第28話 柔よく剛を制す

 刹那、目の前から消えた。

 拳が。

 いや、正しくはおっさんそのものが。

 ――ドシンッ。

 その物音がした方向を見る。

 おっさんは俺の前の床に伏せていた。

 母さんに腕を取られて。

 ――え。

 なにこれ。

 どういう状況?

「母さん、何やってるの?」

「横面打ち四方投げ」

 いや、どんな技使ったかって聞いたんじゃなくて……。

 突然床に叩きつけられたおっさんは肺に溜まっていた空気が無理矢理押し出された為か、苦しそうに呻く様に声を出した。

「な、なん、でぇ……?」

「親は子を守るものだからです!」

 きっぱりと言い放つ。

 一瞬の間を置いて、周りから拍手が起きた。

 母さんはそれで我に返り、恥ずかしそうにおっさんの手を離した。店員にぺこりと頭を下げる。

 多分おっさんの疑問はどうして母さんが俺を守ったかではなく、母さんがなぜ合気道の技を繰り出せたのかという事なのだろうが、今となっては些細な事だ。

 拍手の中、おっさんは何も言わずにそろりと立ち上がり、こそこそと去った。俺は呼び止めようとしたが、一目散に逃げる態度を見て、呼び止めたところで無駄だと確信する。自動ドアの開くのが間に合わず、ドアにぶつかりながら出て行く。よほど母さんが怖かったのだろう。だがおっさんはそう言う事を俺にしようとしたのだ。だと言うのに、自分がその対象になった瞬間から恐れ戦き逃げようとする。覚悟無き暴力ほど醜いものは無いな。

 あれがもしも自分の父親だったら毎日恥ずかしくて辛いだろう。

 紗凪はそれに耐えるどころか、その男を守ろうとすらしているのだ。自分を犠牲にしてまでも。

 子は、親を信じるのだ。

 閉塞的へいそくてきな環境に置いて親は神にも等しい。

 高校生になった今でも、自身の親の善性を信じずにはいられない。

 例え自分には意図が解らない事でも、親が行った行為には何か意味があるはずだ。そう思い込む。

 無意味で悪質な行為を親が行う筈がない。そう信じているから、無意味で悪質な行為をしても、その通りには受け取らない。

 だからきっとあんな親でも紗凪にとっては正しい存在なのだ。

 俺はそれを否定した。

 否定それ自体は間違った事ではない。ただその正しさを、彼女は信じてくれるだろうか。

 先の行為、俺はほとんど無意識におっさんに向って行った。

 それほどまで無自覚に、紗凪の美しき善意を救いたかった。

 悪意に満ち溢れた醜悪の化身こそが自らの親だと言う、絶望的な自覚を味わわせる事が、果たして正義か悪か。

 だが俺は悪逆非道あくぎゃくひどうと世界にののしられようが、本人に嫌われようが、助けたいのだ。

「燈瓏ちゃん、大丈夫?」

 俺が深くまで潜っていると、母さんが声を掛けてきた。

「ああ、大丈夫。ちょっと考え事」

「じゃあ、行こっか」

「あれ? 牛乳は?」

「もう買ったわよ。燈瓏ちゃんぼっとしてたから。怖かったの?」

「いや、そうじゃないよ。あんな覚悟の無い暴力、怖い事は無いよ」

「そう」

 母さんは安心したように破顔する。たおやかな表情には、先程の合気道の気迫は無い。

 コンビニの外に出ると母さんは財布を取り出し、中から千円を抜いて俺に渡す。

「なにこれ?」

「さっきね、コンビニの募金箱に入っていた千円がどうしても欲しくなって、お母さんの千円札と交換して貰ったの」

「ええ!? いつの間に?」

「燈瓏ちゃんがぼっとしている間に」

 俺は乾いた声で笑った。

「店員さんには無理なお願いをしてしまったわ。でも、どうしてもこの千円札が欲しかった。母さんが持っている千円札よりもずっと輝いて見えたから。世間的には同じ価値のものかも知れないけれど、私から見たら一万円以上の価値が在る様に見えたから、同額で交換して貰えるなら、その方がお得じゃあない?」

 悪戯っぽく微笑んで千円札を左右に振る。

「でもね、手に入れた千円札を見ていたら、これには持ち主がいるって事に気付いてしまって、なんだか申し訳なくなっちゃったの。おかしな話よね。そもそもこの千円札が気になったから手に入れる為に交換して貰ったのに、もともとの持ち主が居る事なんて解っていたのにね。でもやっぱり見れば見る程、持ち主に返さなきゃなって思ったの。だから、返してきて欲しいのよ。燈瓏ちゃん、お願いできる?」

 俺はふふふと、思わず声を零してしまった。

「俺が返すとしたら、同い年の女の子なんだけど、それで合ってる?」

「さあ、見たことが無いから。でも燈瓏ちゃんがそうだと言うならきっとそうよ。貴方は正しい事を行える子だから」

 俺は母から千円札を受け取ると、自分の財布にしまった。

 さて、届けに行こう。

 長野へ。

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