れるマルグリッドに、小さな「勇者」はしつこく言い訳する。

「いや、できるんだよ、オイラ! あいつらが突っ込んできたら……」

確かにバールが短剣を抜いたら、年齢不相応なものすごい速さで繰り出せる。それは間違いないし、尊敬に値することだ。だが、これは一対一の勝負ではない。正面からでは、この軍勢に太刀打ちできるわけがないのである。マルグリッドには、そんな説明を長々としている余裕もなかった。

 戦神の尼僧が血気にはやる男の子を説き伏せる言葉を失ったとき、魔族たちの前に姿を現した者がある。

「ワシが行く。もう何もするな」

 それは、目指す城の本当の主たる魔王ヴィルハーレンであった。

「開門せい!」

 大音声と見据える眼差しに、並み居る魔族たちは武器を手にしたまま、一斉に一歩引いた。サンディが、似合わない嬌声を上げて囃したてる。

「カッコいい!」

 城の主が居城に入る。これくらい自然なことはない。しかも、門をこちらから突破するのではなく、向こうから開けさせるのだ。これほど安全で、確実な方法はない。

 だが、門番は頑なだった。

「魔王の命なくば開けられぬ!」

 岩山という岩山に響き渡る声に、魔族たちは武器を掲げて歓声で応じた。

「……意外とお前、人望ないんだな」

 物理的にも精神的にも不利な状況を、サンディは魔王を野次る形で自嘲する。苛立たし気に魔王を見つめるメルスを、マルグリッドがなだめた。

「信じなさい」

「……魔族を?」

 冷ややかに言い返された尼僧を視線を交わした魔王は、悠々たる声を木霊させた。

「では、この門は未来永劫開かぬということだな」

「そうだ、帰るがいい!」

 下卑た声が門番の宣告に応じて、大声で笑い、また歌い騒ぐ。悔しそうに唇を真一文字に引き結ぶ女3人に、魔王は毅然として言い切った。

「その子は帰しなさい」

「やだね」

 口答えしたのは他でもない。短剣を手にしらばっくれて……みせたのはバールであった。そんな態度をとっていても、子どもは子どもである。じりじりと迫る魔族たちから背中でかばったのはサンディであった。

「何をやった? 正直に言え」

「別に……まっすぐ向こうへ歩いてったら、魔族がちょっかい出してきたから」

 それ以上の言い訳はなかったが、聞く必要もなかった。マルグリッドが諦観のため息を漏らす。

「身の程を知らずにやり返したというわけですね。生きていたのを幸運だったと思いなさい」

 腰をかがめて抜き打ちの一撃を狙うメルスが、硬く低い声でつぶやいた。

「ボクたちにもその幸運があるよう、戦神に祈っておいてください。マルグリッドさん」

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