3-c キリンと泥棒と僕

 あのキリンの一件が頭を離れない。そこで記憶を頼りに、焦げ茶色のマンションを見つけた。車窓から見た通り、異質な光景は変わっていない。キリンはやはり本物だ。あのベランダから、キリンの顎と首が揺らめいている。

 見るだけでいい。それで充分だ。

 しかし、ある男がキリンと話していることに気が付いた。マンションの壁と似た色のジャケットを着た男が、壁をよじ登っているようだ。キリンが首を出すマンションだ。きっと男が壁を登ることもある。不思議な光景が重なりすぎて、自分でも正直よくわからない。何にせよ、これがこの街の日常なのだろう。

 呆然とベランダを見上げていると、キリンが悲しげに目を伏せた。そして、生温い液が額を打った。

「キリンさん……!」


 本気で泣いているのかと思った。だが、ねっとりとした感覚と生臭さは涙とは違う。

 冷静に考えると、キリンに涙腺があるのかもわからない。そこで、僕は思い当たる。

 これは、ツバだ。


 可愛い顔をして、キリンは舌打ちしたのだ。それに構うことなく、男はまた壁をよじ登っていく。どうやら、会話は済んだようだ。


 訳が分からないことが起きまくっている。だが、ひとつは理解した。


――憧れのキリンさんと話しているくせに、壁男はキリンさんに悪態をつかせた。


――僕は壁男が憎い。



 そう思うやいなや、僕の口は勝手に動いていた。

「どろぼー!」

 想像以上に大きな声が出ていた。

 そして、やっと理解した。

 このマンションにはキリンがいて、泥棒が今まさに壁をよじ登っている。事実はやはりおかしい。夢なら、気味の悪い悪夢の部類だろう。

 もう一度、僕は叫んだ。

「泥棒!」

 すると、泥棒は驚き、体をぐらつかせた。

 落ちる。


 僕は咄嗟に目を閉じた。

 殺すつもりはなかったと、後悔すらした。

 泣きそうになりながら、目を開け、足元を見た。しかし、何もない。また、男が落下する衝撃音もない。

 僕は騒がしい鼓動を押さえ、上を見た。キリンが泥棒を首で引っ掛け、自分のベランダに引き入れているところだ。見事な首使いに息が漏れる。

 

 感極まって、僕はまた叫んでいた。

「ぶらぼー!」

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