第42話 陽織と公園

 教室に着く頃、薄々気付いてはいたが、やはり来ていなかった。

 いつもなら自転車で俺に追いついて来る紗凪さなぎが、追いついて来なかったので。前と同じパターンだ。いや待て。自転車が壊れたから、徒歩で来たのか?

「紗凪って、まだ来てない?」

「来てないよ。この間からずっと来ないなんて、心配だね」

 陽織ひおりさんが肩を落としている。

「一応土日で元気そうなのは確認したんだ」

「そうだったの。良かった」

 ホッと一安心したように笑顔になる。

 が、俺は内心焦燥に駆られていた。

 安否のメールを送る。朝のホームルームが終わるまでに返信が無ければ電話をする。電話に出なければ早退だ。紗凪の家に行かなければ。

比々色ひひいろ君、あの」

「……ん? ああ、なに?」

「あ、えっと、ね。ちょっと放課後、付き合ってくれるかな?」

 今、放課後の事を約束はできない。

「……うん。何もなければ。もしも何かあって付き合えなかったらごめん」

「あ、うん。忙しかったらいいから」

 朝のホームルームが終わり、すぐさま携帯端末を手にする。

 紗凪からメールの返信があった。

 良かった。

『今日は間違えてバイトのシフトを入れてしまっただけだから、気にしないでください』

 だが、あくまでメールで安否の確認が出来たからと言って、安心はできない。そもそもバイトのシフトを間違える事はあっても、店長が昼間から高校生を働かせるか? と言う疑問があるからだ。だがもしも本当に今バイトしているとすると、早退して行っても彼女を待っていなければいけない。どうあれ、開店時間からのシフトなら、夕方には終わるだろう。学校が終わってから行けばいい。

 一日が過ぎるのがこれほど長く感じたのは初めての事かも知れない。

「お昼ご飯、一緒に食べよ」

 陽織さんにそう言われて、

「まだ、昼なのか」

 と言ってしまったくらいだ。

 折角母さんが早起きして作ってくれた弁当も、紗凪の事が心配で、味わう余裕が無い。

「比々色君のお弁当って、いつも美味しそうだよね」

「ありがとう。食べる?」

「ええー、太っちゃう」

「陽織さんのお弁当も美味しそうだよね」

「そう? ありがとう。これ、私が作ってるんだよ」

「そうなんだ。凄いね」

「お父さんのもついでにね」

「そっか。偉いね。それとも、俺が怠け過ぎなのかな」

「そんな事ないよ。皆家族に作ってもらっていると思うよ? 季司花ちゃんが言っていた通り、うちは姉弟問題で両親が別れちゃったから、私が作らなきゃね。お父さん仕事忙しいみたいだし」

「うちも……俺の所為で両親が離婚したんだけど」

「そうだったの」

「それでも俺は家事手伝わないなあ」

「あ、うーん。……うーん」

「ああ、いいよ。無理にフォローしなくて。単純にやっぱり陽織さんが凄いって方向で納得しようとしているから」

「そう?」

 弁当を陽織さんの前に差し出す。

「太るのが怖いなら、交換して食べる?」

 彼女はふわっと笑って頷いた。

 多分、俺の元気が無いのを気にしているのだろう。今日はいつになく陽織さん主導でトークが続いた。

 ただこれは落ち込んで元気が無いわけではない。紗凪に対する心配と焦燥から来るものだ。彼女にこれだけ気を遣わせてしまって心底申し訳ないが、俺の気持ちが明るくなることは最後まで無かった。

 一応、これ以上気を遣わせまいと平気な振りはしてみたが、きっと見破られているんだろうなあ。

 帰りのホームルームが終わった瞬間に、俺は帰りの支度をした。

「比々色君」

 と陽織さんに声を掛けられるまで、完全に朝の約束を忘れていた。

 あれだけ気を遣わせておいて、おざなりにも出来ない。

「い、忙しいかな」

「どれくらい時間かかる?」

「すぐ。でも、ここでは話しづらいから」

 そう言って二人で教室を後にし、校門を抜けて、近くの公園へ行った。

 ここは遊具が少ないので子供も居ない。

 学校から近くに在る場所ではあるものの、駅とは反対側になるので、同校の生徒も居ない。

 開け放たれた狭い公園に二人。

 彼女はゆっくりとした歩幅で前を行き、俺はそれについて行く。

 先日の雨に濡れた地面が、数ミリメートルだけ、二人の身長を低くしている。

 背の高い草花が公園の外周に手入れもされず生い茂り、手に入れた自由を謳歌するように楽しげに揺れていた。

 彼女はジャングルジムの前に立ち、やおら振り返る。

 電線の影が、二人を繋いでいる。

 彼女が言葉を紡ごうと、唇を開く。

 しかし声は出ず、一度だけ唇が震えて、また閉じた。

 両肩が上がるのが解るくらい、彼女は大きく息を吸い、吐いた。

 彼女の揺ぎ無い意志を宿した瞳が向けられる。

 俺は咄嗟に目を逸らしてしまった。なぜか。彼女の強烈な覚悟に対して、呼ばれるままに何の覚悟もなく来たと言う場違い感が、今更ながら羞恥心となって自分の目を逸らさせたからだ、と遅まきに悟る。

