第2話 戦士が魔王を見ている
「お前、魔族か?」
魔界のある険しい山々を望む急流を背にして、赤い短髪の女戦士がグレートアックスを手に立ちはだかった。
山岳地帯とはいえ、その間から流れ出す幾筋もの谷川は、やがて冷たいひとつの川となる。渡るのは並大抵のことではなく、それが人間をして魔族に戦いを挑むことを諦めさせていた。
「……他に道はなかったか?」
コートのフードの奥からぼそぼそと、傍らに立つ紺の衣の女に尋ねる声がする。女は冷ややかに答えた。
「あなたは来た道を帰るのでしょう? 私はついていくだけです」
「いや、それも成り行き任せなのだ、実は」
その結果、たどりついたのがこの渡るに渡れぬ激流である。
大軍でも出せばどうにかなるのだろうが、あいにくとベルクレースイに統一国家はない。牧畜生活を中心とした民族が暮らす地で、いくつもの小国や民族が混在しているだけだった。正面切って兵を挙げられるだけの国力はない。
だから魔界を目指す者は、人の世界を侵すものを倒そうとする正義や、あるいは異界にのみ眠る貴重な宝物を手にしようとする欲望から、わずかの人数で行動を起こすばかりだったのである。
「ごまかそうか?」
「無理でしょう」
男の問いを、女は切って捨てる。
この女戦士も、魔界への旅人であろう。年は20歳そこそこ、プレートメイルをまとってはいるが、どこにも馬はいない。これであちこち歩きまわっているとすれば、身体は相当に鍛えぬかれているはずだ。
戦神の尼僧マルグリッドが、頭巾の向こうから魔王に囁いた。
「もう、空気で察しています……答えるまでもないでしょう」
同じくコートのフードで顔を隠したヴィルハーレンは、寄り添う女の身体からそっと離れる。だが、別に生理的な嫌悪からというわけではなさそうである。どちらかといえば、女とのけじめに堅い男の仕草であった。
「気遣い無用。お前はワシの従者ではない」
声の抑揚は不機嫌に聞こえるまでに低かったが、尼僧の声も同じくらい愛想がなかった。これも別段、魔王への敵意からではない。身体を引いた意図を察したのか、居住まいを正してみせる。
「あなたのためではありません。私は闘う者に付き従うのみです。戦の神が見ていらっしゃる限りは」
魔王は、フードの奥に冷たく光る眼で、女戦士を眺めた。
「だが、向こうは、魂でも売ったかと思っていよう」
その囁きは聞こえるはずもない。それでもしびれを切らしたのだろう、苛立ちの込められた声が、挑発的に呼ばわった。
「来いや……まとめてオレの手柄にしてやらあ!」
その表情はムッと歪められてはいるが、顔だちには健康的な美しさがある。髪を刈り上られげたうなじに見える初々しさは、少し年かさのマルグリッドとしては面白くなかろう。それが証拠に、とりあえず女戦士は無視された。
「どう思われようと構いません。もしあなたが倒されれば、彼女についていくまでです」
わざわざそう答えておいてから、尼僧はおもむろに尋ねる。
「ということは……あなたは、勇者?」
そこには、いささか期待の響きがあった。この女戦士が魔王を倒そうと立ち上がった勇者なら、戦神の尼僧は勝ち負けに関係なく、無条件で助けなくてはならない。よく晴れた秋の空を見上げると、その唇は声にならない祈りの言葉を形作る。
……戦の神よ、ご照覧あれ。
女戦士の声が、その祈りに応えた。
「ランバールの仇、討たせてもらう」
勇者ランバール。
17年前、魔王の処女狩りを止めようとして旅立ち、帰ることのなかった若者であった。その復讐を遂げようというのであれば、ほぼ間違いなく勇者の遺志を継ぐ者と見て間違いはあるまい。
「……ということらしいが?」
ヴィルハーレンは、いささか諦め気味に尋ねる。味方を得た戦神の尼僧が、勇者の側についても不思議はない。
だが、尼僧はすぐ傍らの前魔王に対して錫杖を振るうことはなかった。
「……かたじけない」
魔王が率直に感謝したのはそれなりに礼儀正しいことではあった。戦の神は相手の弱点を突くことを禁じてはいない。それは兵法に適ってもいる。
それでも尼僧をためらわせたものがあるとすれば、それはおそらく、女戦士の態度の不遜さであろう。
物怖じしない度胸があるといえばそれまでだが、何が何でも魔王を討とうという気概がどことなく欠けている。むしろ、「魔族ならだれでもいい。やってりゃ魔王にたどり着けるだろ」という軽さがあった。
