第29話 夜行バス

 生まれて初めての一人旅だ。

 考えてみたら。

 荷物をまとめている最中に、何度も母さんに「ハンカチ、はなかみ持った?」「財布にお金は十分あるの?」「バスの予約はもうしたの?」と心配された。揚句あげく「お母さん、付いて行こうかしら?」である。

「だああ! もう! うるさいな! 俺は反抗期だぞ! あんまり横から言ったら母さんの事嫌いに……」

 母さんの顔に一瞬で絶望が張り付いた。常闇とこやみを帯びた顔面からは喜怒哀楽が消え失せている。

「……なるかも知れないし、ならないかも知れないけど、言われている方が、嫌いになる確率が高くなってしまうから、あまり、言わないように」

 母さんは涙ぐみながら何度も頷き無言で部屋の扉を閉めた。

 こういった調子でなんとか支度を終える。

「お出かけですか?」

 しまった。こいつの存在を忘れていた。天使なのに。

「ちょっと前に話した……武闘家の紗凪が、修行に行ったっきり帰ってこないから迎えに行くんだ。そう言う訳でお前は連れて行かない」

「そう言う訳がどういう訳なのか納得のいく説明を頂きたいところですが、だいたいの察しはついております」

「ほう」

嵩張かさばるし重いから、ですよね」

「うん」

 なんだ。解ってきたじゃあないか。

 そうなのだ。そもそも紗凪の事を武闘家と表現して、さも事を言ってみたのも、こいつをただただ連れて行きたくないからなのだ。嵩張るし重いから。

 俺が玄関を出ようとすると、母さんが後ろから抱き付いてきた。

 背中越しにすすり泣く声。

 瞳から溢れ出たであろう熱がシャツに染みを作った。

 いや、俺別に渡米しないから。

 そこまで感情昂らせてもらっては困るから。

「必ず、生きて帰ってきてね」

 逆に死にそうなフラグ立ったぁあ!

「大丈夫、大丈夫だから」

「燈瓏ちゃんが大好きなザッハトルテ作って待っているから、帰ってきたら一緒に食べようね」

 俺、この戦争終わって無事に帰る事が出来たら、母さんとザッハトルテ食べるんだ……。

 安定の死亡フラグを立てさせられている!

 なにこれ? 俺、死ぬの? 長野行って帰って来るだけで死ぬの!?

「母さん」

「何?」

「いつも通りでいてくれないか。頼むから。俺の生命の為にもそれが一番だと思うんだ」

 言い放つと、母さんはその言葉を噛みしめる様に大きく一度だけ頷いた。

 そしていつも通りの笑顔に戻り、手を振る。

「いってらっしゃい」

「行ってきます」

 まずは最寄り駅に向かう。

 在来線を使って新宿まで出て、バスタ新宿から出発する夜行バスに乗るのだ。住所は長野とあるが、実際岐阜にほど近い場所なので、新宿からだとまず岐阜県は中津川に行く必要がある。そこから在来線に乗車し、東を目指したところに、彼女が修行中の家がある。

 いきなり押しかけては迷惑なので、取り敢えず電話をしてみる。

 紗凪の携帯端末は繋がらないので、その修行場に直接という事になる。

 古武術と言うからには、あまり一般には開け放たれていないだろうと思ったのだが、意外に大丈夫だった。地図アプリで住所を検索したら電話番号が出てきた。地図アプリに番号が載っているという事は、電話をしても問題は無いはず。と言うか、そうでなければどうやって紗凪はこの地へ赴いたと言うのか。

「はい、もしもし」

 声を聞いただけで優しさが伝わってくる老父の声だ。

「あの、良煙寺りょうえんじさんのお宅ですか?」

「はい、そうですよ」

「そちらに女の子が古武術を覚えに行っていると思うのですが。名を朝薙紗凪と言います」

「はい、来ていますよ。お友達の方ですか?」

「そうです。見学に行ってもよろしいでしょうか?」

「見学だけでよろしいですか? 体験もできますが」

「自分は、武術というものを習った事が無いので、できれば友達の進捗状況を見てから決めたいのですが、体験するかどうかはお邪魔してから決めるのでも構いませんか?」

「勿論です。いつ頃いらっしゃいますか?」

「明日の昼過ぎ……えっと、細かい時間は決められないのですが。初めて行く場所で無事に着けるかも怪しいので」

「ああ、はいはい。大丈夫ですよ。うちはとても田舎ですからね。昼から夜までの間に来て頂ければ問題ありません」

 そう言う訳で、意外に寛容な古武術見学のアポも取れたし、後は地図上に道が載っていない場所をどうやって行くかと言う問題さえ解決できれば良い。紗凪も行ったのだから、いけない事は無いはずだ。


 新宿はいつ来ても人が多い。

 人の波が前後左右から行き交うこの都会を、颯爽さっそうと歩けるようになったら格好良いんだろうな。俺はと言えば波同士の押し合い圧し合いの只中を、ぐるぐるとよじれる様に抜けて行くのがやっとだ。もう何百メートルも進んだかと思えば一歩も動いていなかったり、壁にもたれかけていたはずなのに何百歩も歩かされたりする。新宿には時空のひずみが点在しているのではないかと疑い出すのも無理はないと思う。

 改札を出ると、すぐさま本屋に立ち寄った。

 彼女が欲しがっていたシオランの本を買っていくのだ。確か、『時間への失墜』と言う。

 本を無事に購入し、さてバスタに行こうとした時、ふとお土産を買って行かなくてはいけないと言う強迫観念に駆られる。無難な所で東京ばな奈か。食べた事ないな。美味しいのか? 美味しいかどうか解らないものを持っていくのも失礼だよな。いやでも不味かったらここまでのロングセラーにはなっていないはず。お土産品として愛され続けているという事は、きっと美味しいはずだ。信じよう。マジョリティの舌を。そして帰りには自分用に買って帰って食べてみよう。

 バスターミナルに着いて自分が乗るバスの停留所を探す。

 中津川に行くには可児行きに乗ればいい。

 停留所に着いた直後にバスが到着し乗り込む。

 座席に着いて思った。

 人が少ない。

 今日は金曜日だ。遊びに行く人も多いはずだが、それは田舎から都会へと言うパターン。新宿から岐阜、長野に遊びに行くぜ! と言う人は、物凄く少数派なのだろう。スキーシーズンなら多いかも知れないが。

 そう言えば岐阜とか長野って寒いイメージがあるけれど、ダウンとか持ってきた方が良かったのだろうか。などと考えているとエンジンが掛かり、間もなくしてドアが、

 ぺー。

 と言う間の抜けた音と共に閉まった。

 窓の外を見るとカラフルなライトに照らされた都庁が見えた。

 何度か来たことのあるこの街も、夜の色を見るのは初めてだ。

 夜の新宿と言うと物騒なイメージしかなかったが、バスと言う安全地帯から観る街はとても綺麗で、ここに紗凪が居ない事がとても勿体無く感じた。

 色彩豊かな闇の中を、青春を乗せたバスが疾駆する。

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