あなまどい隠居魔王の勇者ハーレム逆襲パーティ!

兵藤晴佳

第1話 尼僧が魔王を見ている

 冬になっても眠りにつくことのない蛇を、「穴惑あなまどい」という。

 それが人の形をとったら、こんな姿になることだろう。

 急峻な山脈を駆け抜けてきた冷たい風が、その麓の地、ベルクレースイの荒野に吹き荒れる。その真ん中で、低い夕陽を背に受けた黒い影が佇んでいた。

 対峙するのは、戦の神に仕えることを示す紺色の頭巾を目深にかぶり、裾の長いコートをまとった尼僧である。

「神の名に懸けて、あなたを!」

 構えた杖の先には、戦の神の使いとされる鷹の紋章が翼を広げている。長い錫杖を突きつけられた長身の影は、身じろぎひとつすることがない。ただ、それをじっと見つめているばかリである。

「ここを通してはくれまいか。女に用はないのだ」

 尼僧は動かない。裂帛の気合と共に必殺の一撃を見舞うかと見えた姿勢のまま、立ち尽くしている。しばしの沈黙があって、影はようやく口を開いたようだった。

「よかろう。やってみせるがいい」

 しかし。

「どうして……?」

 本来なら、傷を受けることはなくとも、その場に突き伏せられて立つこともできなくなるはずである。ところが、その人影は倒れるどころか、錫杖に喉を貫かれたまま、悠々と尼僧の前に立っていた。

 いや、立っているように見える、というのが正しいか。尼僧の眼の前からその姿は夕暮れの光に溶けて消え去り、残されたのは、ただ声ばかりだった。

「よい腕をしているな」

 その声音は、心の底からの賞賛にも聞こえるほどに優しい。尼僧はその声の主のありかを探そうとしてか、頭巾をはねのけて振り返った。

 銀色の髪が、振り乱されてこぼれる。その間に見え隠れする肌には、寺院で寝起きするにはもったいない艶がある。年のころは、30歳そこそこであろうか。

「黙りなさい!」

 その切れ長の眼が、背後の影をとらえたようだった。振り向きざまに放った横薙ぎの錫杖が一閃すると、巻き起こる旋風が砂塵を巻き上げる。先ほどの一撃に勝るとも劣らぬ勢いだったが、もちろん、当たりもしない。影はその場に、音もなく立っているばかりだった。

 声だけが、静かに語りかける。

「修道女か?」

 返事の代わりに、尼僧は錫杖を両手でぐるぐると振り回すや、右へ、次は左へと振り下ろす。影は軽やかに、というよりも、最初からそこにはいなかったかのように、続けざまの攻撃を難なくかわした。

「だが、その速さ、その力、戦の神に仕えさせるには惜しい……どちらも、ワシに貸さぬか?」

 いささかとぼけた物言いではあるが、必死の形相で錫杖を振るう尼僧など、歯牙にもかけていないことがよく分かる。

「かかった!」

 穏やかな誘いの声を、歓喜の叫びが遮った。感極まった様子で、尼僧が錫杖を高々と掲げて祈る。

「戦神よ、わが武器の描きたる軌跡の中に、真実を現したまえ!」

 尼僧を中心に、長い杖のリーチを半径とした光の輪が形作られた。見れば、その円の中には、錫杖が描いた軌跡のとおりに模様が浮かんでいる。僧侶たちが戦神の奇跡を招くときに描く、聖陣オーリイ・オールと呼ばれるものだ。円陣の中から天へ向かってあふれ出す清らかな光が、尼僧と人影を包み込む。

