第43話 5月の卑怯者
中にまで入ると流石に迷惑かと思い、外のベンチで待つことにした。
10時半から働き始めた場合、上がりは16時くらいになるのだが、その時間を過ぎても紗凪は出てこなかった。
そろそろ日も暮れようかと言う頃、携帯端末で時間を確かめると18時を過ぎていた。
待ち
「
俺は閉じかけていた目を開けて、声の主の方を見る。
遅いよ! と言う言葉が咽喉元まで上がったが、それを口に出すことは無かった。
彼女の顔に
もう辺りは暗い。しかしカラオケ店の入り口の電灯に照らされて、確かに紗凪の顔に青痣を見たのだ。
俺は堪らなくなった。
後悔をしていた。
あの時、紗凪を無理矢理にでも家に連れ帰っていれば、こんな事にはならなかった。
俺の表情があまりにも露骨だったのか、一言も発していないのに、彼女は顔に影を落とした。
「ごめんなさい。心配かけたくなくて」
被害者の謝罪など、あっていいはずもなかった。
「学校来なかったのも、それを隠す為か?」
「……うん。痣が消えてから行こうと思って」
俺は紗凪の前に立ち、手を取った。
「うちに来い」
彼女は首を振る。
「暴力ではないの。ただ、私が何日も家に居なくて、心配していただけだと思うから。手加減もしていると思う。痣は、たまたまできただけだから」
紗凪の頬に触れる。
姿勢を低くしてその頬を見る。
改めて見ると、大きい痣だ。
たまたま、か。
「これがたまたまなら、次にお前はたまたま大けがするかも知れない」
彼女は目を背け、握っていた手を払った。
「前にも言ったけれど、私には幸せになる権利なんてないの」
以前、その領域に踏み入ってしまった事で、彼女の事を傷付けてしまった。
結局、あれ以来ずっと考えていたが、解決策など浮かぶはずもなかった。だから今も、彼女に納得して貰う事は出来ない。
それでもこのまま彼女を置き去りにする事は出来ない。
なら連れ帰る。例えもう一度あの領域に入って、結果嫌われても。殴られても。救えなくとも。
「紗凪は自分の父親だからって甘く見ているかも知れないが、客観的に見たらあいつは自分の娘を簡単に殺すぞ」
彼女は驚いたように肩を引き攣らせて、俺を見た。
これは、本来他人の親に言ってはいけない事だ。だが、他人だから見る事の出来る真実というものもある。
「勿論解れとは言わない。俺だって自分の親がそんな風な言われ方をしたら解せないし、怒る。だからお前の内心も解る。ただ、今のお前は冷静じゃあない。こんな大きな痣が出来る程殴られたら、生命の危機を感じなければいけない。しかしそれを平気だと言っているのは、お前が異常な判断をしているという事で、お前が冷静じゃあないと言う事なんだ。確かにお前は朝薙家を無茶苦茶にしたから、その贖罪をしなければいけないかも知れない。お前がそう思うんだから、俺はもう否定はしない。だからこそ解って欲しい」
俺は彼女の手を再び取った。
「俺を加害者にしないでくれ」
卑怯な事を、言った。
そして、もっと言う。
「お前がこのままあいつの元に帰ったら、多分殺される。それを知りながらにお前を放っておくって事はつまり、
彼女の目尻に浮かんだ光が一滴、夜を照らしながら地面へと落ちた。
「卑怯……者……」
絞り出すような声。
「卑怯者で構わない。親父さんの事を悪く言った俺の事を嫌いになってくれても良い」
俺は彼女を抱き寄せた。
彼女の瞳から溢れる光が、次々に染み込んでいく。
「抜本的な解決策なんかない。俺はお前の罪を消せやしない。だからお前はこれからもずっと辛い思いをして行くかも知れない。でも」
彼女を抱き締める。
細かった。
まるで枝。
人を抱いていると言う感覚ではない。
折れないように、それでも緩めることなく。
「俺はお前が生きている未来を望む」
再びきつく強く、彼女を抱く。
紗凪の心が少しでも温かくなるように。
肩がこれ以上震えないように。
彼女は声を出して泣いた。
冷たい光が俺を濡らしていく。
あまりの冷たさに俺は凍えそうになった。
それでも構わなかった。
寒さで手足の感覚さえなくなれば良いと思った。
その代り。
もっと泣いて、もっと泣いて。
苦しさも、辛さも、罪も、ほんの一瞬だけでいいから彼女の中から出て行ってくれと願った。
この極寒の5月、昏がりから、日向へと向かえるように。
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