第4話 女たちが魔王を見ている

 魔界のある山岳地帯を目の前にした最後の川は、深い谷底にある渓流だった。ここに架かる橋を渡れば、山脈に至る高地に入る。

「先に行け」

 魔王はこれまでに打ち負かして付き従えた、3人の女勇者を促した。

「では」

 言われるままに足を踏み出したのは、戦神の尼僧マルグリッドである。魔族と敵対する立場ではあるが、一度ついていくと決めたからにはそれを守るのが、彼女の仕える戦神への信仰であった。

「待て」

 それを止めたのは、斧をかついだ戦士サンディであった。

「オレたちはヴィルについてきたんだ。後に続こうぜ」

 バリアという身分で差別を受けてきたのが長いせいか、こういう上下関係には妙に細かい。そのくせ、いわゆる下剋上へのこだわりも強い。魔王ヴィルハーレンが魔界へ戻り、居城を甥から取り返した暁には、妻として収まるつもりでいた。魔王には城に囚われている10代半ばの孫娘がいるのだが、それが自分にとっての何になるのかはあまり気にしていないようである。

「それも待ってくれないかな」

 小柄な少女剣士メルスが止めたのは、サンディの上昇志向ではない。そのきれいな指で遠く示しているのは、渓流に掛かった古い吊り橋である。

「ボクが行く。長いこと使われてないみたいだし、もしかしたら壊れかかってるかもしれない」

「でも、ヴィルはここを渡ってこっちに来たんだぜ」

 最初の橋を渡るときから、この2人はずっとこんな状態である。メルスが上流階級の出身で、神速の剣も高名な師匠について学んだものだと聞いてから、サンディは何かというと突っかかるようになっていた。メルスはメルスで、サンディの出自を知ってから、距離を置いている。  

 そのせいか、何か言い返すのでも、言葉には気を遣っているようだった。

「魔王ヴィルハーレンは、歩くときでも足音を立てない。たぶん、身体の重さが足に掛かっていないんだ。だから、こんな橋でも渡れるんだろう」

 その心は、サンディのプレートメールが危ないということだ。それを察したのは、マルグリッドだった。

「脱ぎなさい、サンディ。私とメルスで運びます」

「分かったよ」

 女戦士は素直に答えると、さっさと鎧の留め金を外した。魔王がそれとなく目をそらしたのは、下着一枚になった妙齢の女性への気遣いであろう。もっとも、プレートメイルの下に着るものであるから、それほど素肌の露出はない。

 それでもサンディは悪戯っぽく笑うと、メルスに続いてマルグリッドが吊り橋を渡るのを見送るなり、裸足で魔王に歩み寄った。

「何の……つもりだ?」

 声にはいつもの落ち着きがない。いざ戦闘となれば一瞬で相手の視界から消えるほどのかわし身ができるのに、こうなると身動きもとれない。サンディはそれをいいことに、ヴィルハーレンの首に腕を絡みつけてきた。

「ねえ……オレのこういうカッコ、初めてだろ」

「う……む、そうだな」

 顎を上げて目を白黒させる様子は、かつてベルクレースイの人間を恐怖で支配した魔王のものではない。若い娘に迫られてうろたえるそこいらの不器用なオッサンである。

「これが終わってお前の嫁さんになったら、もっと……」

 耳元に唇を寄せられて、魔王ヴィルハーレンは一本の棒になった。勇者でなくても討ち取れるだろうが、生憎とサンディはさっき鎧を脱ぎ捨てたときに、グレートアックスも放り出してしまっている。

「なあヴィル、ここでせめて……」

 灰色の髪をなでたサンディの指が、はるかに年上の男の顎を撫でて自分の唇に引き寄せる。

 だが、女戦士がなりゆき任せに魔王と口づけを交わすことはなかった。

「サンディイイイイイイイイイイ!」

 渓谷いっぱいに響き渡ったのは、鎧の胴体を抱えたまま吊り橋の上で仁王立ちしている尼僧マルグリッドの声だった。戦神に仕えると、こんな怒涛の大喝破さえも思いのままにできるらしい。

 さすがにサンディも気分をぶち壊されたのか、魔王の身体に絡みつくのをやめてため息をひとつ吐いた。ヴィルハーレンも、気まずそうに目をそらすと咳払い一つして、最初と同じことを言った。

