第37話 紗凪サンクチュアリ

 帰りは高速バスではなく、新幹線で帰る事にした。

 お金はかかるが、今日中に確実に家に着くにはその方が良い。

 在来線を乗り継いでから名古屋に出て、ひかりに乗って帰る事にした。こだまは遅く、のぞみは混むので、ひかりの方がいいよ。と、風人かざひとさんがアドバイスをくれたのだ。

 新幹線の席に、二人隣り合って座った。

「なあ紗凪さなぎ

「まるで新婚旅行みたいだな。って?」

「いや違う。実はお前に謝らなきゃいけない事があるんだ」

「そうなの。何を?」

「俺がここに来る前の、そう、金曜日の夕方に、お前の親父さんと会ってな。コンビニで」

「元気そうだった?」

「ああ、お前の料理のおかげだろう。で、色々端折はしょるけど言い合いになって」

「端折り過ぎていて訳が分からないけれど、あまり肝要ではないの?」

 言うべきか、悩んだ。あの親父が娘の働いていた金で豪遊していた事と募金の事を。

「あー、うん。まあ、そうだな。隠し立てしても意味ないからな。言うけど」

 俺は事のあらましを説明した。

「最終的には俺はその……そりゃキレるよねって言う暴言を吐いてしまって、怒ったお前の親父さんは俺に手を出そうとしたんだが、直前でうちの母さんが投げ飛ばしちまった」

 紗凪は怒るでもなく笑うでもなく、俺の目を見据えていた。ただ、じっと。

「うちの母さんがお前の親父さんを投げちゃってごめん」

「謝られても、困る」

「だよな」

燈瓏ひいろう君は怪我してないの?」

「ああ」

藍香あおかさんも?」

「ああ。と言うか投げ飛ばした側だから。横面打ち四方投げとか言う技で」

「燈瓏君。それ、投げ飛ばしたとは言わない」

「え?」

「自分の円運動に相手を巻き込んでいなしただけ。見た目は思いっきり投げている様に思えるかも知れないけれど、合気道と柔道は根本的に技の体系が違うから、投げると言う言葉で一括りにされるとこんがらがってしまう」

「そ、そう、ですか」

「でも横面打ち四方投げなら、多分うちのお父さんも無傷ね」

「地面に倒された瞬間は痛そうだったけど、すぐに立ち上がれていたから、多分重傷じゃあないとは思う。と言う予想しか立てられないが」

「それで十分」

 彼女はそう言って窓の外に流れる景色に目をやる。

「あと一つ心配事が有るんだ」

「どんな?」

「もしも家に帰ってお前の親父さんが怒ってお前に八つ当たりするようだったら怖いなって言う」

「酒飲んで愚痴零す事なんてしょっちゅうだから、問題無い」

「愚痴とかじゃあなくて、例えば暴力を振るったら? 俺が暴言吐いた所為ってのもあるが、親父さんは俺に殴りかかろうとした人だ。お前にしないとも限らないだろ。そしたら、うちに逃げてこいよ」

「それは迷惑でしょう」

「いや、迷惑じゃあない。うちの母さんも心配してたんだ。だからもしもの時は、比々色家に来るように言っておいてくれとも言われている」

「もう既に心配を掛けてしまっているとは思わなかったわ。ごめんなさい。でも心配いらないから」

 まるで突き放すような言い方に、俺はなんだか寂しくなった。

「こんな事人様の家族に言うべきじゃあないが、お前は親父さんの為に働き過ぎだ。どうしてそこまで尽くすんだ」

「……親子、だから」

 二人はアームレストを隔てて数センチの場所に居ると言うのに。

 無限の空洞がそこには在る様に思えた。

 それは渦を巻いていて、言葉も全てそこに吸い込まれてしまいそうだ。

 その空洞の正体は恐らく、彼女に対する不明瞭さから来る怖れだ。

 俺の為にあんな秘境にまで行って武術を体得し、頭を撫でろと言ってくる程に献身的で友好的なのに、俺から彼女の領域に踏み込もうとすると立ち入り禁止の札が張られる。なぜなのか。彼女の事を知れば、例えば今みたいに突き放されたとしても、次の言葉を探す事なく見つけられるかも知れない。そうすれば二人の間に空洞なんて物は存在しないって事が、一瞬で明らかになるかも知れない。

 それを確かめる為、俺は今まで照れくさくて一切聞く事が出来なかった、当たり前の事を聞く決心をした。

「前から気になってたんだけどさ、なんでお前は、その、なんつーか、結婚したいんだ?」

 顔と耳が熱を感じた。

 紗凪は赤くなったであろう俺の顔に一瞥いちべつをくれ、にやりと笑う。

「好きだから」

 ストレートな物言いに負けそうになるが、今日こそは聞かなければ。彼女の本音を。

「そうは言うけどさ。お前がなんで俺の事を好きなのか、サッパリわからないんだよな。何か、好きって言葉でお前の本質的な内面を隠そうとしてないか? いや、あんまりこんな事を聞くのも無粋って言うのはわかってるんだが、落ち着かないんだよ。突然の告白だったし、そう言う風に思われているとは思わなかったし。いまいちどういうスタンスで居て良いのかがわからない。それにだいたいなんで俺の事好きなのに勝手に居なくなったり、俺に美人と花火に行けって言うんだよ。実際行っちゃったじゃないか。いやまあ行って良かったんだけど、いや、そうじゃなくて……解るかな?」