 いけない。

 彼女は何か大切な事を伝えようとしているのに。

 俺が目を向け直すと、彼女の瞳にはもう先程の様な意志は宿っていなかった。代わりにそこには、寂寥せきりょう諦観ていかんを孕んだ朝靄あさもやのような淀みが在った。そしていつもとは違う、萎んだ笑顔を見せていた。

「ごめん! 陽織さんが折角伝えようとしてくれたのに、俺……」

 彼女は顔を俯かせながら首を横に振る。

 おさげ髪が乱暴に周りの空気を掻き雑ぜる。

「ううん。私の方こそ、ごめん。折角付き合って貰ったのに。でもなんか、比々色君の顔を見たら、今それどころじゃあないんだなって解ったから。きっと急ぎの用事があったのに、私に付き合ってくれたんだよね? ごめんね」

 本当にその通りで申し訳なかった。

 こんな中途半端な事になるなら、初めから断っておくべきだった。

「ごめん。今度、必ず聞くよ」

 俺の言葉に彼女は顔を上げ、空笑そらわらいと解る程に乾いた声を上げた。

「ううん。もういいよ。もう、解ったから」

 あんまりにも寂しげに言うので、彼女の中で解決したものが何なのか不安に駆られる。

「何が?」

 俺の問いかけに彼女は応えず、視線を切って駆けだした。

 俺の方へ、と言うよりは公園の出入り口の方へ向かって。

 逃避させた。

 俺が。

 何かの決意を鈍らせて。

 しかし彼女が俺の横を通り過ぎようと言うところで、彼女は泥濘ぬかるみに足を滑らせる。

 俺は咄嗟とっさに手を伸ばした。

 結果、彼女を抱き締める形になってしまった。

 彼女の頭の天辺が丁度俺の鼻先に当たるくらいの場所にある。

 彼女の足が地面をしっかり捉えたのを体で感じ、徐々に力を抜いて行く。

「ごめん、咄嗟だったもんだから。大丈夫?」

 彼女は俺にしがみ付いたまま、離れようとしない。

 彼女の顔は俺の丁度胸の辺りにあるので、表情は読み取れない。

 もしかしたら、まだ気が動転しているのかも知れない。以前の電車での事を思い出す。このまま彼女が落ち着くのを待った方が良さそうだ。

 すると彼女は、不意に俺を見上げて早口に喋り始めた。

「あ、あのねあのね。えっとね。この前カラオケに行った時に、比々色君は朝薙さんの事を好きだの嫌いだのって感覚じゃあないって言っていたじゃない? でもさ、私思ったんだよ。ほっとけないって言葉は、好きな人に言うやつじゃない? ドラマの主人公がヒロインに向って言う台詞せりふじゃない? だから今日はそれを確かめたかったんだけどね。もう解っちゃった。比々色君は今から朝薙さんに会いに行こうとしてるんだって。確かめるまでもないなって。そしたらなんだかわざわざ確かめようとしてた自分が情けなくなって。馬鹿な事しているなって。悲しくって。もしも、二人が付き合ったら、私は傍に居ちゃいけないんだろうなって。お似合いのカップルに、邪魔な私がいるだけって、なんか間抜けだなって。そんな事考えたらもうなんていうか、ここに居たくないって。比々色君の傍に居たくないって。でも」

 陽織さんは、訴えかける様な眼差しを伏して、ワイシャツを一層強く握りしめた。

「今こんなにも傍に居る」

 額を俺の胸に押し当てる。彼女の熱を帯びた吐息が、俺の心臓に更なる血を注いでいく。

「どうして?」

 どうして。その問いかけが頭の中をぐるぐる回る。

 どうして。それは単純に彼女を抱き締めるに至った要因を問うているのではないんだろう。

 どうして。それはままならない人の心に対する疑問なんだろう。

 どうして、俺はあの時紗凪に恋愛感情は無いと言ったんだろう。

 どうして、陽織さんに言われた後なのに紗凪の事を好きだと言い切れないんだろう。

「ごめんね。解んないよね」

「そうだね。解らない。でも一つだけ解ってる事がある」

「何?」

「たとえ俺が紗凪と付き合おうと付き合わなかろうと、陽織さんの傍に居る未来は変わらない」

 彼女は驚いたように俺を見上げ、暫くの沈黙の後、少しだけ口角を上げて目を細めた。暗闇の中でキャンドルの燈火を見る様な目だった。

「これからも、ずっと?」

「うん」

「大学に行っても、社会人になっても、お互い別々の人と結婚しても?」

「うん」

「ずっと……友達で居てくれるの?」

「うん」

 彼女は掠れた声で言った。

「うれしい」

 苦しい。

 そう、言われている気がして、俺はなんだか彼女の事を抱き締めてしまいたくなる衝動に駆られたが、咽返むせかえるほど濃厚な緑の風が、それは間違いだと告げていた。

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