10:八雲立つ

 リィリャ近郊で発生していると思しき〈翼虎〉の異変は、すぐさま王都の騎士団総本部へと報告が上げられ、近隣の村々にも警戒を厳にするよう通達が行われた。一報を受けた総本部が調べたところによると、同じような異変は、少なくとも現時点では特に確認できていないらしい。

 そのせいで、我々の見解を懐疑的に扱う向きもないではなかったようだが、ひとまず増援の派遣要請は無事受理された。比較的兵力に余裕のある他地方の都市から、今後数回に分けて竜騎小隊を初めとした複数の部隊が投入される見込みであるという。

 その一方、リィリャでも街の守りを固めるべく、民間の傭兵を臨時で雇用するなど、備えの手配が始まっている。

 騎士団本部に出入りする人間も竜も格段に増え、日々はひどく騒がしく、忙しないままに走り去っていく。ただでさえ休みを取り消されたばかりだというのに、こうなっては星籠亭に帰る暇もなかった。

 サシピリオ卿夫人に依頼して、着替え――主にラドの――を届けてもらってからは、すっかり本部に詰めっぱなしである。幸いなことに、ラドの面倒は第九竜騎小隊の女性隊員が交代で見てくれている。

 いくつか管理を任された傭兵部隊の運用や、格段に回数を増した航空哨戒任務の割り振り、その他膨大な数の雑務に追われていれば、こどもの様子を気に掛けている余裕などあろうはずもない。兵舎に寝に戻る時間も不規則になり、面倒になって執務室の椅子で仮眠を済ませることもしばしばだ。

 ただ、そうして椅子で仮眠を取った翌朝、女性隊員に連れられて執務室に出てきたラドに毛布を掛けられて目が覚め、「いいこ いいこ」と頭を撫でられた時には、さすがに頬が引きつった。いくら疲れていたとしても、容易に接近を許し過ぎだろう。

 その時、わざわざラドを抱えて俺の頭に手が届くよう図っていたバイアットも、正直余計なことをしてくれたと思わなくもなかったが、二人して悲壮な顔をしていたので、文句を言うのは止めておいた。

「ろー ちゃんと ねる」

「ラドの言う通りっすよ。ちゃんと休まねーと、身体壊しちまいますよ。せめて仮眠室行きませんと、疲れも抜けませんて。隊長、いざとなったら、先陣切って飛んでくでしょ?」

「それが仕事だからな」

 あくびを噛み殺しつつ、毛布を畳みながら立ち上がる。時計を見れば、まだ朝の六時前。執務室も閑散としている訳だ。

 ここのところは、回数の増えた哨戒任務に対応する為、隊員にはそれぞれの予定に応じた早出と遅出を命じてある。自然と早朝に飛ぶ隊員と、夕刻や夜間に飛ぶ隊員はすれ違うことになり、執務室の人口密度はめっきり減っていた。今も、執務室の中に姿が見えるのは、朝一番で飛ぶバイアットの他に数名だけだ。

 机の上に設置された通信術具であるオーブの球面には、仮眠中に送られてきた文章がいくつか浮かんでいる。異常なし、標的現れず等々、普段ならば喜ぶべき報告ばかりだが。

 今日で、ルヴェカヴァの事件から四日になる。奇妙なことに、事件以来リィリャ近郊での〈翼虎〉の出現は、完全に途絶えていた。直近の三月では、奴らは四日と空けずに現れていたというのに。

「バイアット、未だ〈翼虎〉出現の報はない。ここまでぱったりと止むのは、かえって怪しい。いつもより警戒して行け」

 オーブの文字列を消去しながら言うと、バイアットは表情を引き締めて「了解」と頷く。

「虎の方も、一斉攻撃に備えて戦力を温存してるってことですかね」

「その可能性も考えられる、という程度で、断言はできんがな」

 畳んだ毛布を椅子の背もたれに掛け、首を回す。ごきり、と嫌な音がした。

 執務室には休憩室の他、仮眠室と簡易浴室も併設されている。ひとまず湯を浴びて、身繕いをしなければなるまいか。

「俺は少し席を外す。緊急の用件があれば、構わず呼べ」

「ろー どこいく?」

 ラドが両手を伸ばしながら問い掛けてくるので、抱き上げながら「風呂だ」と答える。しかし、人が答えている最中に、こどもは顎だの頬だのをぺたぺた触り始めた。やたらに深刻そうな顔で。

「なんか へんなの ある!」

「変なの……!」

 そして、真顔で言うこども。笑い出す若造。

 俺は苦々しい気分で、無精髭のまばらに散った顎を摩った。確かにこれまでは、朝に夕にと整えていた。今は二回分手入れを怠った状況ではあるが。

「変じゃない」

「ふへっ、ひひっ、うっ……ゲホッ」

 むせるまで笑うな、若造め。

 抱き上げたラドを笑い続けるバイアットに押し付けた後、簡易浴室で水を浴び、身支度を整える。時間にすれば、ほんの数分のことだった。だが、そんな数分でさえ、気を抜いてはいられないらしい。

 執務室に戻った途端、間の悪いことに俺の机の通信術具が鳴った。バイアットの元を離れ、駆け寄ってきて纏わりつくちびすけをあしらいながら、オーブの表面を窺う。

 浮かび上がる識別番号は、ファースだ。またぞろ面倒でも押し付ける気か……?