「先に行け」

「ふぁーい」

 ようやくグレートアックスを片手に持ったサンディが吊り橋を渡り切るのを見届けた後で、魔王ヴィルハーレンも続いた。かつて逆向きに渡った橋でもあるし、マルグリッドの察したとおり、体重もかけないですむ。ただ、足場がないと身体を乗せることができないというだけのことだ。

 だが、その真ん中あたりで、思わぬ事故が起こった。

 空を切って飛んできた何かが、吊り橋のロープをかすめたのである。

「魔王ヴィルハーレン、今、何か……」

 真っ先に気付いたメルスが、橋の向こうから大声で呼びかけた。呼ばれた魔王もそれに応じる。

「何か、刃物のようなものだ。そうでなければ、大型の矢か……」

 言っている間に、橋が大きく揺れた。少年のような声が危険を告げる。

「ロープだよ! 橋を吊ってるロープがどこかで切れたんだ!」

「む……」

 魔王の身体も、大きく揺れた。いかに体重がかかっていないとはいえ、バランスを崩した吊り橋に乗っていることに違いはない。いかに魔王とは言っても空を飛べるわけではないので、一つ間違えば谷底へ転落する。

 橋の向こうでは、サンディとマルグリッドが口論を始めた。

「オレ、行ってくる!」

「やめなさい、遭難者が2人になるだけです」

 熱くなっているのを冷ややかに非難されたサンディは、ムキになって食ってかかる。

「お前が橋のど真ん中に立ち止まったからこんなことになってんじゃないのか!」

「言いがかりはやめてください、元はといえばあなたが……!

 女たちがそんなことをやっている一方で、魔王は一歩、また一歩と確実に歩を進めている。それを心配そうに見守っているのは、少女剣士のメルスだけであった。

「そうです、そう、あと少し……」

 だが、何十年、下手をすると百年以上も橋を吊っていたかもしれないロープは、その1本でも切れると残らず用を成さなくなるようであった。渓谷を渡り切ろうとする魔王の眼の前で、大きく傾いた吊り橋は全ての支えを失って崩壊した。

「ヴィル!」

「ヴィルハーレン!」

「魔王ヴィルハーレン!」

 女3人が三様の名前で呼びかけるなか、魔王は谷底深く転落していった。

「いやああああ!」

 金切り声を上げて泣き出したのは、妻を自称していたサンディではなかった。剣の弟子となっていたメルスでもない。

「マルグリッドさん?」

「マリー?」

 女2人が気づいたのは、その使命とは真逆の相手に付き従っていた、戦神の尼僧マルグリッドであった。今にも崖から飛び降りようとしているのを、サンディが必死で抱き留めた。

「やめろマリー!」

「放しなさいサンディ、ヴィルハーレンが!」

「さっきオレ止めたのお前だろ!」

 そんな理屈が通じる相手ではなくなっていた。いかなる体術を使ったものか、尼僧は一回り若いサンディの逞しい腕から、するりと抜け出していた。

「メルス! 止めろ!」

 サンディの叫びに、少女剣士は応じようとはしなかった。崖の下をじっと眺めているだけである。女戦士は焦りで喚き散らした。

「何やってる、メルス!」

「あ、見えました!」

 やはりサンディの言うことなど聞いてはいなかった。その見つめる先には崖を、蛇というよりはトカゲのように這い上ってくる小さな影がある。サンディの目も、その姿を追っていた。

「ヴィル……おい、見ろマリー!」

 崖っぷちにしがみついたマルグリッドは、いつにない歓喜の声を上げた。

「ヴィルハーレン!」

 魔王は空を飛んで逃げることこそできなかったが、落下の瞬間に自らの体重を空気に等しいものに変えたのである。崖の表面に取りつけば、手足の力だけでの登攀など何でもないことだったろう。

 それにしても、うまく風に乗れたものだが……。

 這い上がってみれば、その姿は何事もなかったかのようである。真っ先にマルグリッドがすがりつき、続いてサンディが抱きつき、最後にメルスが戸惑いながらその広い背中に額を寄せた。

 魔王ヴィルハーレンは、くぐもった声でつぶやく。

「ワシの瞼には、亡き妻の面影が……」

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