第5話 坊やが魔王を見ている
渓谷から高地へと続く細道は、大昔の誰かが岩場を削って作ったもののようだった。道なのかタダの窪みなのかよく分からないところを魔王の言うなりにたどりながら歩いているうちに、メルスが足を滑らせた。
「剣技は足捌きがものをいうのにボクは……」
そう言って拗ねるのをサンディが助け起こそうとしたが、その手を取ろうとしたメルスが怯えてすくみ上がった。
「はァ?」
サンディが凄むと、メルスは慌てて目をそらす。悪いとは思っているらしい。
要は、上流階級に育ったものにありがちな習慣である。いつもは誰にたいしても朗らかに礼儀正しく接しているのが、ちょっとしたトラブルでそれができなくなると、つい人を見下す地金が出てしまう。
2人は何事もなかったかのように歩き出したが、一行の中には妙に険悪な雰囲気が漂い始めた。
「メルスさん、ここはあなたが頭を下げるべきです」
見かねたマルグリッドが囁いたが、背が低くて気位の高い少女剣士は、文字通り上から目線の忠告を完全に無視した。この場を治めるためには自然、サンディの妥協を求めざるを得なくなる。
「サンディさん、メルスはまだ子供ですので……」
「ボクはもう15だよ! 成人してるんだ!」
振り向きもしないで鋭い声が飛んでくる。子供の頃から働きづめの庶民は成人年齢など気にしないままに大人になるが、教育期間のある上流階級では、その節目が必要になるのである。それを見誤ったのは尼僧としての落度であった。
「そういうことらしいぜ」
サンディはさっさと魔王のもとに寄り添う。マルグリッドも魔王の傍らを歩いた。別に張り合ったわけではない。耳打ちしなくてはならなくなったからである。
「ヴィルハーレン、あなたの一行の統率を誤ったのはお詫びします。ここはどうか2人の間を……」
なりゆきに全てを委ねてきた魔王は無責任にも、尼僧と女戦士の間から一瞬でいなくなった。いつの間にか、はるか後方を歩いている。女同士の喧嘩などに関わり合いたくなかったのであろう。
残ったのは、尼僧を横から睨みつけているサンディの視線である。進むのも退くのもならず、マルグリッドは女戦士と並んで歩かないわけにはいかなくなった。
そんなときである。どこからか、小石が飛んできた。
サンディが片手で払ったのがマルグリッドの鼻先をかすめたのだが、戦神に仕える尼僧は怒りもしなかった。まず、すぐ目の前にそびえる険しい山脈に目を遣る。
「落石?」
そんなはずはなかった。いくら近づいているとしても、石が落ちてくるには遠すぎる。
だが、気にしないで置くわけにもいかなくなった。時間を空けてはいたが、小石は明らかな石礫となって、四方八方から飛んでくるようになったのである。
さすがに女戦士も異変に気が付いたらしい。
「誰かが狙ってる?」
やがて石礫は、正面から流星の如く浴びせられるようになっていた。女たちは後ろにいる魔王をかばって、武器で小石を弾き続ける。それでも、飛んでくる数が多くて防ぎきれない。
「ヴィルハーレン!」
「ヴィル!」
「魔王ヴィルハーレン!」
女3人がそれぞれ叫んで振り向くと、そこには誰の姿もなかった。その一方で、石礫も止んでいる。辺りを見渡すと、灰色の髪をした魔王はいつの間にか、女たちの前にいた。
しかし、ここで女たちの目を引いたのは、意識の隙間を突いた瞬間移動ではない。
「すげえ……」
「ボク……こんなの見たことない」
サンディとメルスにため息を吐かせたのは、絶え間なく飛んでくる石礫を全て見切る、その技である。しかも、剣も抜かずに掌の返しひとつで一つ残らず弾道を変え、地面へと転がしていたのだ。
ただ、マルグリッドだけは別のものを見ていた。
「誰かいる!」
石礫が止むと、足場の悪い道を真っ先に駆け出す。
「遅れるな、お嬢ちゃん!」
「急いでよ、斧と鎧がジャマだろうけど」
