第6話  女たちが憩う湯煙の向こうから魔族が魔王を見ている

 岩場だらけの高地をどうにか抜けたところで、帰るアテもない子供を背負い込んだ女たちに、魔王は1つ提案した。

「望むなら、湯治をしていくがよい」

 この山脈には湯の湧くところがいくつもあり、魔王がここを出る時にたまたま見つけたものがあるのだという。長い旅の間、ろくに身体を洗う暇もなかった女たちは、一も二もなく同意した。

 そういったわけで、それぞれ違った事情で魔王に付き従うことになった3人は、高い岩で囲まれた温泉に浸かって、生まれたままの姿でひとときの解放感を味わうことになったというわけである。

 魔王ヴィルハーレンはというと、席を外している。さすがに、湯の中で女たちを侍らせるほど破廉恥な真似はしない。ただし、いかに子どもとはいえ、肉体的には健康な男を残していったのは誤算だったと言わざるを得ない。

 それはそうと女たちが、久しぶりの入浴にいささか気が緩んだとしても、それは無理からぬことであった。

「なあ嬢ちゃん、成人したって……どういう意味だ?」

「どういうって?」

 湯の中に豊かな胸を沈めたサンディにからかわれていることに、メルスは気づいていない。湯の縁の岩に腰かけて、膨らみ初めた同じ場所を手で覆ったまま、風に身体を任せている。

「好きな人はいるのか、ってことですよ」

 卑猥な質問を少女に浴びせる女戦士を眼で牽制しながら、湯から上がったマルグリッドは、そのつややかな肌を白い肩に寄せた。胸の前に横たえた腕から、2つの玉が覗いている。

「そういうお前はもう、婚期逃したんじゃ?」

 ツンと済ました上流階級の令嬢をからかい損ねたサンディは、その矛先を修道院育ちの尼僧に向けた。返す言葉もないマルグリッドは、メルスを促して再び湯に浸かる。サンディは勝利の笑い声を上げた。

「図星」

 そんな他愛もないひと騒動に興じている隙に迫っている危機に、女たちは気づいてはいなかった。

「お姉ちゃん、オイラも!」

 突然、湯柱を上げて顔を出したのは、バール坊やであった。まだ、母親と風呂に入っていてもぎりぎり不思議はない年であるが、出現した場所が問題である。

「きゃああああ!」

「あなたどこにいたの!」

 真っ赤になって立ち尽くすメルスをかばうかのように前に出たマルグリッドは、自分の身体を隠す間もない。バールはそれを真っ向から見ながら、悪びれもせずに答えた。

「この中だよ」

 指さす先には、下半身を沈めた湯がある。メルスは黒髪の流れる細い背中を見せて、情けない声を上げた。

「ボクもういやだ、こんなの……」

 マルグリッドは湯を跳ね上げて、バールに迫る。

「いい加減にしなさい! 子供だと思って大目に見てれば……」

 バールが慌てて逃げこんだのは、サンディの胸元である。そこに顔を埋めてくるのを困ったように見つめながら、女戦士は尼僧をなだめた。

「まあ、そこはお前も大人にならないと」

 マルグリッドはムッとして尻を向けると、メルスの背中を抱いて再び湯に身体を沈めた。

 バールはバールで、サンディと無邪気にじゃれ合っている。

「あ、コレ何だ、眼の形して、可愛いな」

「やめて見ないでよ、お尻の痣なんか」

「お前だって散々見たじゃんか。マリーのも、メルスのも……」

 聞いている方はたまったものではなかろう。

「いやああああ!」

「サンディあなた子供に言っていいことと悪いことが……」

 メルスの悲鳴とマルグリッドの非難が、サンディの耳に入ろうはずはなかった。真っ先に、それまで気づかなかった危機に対して行動を起こしていたからである。

「逃げろ!」

 バールを突きのけるや、湯の中から飛び出した。湯煙の中に、人影が見える。逞しくも伸びやかな脚が弧を描いて、そこに高々と回し蹴りを放っていた。甲高い音を立てて転がった小剣を手に取ると、岩場の影から現れた相手に突き刺した。

「早く武器を! 坊主は下がれ!」

 女戦士の叱咤に、裸身を晒した女と少女が子供ひとりをかばってそれぞれの武器を手に取った。

 狭い岩場を潜り抜けてくる敵は、サンディが小剣のひと突きで仕留めている。だが、その岩をよじ登ってきた者までは手が回らない。それが飛び降りてきたところで神速の剣を振るって斬り伏せるのは、メルスの役目である。

 マルグリッドは温泉の向こうで錫杖を片手に、脚にすがりつく男の子をもう一方の手で抱き寄せた。

「怖くないのよ、バール……」

 だが、多勢に無勢とはこのことである。小剣や短槍で武装した男たちが四方八方から大岩を乗り越え、女たちを数で圧倒した。

「イヤだ……ボクに近寄るな!」

 悲鳴に近い叫びと共にメルスが放った逆袈裟の一閃が、湯煙の向こうから現れた男の革鎧を切り裂く。

「野郎! 女の浴びてる風呂に入り込むたあ、とんだ助平どもだ!」

 サンディの小剣で突かれた相手も、その場に卒倒した。

 だが、二人とも横からの攻撃までは防ぎきれず、温泉際まで追い詰められる。

 とうとう、サンディが叫んだ。

「坊主! オレの斧を取ってこい! 男だろ!」

 マルグリッドが悲鳴を上げる。

「無茶言わないでサンディ!」 

 そこで聞えてきたのは、不敵に笑う子供の声だった。

「そうでもないんだな、これが」

 一陣の風が湯煙を吹き散らし、女たちの裸身を晒す。だが、それを直視できる男は誰もいなかった。一人残らず岩場に倒れ伏し、どれだけ踏ん張っても立ち上がることさえできない。