 だが、それはほんの一瞬だった。夕陽が稜線の彼方へと消えかかるときに見せる最後の輝きの中で、優しい声の人影は何事もなかったのように、やはり尼僧の前にいた。

「なぜ……どうして神は答えてくれないの?」

 その場に膝で崩れ落ちても、尼僧は錫杖を手放さない。夕暮れの光はすでになく、辺りを薄闇が包んでいる。

 だが、それがかえって人影の姿をを明らかにしていた。

「神に仕えるお前に分からんことが、神に背くワシに分かるわけがあるまい」

 年よりじみた物言いの割に、声にはまだ張りがある。その見たところでは、もう老境を迎えようかという灰色の髪をした男だった。その姿がぼんやりと宙に浮いて見えるのは、別段、幽霊の類だからというわけではない。身体自体が、淡い光を放っているのだ。

 それに気付いたのか、尼僧は茫然と伏せていた目を男に向かって見開いた。

「お前は……」

 続く言葉はない。もともとないのか、それとも口にできないのか。いずれにせよ、尼僧も分かっているようであった。

 相手が、少なくとも人間ではないということは。

 そんな沈黙の意味を察したのか、男のほうが先に口を開いて名乗った。

「魔王ヴィルハーレン」

 尼僧の端整な顔が、恐怖に引きつる。その名が予想通りであったかどうかはともかく、嘘やハッタリでない限り、女ひとりでどうこうできる相手ではない。なにしろ、この険しい山岳地帯の麓に広がるベルクレースイと呼ばれる地を、結界の彼方の魔界から恐怖で支配してきたのが、この名の持ち主だからだ。

 ただし、それはもう10年も前に終わっている。魔王の座は息子に引き継がれ、その若き後継者も数年前、ひとりの勇者に討たれている。

 それではなぜ、この男が魔王を名乗り、尼僧もその名に震えあがって声も出ないのか。

「息子の仇を討って、わが城に戻るところよ」

 古くから伝えられるところによれば、魔王の一族には玉座を巡るひとつの掟があるという。親や子、兄弟姉妹を殺された者は、復讐を果たさない限り王位につくことはできなくなるのだ。

 尼僧がようやく、かすれた声で尋ねた。

「では……かの勇者は?」

 ベルクレースイのあちこちで若い娘を魔王の一族がさらっていくという噂が立ったことがある。魔王を討つと宣言したひとりの勇者が旅に出たが、帰っては来なかった。

 それについて、魔王は事もなげに答えて歩きだした。

「ワシが消した……人前からな」

 尼僧は肩を震わせながら唇を噛みしめる。

「よくもぬけぬけと……」

 だが、杖を支えに立ち上がり、反撃に移る気配はない。むしろ、魔王のほうが尼僧を気遣うぐらいである。

「来んのか? 戦神の尼僧であれば、勇者の仇は取らねばなるまい?」

 尼僧はその問いに答えなかった。

「分からない……どうして神は答えてくれないの?」

 返ってくる見込みのない答えを代わって与えたのは、その真逆の立場にある魔王だった。

「祈っているだけでは分かるまい。お前の探しているものは、求めんとするところにこそあるのだ」

 うずくまったまますすり泣く尼僧を後に、燐光をまとった魔王は闇の中を音もなく歩き出す。向かう先は、結界の張られた魔界があるとされる険しい山々だ。もっとも、月も出ていないのでは見ることもできはしないが。

 その暗闇の向こうに尼僧の姿が消えたとき、魔王はつぶやいた。

「いま一度問う。その力、ワシに貸さぬか?」 

 再び、しばしの沈黙があってから尼僧の声が答えた。

「ついてゆきます……その答えが分かるまで。そのときは……」

「いつでも討つがいい」

 魔王は平然と答える。

「城へ帰るにも独りではな……と今さらながら」

 尼僧は無言で、頭巾をかぶり直した。戦神の印を頂いた錫杖を片手に傍らへ立つ。

 そこでまた、魔王ヴィルハーレンは思い出したように尋ねた。

「そういえば、名は何という?」

「マルグリッド」

 魔王の放つ光を頭巾で避けるようにして、銀髪の尼僧は短く、しかしはっきりと答えた。 

 かつて「魔界の蛇」と恐れられたヴィルハーレンに、気後れする様子もない。

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