女戦士と少女剣士が先を争って後に続いた。老いた魔王が、その後をゆったりと追っていく。
だが、どれだけ探しても、石礫の主はどこにもいなかった。
声ばかりが、岩場に硬く響き渡る。
「この道は、オイラひとりの道だ。通るならジジイ、その女を置いていけ!」
魔王が首をかしげた。
「山賊の類か……? いや、そのような連中がいた覚えはないが」
魔界を出る時はこの道を通ったのだから、知らないはずがない。山賊にしても、声は幼すぎる。
いずれにせよ、どこから話しているかは分からなかった。
「木霊……いえ、精霊ではなくて、音の跳ね返りを利用しています……相当、場数を踏んでいますね」
戦神の尼僧が、その謎を解いてみせた。おもむろに魔王が告げる。
「お前たちの経験を信じよう」
早い話が丸投げである。良家に生まれ育ったメルスはそれを真に受け、謙虚に年長者の教えを請うた。
「どうしたらいいの? ボク、これじゃ戦いようがない」
すぐにマルグリッドは口を開いたが、身分社会の最下層で修羅場をくぐってきた女戦士サンディが答えを横取りした。
「まあ、見てろ」
プレートメールの胸を反らして、岩場中に大声を響かせる。
「威勢のいいマセガキだな! 母ちゃんのオッパイが恋しいならここにあるぜ!」
真っ赤になってうなだれるメルスの頭を、マルグリッドがなだめるように撫でた。判断を任せた魔王はというと、自らが召されることはない天を仰いでいる。
結局、挑発したサンディひとりがその声の主と向き合うことになった。
「オイラはガキじゃねえや!」
そこに現れたのは、やはり子供だった。年は10歳くらいだろうか。山賊にしては幼すぎる。これには一同、言葉も出なかったが、いちばん困り果てたのはサンディだった。
「オレ……戦えないよ、こんなのが相手じゃ」
いきなり弱音を吐いた女戦士を、魔王は突き放した。
「いや、油断は禁物だ」
「ヴィル……」
こんな冷たさは予想していなかったのか、サンディは唇をかみしめて顔を背けた。その背後から、メルスが叫ぶ。
「いや、来るぞ!」
「ダメだ! 相手は子供だ!」
斧の柄を杖にして立ち上がろうとするサンディの眼の前を、マルグリッドが横から錫杖で遮る。
「戦いたくないなら、せめて何もしないでいてください」
すでに少年は、メルスの剣が届くところまで迫っていた。サンディが叫ぶ。
「斬るな!」
だが、少年の繰り出す短剣を、それより少し背の高いだけの少女剣士は抜き打ちの刃で受け止めていた。
流された短剣は凄まじい速さで、あらゆる方向から変幻自在に繰り出される。メルスはそれを全て受け流し、絶対に間合いを詰めさせることはなかった。
「ごらんなさい……あの子はああやって、攻められない戦いを凌いでいます」
戦神の尼僧は、戦意を失った斧使いの女をたしなめる。
「分かりませんか? あれは、普通の子供ではありません」
しばしの間、身体を震わせて考え込んでいたサンディは斧を掴んで立ち上がった。
「下がれ嬢ちゃん! オレの邪魔すんなケガするぞ!」
「ご心配なく!」
メルスが一歩前へ出ただけで、子供は何歩も退いた。剣が一閃する度に相手の胸元へと飛び込んでは、次の一撃を待たずに飛び退る。
魔王がつぶやいた。
「手強いな」
それがメルスのことか少年のことかは、はっきりしない。勝負はほぼ互角だった。
だが、この均衡が破れる時がきた。
「ボクがもらった!」
メルスの剣が弾き飛ばした短剣が、岩場で澄んだ音を立てた。敗れた子供を魔王が評する。
「技はともかく力が持つまい……あの身体では」
これで勝負はついたかに見えたが、それは目くらましに過ぎなかった。
「いやああああ!」
メルスの悲鳴が上がる。短剣の行方に誰もが気を取られている隙に、子供の姿は消えていた。サンディが戦いの跡へと駆け寄る。