 いや、自分でも解らない。だが彼女は、

「解るよ」

 事も無げに言った。

 それから彼女は天井の明かりを見つめ、ぼんやりと独り言のように、されどもはっきりとした口調で語り出した。

「なぜ私が燈瓏君を好きか。それは貴方がありがとうと言ってくれたから」

「ありがとう?」

「多分初めてまともに話した時。貴方は私が貸した消しゴムを返しながら言ったの。ありがとうって」

「そりゃ言うだろ。当然」

「そういう当然が、どこか遠い国のお伽噺とぎばなしの様に感ぜられていたの。当時は」

 当時の事を思ってか、彼女は遠い目をしている。

「お父さんと会ったのなら、と言うか、お父さんと言い合いになっているから解ると思うけれど、お父さんは働いてないし、家事もしない。私はその代わりに働いている。家事もしている。でも昔はそれでもお父さんからありがとうと言われていた。お父さんも昔からあんなだったわけじゃあない。男手一つで私を育てようと頑張ってくれていた。でもある日お父さんはリストラされた。そして再就職を試みるも、軒並み不合格。そうしていつしか働かないのが当たり前になり、家事をしないのも当たり前になり、ありがとうと言わないのも当たり前になっていた。そんな時に目の前に現れた青年が私の手を取り消しゴムを返しながら、目を見てありがとうって言ってくれた。まるで愛を囁く様に。あの時に吹いた風は私の瞳に張り付いていた昏がり色の粘膜を取り去って、新しい、輝かしい風景を見せてくれたの」

 紗凪の目線は相変わらず天井の明かりを見つめている。

「解ってくれた?」

 そう言って俺の顔を見る。

「ああ」

 俺は頷く。短く。その瞳が紛れもない真実であることを語っていたから。

「それから、私がいきなり連絡もなく居なくなったのは、もしかしたら貴方が私の事を嫌うかも知れないと思ったから」

「……試したって事か?」

「ううん。まさか。そんなにいい女じゃあない。駆け引きなんて出来やしない。言葉そのまま。嫌われたくないけど、これで嫌われるかも知れないなって思った。矛盾しているけど、大好きな燈瓏君に嫌われたいと思った。でも貴方は連絡をくれた。凄く安心した」

 馬鹿にしている。と、一見そう思ってしまう様な言葉だが、その矛盾は恐らく彼女の心に内在するややこしさそのものが要因となっているのだろう。

「私は貴方の事が大好きで、貴方は私の事が嫌い。貴方は誰か別の人と幸せになって、私は不幸になればいいと思った。でもその為には、ただ居なくなるだけじゃあいけないと思った。何しろ貴方の連絡に私は内心小躍りをしていたのだから。それで、花火大会に行くように提案した。実際嫉妬の炎を燃やして、稽古して強くなって、燈瓏君の役に立ちたかったのもあるけれど。それで貴方が誰かの事を好きになったら、私は未練がましく貴方の事を思い続けようと思った」

 彼女は溜め息を吐いて、暫くの間を置いて俯いた。

「でも、貴方から写真が送られてきて、心が締め付けられた。私は幸せになったらいけないのに、この写真の中の人が私であって欲しいと願ってしまった。そして急に心配になった。貴方がその後、その美人さんに体を求められたのではないかと。それを望んでいたのに」

「何もなかったよ」

 陽織さんとは行かないでくれと言ったのは、恐らく紗凪が抱えている矛盾が絡んでくるものだろう。俺に嫌われたいのに、離れたくないと言う思い。彼女はなぜそんなややこしいものを抱えているのだろうか。

 彼女の突発的な告白や行動。その根幹にあるのが、それだと言う確信が芽生えた。

「俺はお前の事をもっと知りたい。どうして、そんな矛盾を抱えているのか。どうして、単純に幸せになったらいけないのか」

 今まで滔々とうとうと語り続けていた紗凪が、ここに来て押し黙る。

 時速270kmの沈黙が、淀んだ昼間を駆け抜ける。

 トンネルに入り、暗闇が車窓にへばり付いては高速で後ろに流れていく。

 長い闇が終わると雨粒が叩きつけられる音が鼓膜を覆う。

 景色は薄暗く霞み、空にはもやついた鈍色にびいろが張り付いていた。

 紗凪の視線が車窓から俺に戻される。

 気だるげに開かれたまぶたの奥の静謐せいひつな黒が、真実を語り出した。

「私は、人殺しなの」

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