だが、魔王はそんな挑戦でも真っ向から受けてみせる。
「そのランバールに、我が息子は15年前に跡形もなく消滅させられたのだ」
フードの奥の声に、怒りはない。それどころか、まるで好敵手との一騎打ちに臨もうとしているかのような高揚感さえある。それは女戦士にも伝わったらしい。
「お前の倅が弱かっただけだろ!」
いささか調子づいた、その一言が命取りになろうとは。
魔王は、それまでの穏やかさとはうって変わった響きの低い声で応じる。
「聞き捨てならんな」
「なら、その仇を討ってみよ。10年も前の話だがな」
言うが早いか、両手持ちの斧が振り下ろされる。相変わらず威勢だけはいいが、声そのものは恐怖からか甲高く裏返っていた。それだけでも、勝負はついていたといえよう。
それが過言ではない証拠に、高々と舞い上がった斧が柄を頭に刃で地面に尻餅をついたときには、同じ姿勢をした女戦士の前で魔王は身動きひとつしてはいなかった。
「なりゆきとはいえ、決着がついた以上、ただで置くわけにはいかんな」
魔王は足元の敗者を見下ろして、冷ややかに言い放つ。
己の敗北がにわかには信じられないのか、しばし呆然としていた女戦士は、ようやく相手の素性を尋ねる余裕を取り戻したようだった。
「強い……何者だ?」
「前魔王、ヴィルハーレン」
「何……!」
跳ね上げたフードの下から現れたのは、老いてもなお品格のある顔だった。それをみた女戦士は息を呑んだが、その眼差しはうっとりしているようでもあった。
「これが……魔界の蛇?」
そこで抑揚のない声で語りかけたのは、頭巾を脱いだ銀髪のマルグリッドである。
「ついてきなさい……戦の神はあなたを求めています」
ヴィルハーレンを見つめる女戦士の邪魔をしたわけではない。尼僧の目は、澄み渡った秋の空を見つめている。おそらくは、仕える神が応えてくれるかどうか確かめたかったのであろう。
だが、女戦士の返事は不機嫌そうであった。
「いったい、何を?」
「これより魔界へと参ります」
尼僧の見据える眼差しと、女戦士の険しい眼がぶつかった。それをなだめるかのように、魔王は穏やかに告げる。
「無理強いはしない。いつでも裏切ってよい」
はっとして振り向いたのは、マルグリッドのほうであった。女戦士はというと、すっかり開き直ったのか、その場から立ち上がろうともせずに、短く刈った赤毛の頭をぼりぼり掻いた。
「アタシは別に……玉の輿に乗れりゃ、神でも魔王でも」
その一言には、魔王も尼僧も絶句した。互いに顔を見合わせたのち、ためらいがちに口を開いたのは魔王のほうであった。
「それはつまり……?」
「オレをお嫁さんに貰ってくれるか?」
すかさず身を乗り出す女戦士に、さすがの魔王ヴィルハーレンもたじろいだ。
「何……?」
「正直、死んだ勇者に義理があるわけじゃない。バリアって知ってるか?」
赤毛の娘は、のけぞり気味に地面へ手を突くと、立て板に水を流すように出自を語り始める。人間の世界に疎い魔王の代わりに言葉を継いだのは、尼僧マルグリッドであった。
「奴隷よりも身分の低い、人として扱われることさえない者たち……」
「それがオレさ」
なりゆきで押し掛け女房となった女戦士は不敵に笑う。魔王は苦笑しながらたしなめた。
「魔族と交われば、人でさえなくなるのだぞ」
マルグリッドが顔を赤らめたのは、「交わり」の意味を深読みしたからであろう。もっとも、当の魔王はおろか女戦士も、それを気にした様子はない。
「構わないさ……お前のお嫁さんになったらさ、ドレス、着せてくれるか?」
かえって嬉々として尋ねられた魔王は、言葉に窮した。
「いや、それは……」
「そりゃ、こんな鎧とか斧とか振り回してりゃ、こういう身体になるけど……」
相手の言葉を聞きもせずにしゃべり続ける女戦士は、上半身の鎧を器用に外してみせた。そこから覗いたのは、豊かな胸と筋肉に突き上げられた下着である。
「いや、ワシの瞼にも亡くした妻の面影が……」
うろたえる魔王の都合など、女戦士の知ったことではないらしい。するすると下着を擦り寄せていく。
「やめなさい!」
真っ赤になったまま叱りつける尼僧など知らぬ顔で、女戦士は自ら名乗った。
「あ、オレ、サンディ。よろしくな!」
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