「どこだ、あの子は!」
「ここ……ここ!」
返事は早かった。メルスらしくないうろたえっぷりにサンディの眼がそちらへ向く。
男の子がすがりつく、薄い胸元へと。
「お姉ちゃん……あったかい」
その変わり身の早さにはその場の一同、言葉もなかったが、ただメルスだけは別の意味で無言だった。
溜め込んだ怒りが、一瞬にして男の子の脳天に炸裂する。
「いい加減にしてよ!」
拳の一撃で、火の付いたような泣き声が響き渡った。
「ちょっと……坊や」
次に男の子がすがったのは、サンディである。屈みこんだのをいいことに、そのプレートメールの胸元で泣きじゃくる。
「ええと……どうしよう」
魔王を含めて誰もが知らん顔をしている中、慰める言葉も思い浮かばないのか、ひたすら抱きかかえるしかない。
それでもやがて機嫌を直したのか、男の子は泣きやんだ。
しばらく経ってから。
「お姉ちゃんたちは、オイラが守るんだい!」
岩場で車座に腰を下ろした一同を前に、バールと名乗る男の子は、サンディにしがみついたままゴネたものである。その眼はキッと魔王を見据えている。
魔王ヴィルハーレンはその視線をまっすぐに受け止めて、何か考えているようである。
メルスはぷいとそっぽを向き、マルグリッドは魔王と共にじっと事の行方を見守っている。
その結果、ごく自然な流れとして、いちばんガサツなサンディが、なだめ役に回る羽目になった。
「いや、それは誤解……」
目を吊り上げたメルスが口を挟んだ。
「いや、分かってやってるんだよ、こいつ!」
バールがまた抱き着いてくるのをよしよしと慰めて、サンディは代わりに弁解した。
「まあ、子供なんだからさ……まさかそんなこと」
それが甘かった。
「隙あり!」
サンディの腕の中から跳び上がったバールは、くるりと宙返りを打つと、座った魔王の眼前に舞い降りた。蹴り上げた爪先が、その眉間を正確に狙う。
魔王は紙一重の差でかわしたが、子供とは思えない回し蹴りと裏拳の連打が浴びせられた。だが、その場からピクリとも動かない相手に、バールは一撃も加えることはできない。細い脚も小さな拳も、頭や身体をすり抜けるばかりである。
「この野郎……!」
喚く子供の身体が、じたばたと宙に浮いた。マルグリッドが襟首を掴み上げたのである。しっとりと落ち着いた大人の女の声が、厳しく命じた。
「おうちへ帰りなさい」
「嫌だい!」
言うか言わないうちに、何かが弾けるような音が高らかに鳴り響いた。サンディがぽかんと口を開けて見つめている先から、メルスは目を背けている。魔王はといえば、マルグリッドの手元を怪訝そうに見ている。
そこには、剥き出しにされたバールの尻があった。
「やめろお前、そんな子供に!」
サンディがハッとして止めたが、戦神の尼僧はバールを下ろそうともしない。
「聞き分けは、子供のうちに教えるものです」
女2人が睨み合う中、バールは火が付いたように泣き出した。
「魔王を倒して、オイラも勇者になるんだ!」
マルグリッドは、バールを岩場に下ろした。勇者になるつもりの子供を、これ以上罰することもできないのだろう。
バールはというと、真っ直ぐメルスの胸元に走って行くなり、そこにすがりついて泣きじゃくった。
女3人が、困ったように無言で魔王を見つめる。事情を知らない子供の前では、さすがにその名を口にするわけにもいかない。
バールが命を狙う魔王ヴィルハーレン本人も、しばし考えているようだったが、やがておもむろに口を開いた。
「その魔王は、勇者ランバールを倒して城に帰る途中だ。今はまだ、そこにはいない」
まどろっこしい物言いだったが、嘘はついていなかった。これが「魔界の蛇」と呼ばれた魔王の矜持なのであろう。
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