第38話 紗凪デンジャー

 短く言い切られた。

 その言葉の意味が簡単には受け取れず。

 いやその前にこの言葉は彼女から発せられた言葉なのかも皆目見当もつかず。

 そもそもここが“今”である事実の根拠に乏しく。

 だから俺は彼女の瞳を見つめ。

 ただ咽喉をゴクリと鳴らす他にはできないでいた。

 なんだって? 人殺し? 馬鹿な。紗凪さなぎが? いや、でも確かに今そう言った。聞き間違いだ。何と。何を聞き間違えた。俺は彼女の告白をまたおざなりにするのか。それは許される事なのか。彼女が意を決して打ち明けてくれた言葉を、聞き取れなかったからもう一回言ってくれ、と言うのか。

「紗凪の言う事だ。信じよう。でも同時に俺の願望も聞いてくれ。それは、何かの間違いという事は無いか」

 紗凪は口角を上げ、しかし一層目を細めて、笑っているようで泣いているような曖昧な表情をしたのち、ゆっくりと首を振った。

「間違いない。でも、燈瓏ひいろう君の考えているような事ではないよ」

「それはつまり、前科があるとか殺人事件の実行犯だったという訳ではない。という事だな」

 紗凪は頷く。

「私は私が生まれる時、お母さんを殺したの」

 お母さんを殺した。

 と言うのは、それはつまり、出産のショックで母体が死亡したという事だろうか。それならば、事故と言う言葉で片付ける事も出来ようが。彼女はそうしたくない、いや、そう思えないのだろう。

「お前が言う事に文句を付けるわけじゃあないが、お前はまだその時には意識が無いわけで、幼いわけで、どうにもできなかったんじゃあないか?」

「では、一体どれほど意識が有れば有罪で、無ければ無罪? 新生児が良いなら園児は? 小学生は? 中学生は? 高校生は? 酒を飲んで酔っ払った高校生が貴方のお母さんを殺したとして、貴方はそれを許せるの? 私は誰に許されるの?」

 淡々と、それでいて真に迫る物言いに、俺は言葉を詰まらせる。

「だから私は許されない。許されない私は幸せになってはいけない。この朝薙家を無茶苦茶にした罪は、一生かけて償わなければいけない」

「だから、親父さんの面倒を見ているのか」

「そう。私の所為だから。何かも。私が生まれてこなければ、お母さんも死ぬことは無かったし、お父さんもきっと仕事を諦めなかった。酒に溺れて醜態晒して生きていく事も無かった。そんなお父さんの惨めを作り上げたのは、他ならぬ私」

「でも、生まれてこなければ俺と会う事も無かったろう?」

「そう。燈瓏君と出会ってしまった。恋に落ちてしまった。生きたいとも死にたいとも思っちゃいけない私が、あろう事か幸せになりたいと思ってしまった。罪をあがなう前に、罪を忘れると言う罪をまた犯してしまった。それでも貴方と一緒に居ると、人殺しの私ではなく、一人の高校生の私に成れた気がして嬉しかった。罪を重ねる事の罪悪感にも勝る至福が与えられたから。でも貴方と離れるとそんな至福なんてまやかしだったのだと気付かされる。何も私は許されていないと言うのに、全てに許された気になっていた。貴方と結婚すれば、ずっと過去の罪を忘れていられる事が出来るかも知れないと思った。でもそれは、ただの現実逃避。そんな事が許されるわけない。だから私は貴方にとってとても迷惑な事をたくさんした」

「迷惑だとは思ってない。ただちょっとわけわからないなと思っただけで」

「燈瓏君は優しいから」

「俺は別に。ただお前の心を知りたかっただけだから。それに、紗凪の方がよほど優しいと思うぞ」

「私が?」

「世の中には、人を殺しても平気で居る奴がたくさん居る。ばれなきゃいいとか思って。でもお前はその罪をずっと背負っている。それは、心の優しい純粋な人間じゃあなければできない事だ。多分、俺なんかがやっても途中で、俺の所為じゃあないもんねと言って罪から逃れるよ」

「貴方はそんなことをしない。罪として暴かれなければ罰を受ける必要が無いなんて考え方、貴方が一番嫌いなのは知っている」

 言い切られて愕然がくぜんとする。確かにそうだ。俺はそう言う、人間として正しく生きようとしない、不誠実が嫌いだ。紗凪はこんなにも俺の事を知っているのだ。

 それでも、いや、だからこそ俺は紗凪の心を救いたいと思った。

「お前の母さんはお前を大切にしたいと思ったからお前を産んだんだろう。ならお前はきっと母さんに大切にされた結果のお前になるべきなんじゃあないのか?」

 紗凪は、静かに俺から目を切り、窓の外を見やった。

 窓は固く閉ざされており、ここは時速270kmで動く箱の中だ。

 どこにも行けはしない。

 しかし目の前の少女の体が、目の前から忽然と姿を消して、例えば静岡のどこかの山の中へ、ふっと飛んでいきそうな、儚げな雰囲気が、彼女の小さな肩から小刻みに伝わってくるのである。俺はともすれば叫び出したくなるような、彼女の肩を摑まえて抱きすくめてしまいたくなるような衝動を、肺の真ん中あたりで一生懸命抑えていた。

「燈瓏君は、」

 れっらしの黒色が、くるりと振り向くなり、俺の視線を握る。胸元を掴まれる様な錯覚があるほどに、彼女の底が抜けたような黒に吸い込まれそうになる。

「私のお母さんなの?」

 もうこれ以上言わせないで。

 そう言われた気がした。

 彼女の言葉はとても静かで、いとも簡単に俺の心音を止めてしまった。

 こんなにも正論は、正しい事は、真実は、人を斬り裂くものなのか。

 彼女の誰にも明かしてこなかった罪。

 彼女が数十年を経てもなお購いきれぬ罪を、俺はたった数時間の会話の中で何を勝手に無かった事にして救おうとしているのだ。この差し出がましさよ。自惚うぬぼれの境地かここは。

 どうして俺は、今の今まで彼女の心根に耳を傾けてやることが出来なかったんだ。

 どうしてプロポーズされて、それについて自分の身の振りしか考えてこなかったんだ。

 こんなにも彼女は悲鳴を上げていた。

 過去に脅かされ続けていた。

 ずっと傍に居るのに気付いてやれなかった。

 彼女の行動原理に思いをせれば、救えないにしても、もっと寄り添う事は出来たと言うのに。こうなってしまってから俺は、どうして今までの中で一番彼女の事を抱きしめたいと思うのか。恐らくは自分の心が苦しいからだ。熱く冷たく、腫れぼったくも脆い、薄弱になった自分の心をどうにかしたくて助けを求めているのだ。なんとなんとなんと、なんと! なんと厚かましいんだろう!

 事ここに至ってなおもまだ己の保身か。

 自身の浅はかさに絶望した俺は、それ以上彼女に、何も言えなくなってしまった。

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