重力の遅滞魔法グラヴィティ・ディレイ……」

 戦神の尼僧がつぶやくのをよそに、バールは低い声で何やら口の中で唱えた。男たちの身体を、灰色の煙が覆う。

目潰しの雲ブラインド・クラウド?」

 マルグリッドの腰から離れたバールは、サンディのもとへ、彼女の斧を引きずっていく。

「お前、これ……」

 唖然とする女戦士に、裸の男の子はニカッと笑った。

「言ったろ? お姉ちゃんたちは、オイラが守るって」

「危ない!」

 メルスが突然、片手でバールを抱いて温泉の中へ転がり込んだ。白刃の閃きに、手斧を持った男が怯む。

「効かない……オイラの、魔法が!」

 呆気にとられた目の前に、男が頭から倒れ込んできて、バールはメルスを両手両足で抱いて湯の中へと沈んだ。

「く……苦しいよ!」

 少女剣士がバールをふりほどいて立ち上がったとき、男たちとの勝敗は決していた。

 この温泉で立っているのは、裸の女3人と、彼女たちを守るべき武器も何も身に付けていない男……の子だけだった。

 その誰もが、再び戻ってきた湯煙の向こうに見えた人影を前に身構える。だが、コートをまとったその相手は、両手のいずれにも武器を携えてはいなかった。

「許せ……ワシの要らぬ気遣いがお前たちを危ない目に遭わせた」

 魔王ヴィルハーレンだった。戦神の尼僧マルグリッドが、たった今、目にしたばかりの魔法の名前をつぶやく。

悪意ある者の石化ペトリファイ・イーヴル……」

 それは、魔王が初めて女たちに見せた魔法であった。


「あれが……魔族なんですね」

 温泉を離れて山脈へと向かう道で、マルグリッドは魔王に尋ねた。

「ワシもまだ、使うつもりはなかったのだがな」

 その立場にはふさわしくない答えに、一同は顔を見合わせて首を傾げた。魔王はすぐに、恐ろしい答えを続けてみせる。

「これで、ワシらの居場所は知れた。強すぎる魔法は、他の術者の知るところとなるのでな」

「それは仕方ないんだけどもさ」

 危機の到来にも、女戦士は動じることがない。むしろ、その関心は他の所にあった。

「あのボウズさ」

 一同がじっと見つめていたのは、さっき女たちに子供の特権を余すことなく行使した不埒者だった。

「……な、何だよ」

「ボクの身体にあんなことして……お仕置きが必要だな」

 メルスが腰の剣に手をかけると、バールはじたばたと言い訳した。

「だって、あれはお姉ちゃんが……」

 マルグリッドが上から小さな頭を掴む。

「私たちを守るんじゃありませんでしたこと?」  

 その手の真上でパアンと小さな破裂音がして、思わず鼻先を押さえた尼僧の足下から、バールは逃げ出した。遠ざかっていく背中を眺めながら、マルグリッドは訝る。

「いったい、あの子は……」

「うむ……魔法を使える人間は珍しくない。お前も、かの勇者ランバールも……」

「私は神に祈るだけです」

 そんな魔王と尼僧を尻目に、サンディは慌てて駆け出した。

「何やってんだ、子供放り出す気か、こんな山ン中で!」

 ため息ひとつ吐いて、メルスも後を追った。

「ボクも……サンディだけじゃ心配だし」 

 二人きりになったところで、マルグリッドは何かに思い当たったようだった。

「まさか……甥御もあなたを?」

 尼僧のまなざしを、魔王はまっすぐに受け止めて答えた。

「恐ろしければ帰ってもよいぞ」

「バカにしないでください」

 ついとそっぽを向くと、銀髪が揺れる。その向こうから、感情を抑えた声が聞こえた。

「わかりました……なぜあなたを神が倒そうとしないのか」

「お前にはワシが分からん」

 とぼける魔王に、マルグリッドは食ってかかった。

「分かります! 私の父も、先の魔族との戦いに挑んで敗れたのですから」

 つまり、魔王が処女狩りをしていたとされる頃のことである。そこで双方、言葉に窮したのか、しばし沈黙に捕らわれた。その間に気持ちが落ち着いたのか、尼僧は戦神の意志を魔王に告げた。

「復讐の時が来るまで、私は神に命を預けられています……たぶん、あなたも」

「お前たちの力がなければ勝つ自信もないのだぞ」

 自嘲気味の答えだったが、戦神の尼僧はそれを許さなかった。

「勝たせて差し上げます。そして、そのときは……」

 マルグリッドと見つめ合いながら、魔王ヴィルハーレンは、答えにならない言葉を口にした。

「復讐を果たさなければ魔王の資格は失われる……今のワシは、もうアストラル幽体になれんのだ」

「アストラル……神の前にも立てるという、人のはるか高い次元の姿ですね」

 普段はなじみのない言葉の意味を確かめたマルグリッドは、大きく目を見開いた。

「まさか、神に背くというのは」

 そこでサンディとメルスが、愚図るバールを引きずって戻ってきた。

「何か深刻なことでも?」

 メルスに顔を覗き込まれて、マルグリッドは歩を速めた。それを背後から眺めるサンディは、何を誤解したのか、ぼそっと吐き捨てた。

「オヤジさんみたいのが好きってか?」

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