「こちら第九竜騎小隊、ガザート。こんな朝も早くから、一体何の用事だ?」

『ファースだ。新たに組織された、傭兵の歩兵部隊を一部隊預かることになった。お前の方で指揮する余裕はあるか?』

 そうではないかと思っていたが、やはり厄介ごとだった。

 こちらは既に傭兵の歩兵部隊を二つ、弓兵部隊を一つ預かっている。経歴書を事前に読んだ上で面談を行い、信用できそうな熟練の者に部隊長を任じてはいるが、この上もう一部隊が増えるとなると、完全に執務室の住人と化してしまいそうだ。

「ろー は いそがしい! むり! だめ!」

 そんなことを考えていると、俄かにこどもが机にかじりついてきて、叫んだ。いや、確かにそれは本音だが。本音だが、そう声高に叫ばれても困る。

「バイアット」

「りょーかーい」

 ちびすけの首根っこを掴んで机から引き剥がし、もがくのも無視してバイアットに預ける。

「はいはい、あっちでご飯食べよーなー」

「ろおぉのばかぁああ! おろせ ろぶぅぅう」

 何やら叫んでいるが、ひとまずただの騒音だと思うことにして通話を再開する。

「すまん、ちびの邪魔が入った」

『相変わらず愉快な職場だな』

「お陰様で。……それで、何故俺にその話を? 悪いが、そう手が空いてる身じゃない。他の連中はどうなんだ」

『無論、他の者にも割り当てている。だが、ニヘロブの竜騎小隊も今日到着するそうでな。そちらへの対応に人手が割かれているのだ。私もメレゼも、傭兵部隊の面倒までは見られん』

「つまり、『余裕があるか』というのは建前で、『面倒を見ろ』という通達な訳だ」

『頼むぞ』

「せめて選択の余地くらい、残しておいてもらいたいものだがな。……傭兵連中には、うちの執務室を訪ねるよう伝えておいてくれ。で、何時頃に来られるかも、折り返し教えてもらいたい」

『了解した』

 人に厄介ごとを押し付けてくれた割には、あっさりとした調子でファースの通信は途切れた。また休み時間が減るな、とため息を吐けば、視界の端に、するりと歩み寄ってくる影が見える。

「隊長」

 赤銅色の髪に、紫水晶の眼の青年――さりとて、その本質もまた人でない。本日早朝の哨戒任務で、バイアットと組むことになっている竜だ。

 風竜であるルシューゴは、非常に巧みに天候を読む。雲や曇天が〈翼虎〉の存在と切っても切り離せない関係であることから、その特技はしばしば珍重されたが、本人は至って平然としたもので、驕ることもない。何を考えているのか量りがたい、寡黙な無表情でもって、淡々と職務をこなすのみだった。

 その黙り屋が、自分から寄ってきて話し掛けてくるとは、珍しいこともあるものだ。

「どうした?」

「今日は、たぶん午後から曇る。この辺り一帯が、厚い雲に覆われる。もしかしたら、夕には雨になるかもしれない」

 気をつけた方が良い、と見かけほどには若くない竜が、真っ直ぐに俺を見据えて告げる。

「嵐が来る気がする」

 静かな声が、かえって肌を粟立たせた。


 ルシューゴの予報通り、昼過ぎから空には雲が増え、日が翳り始めた。予告を受けた時点で「あくまで参考程度にだが」と前置きしつつも、ファースに連絡を入れたからだろう。騎士団本部は、戦場さながらの空気が張り詰めていた。

 そして、午後一時を回った頃。空は彼方まで白雲に埋め尽くされ、けたたましい音を立てて警鐘が鳴り響き、いよいよ事が起こったことを知らせた。間をおかず、管制部隊から通信術具へ連絡が入る。

『防空領域内各地から、相次いで〈翼虎〉出現の報が上がっています。第九竜騎小隊からは二班、ナズハ村へ急行してください』

「三班、四班、聞いての通りだ。哨戒任務は取り消し、ナズハ村へ向かい、しかる後に虎共の撃退に移れ」

「了解」

「了解しました」

 ナズハ村へ向かわせるのは、ガズザカを班長にした三班と、レアードを班長にした四班。部隊としての総括は、最年長で戦い慣れているガズザカに任せた。レアードも頭の回転の速い、賢い娘だ。戦況を読む目もある。第一陣として出すには、申し分ない組み合わせだろう。

「聞き飽きているだろうが、くれぐれも油断はするな。最良の成果を期待する」

 四名の隊員たちは、生真面目な表情で頷くと、足早に執務室を出て行った。

「いよいよか?」

 その背を見送って、ユガーネが声を上げる。今日は珍しく、奴もきちんと自分の席に座っていた。

「来る時が来た、それだけだ。ユガーネ、一班と二班にも連絡を入れろ。朝早くに飛んで帰ってきたところで悪いが、部隊総出でも足りるか分からん。用意ができ次第、執務室に出てくるよう伝えろ。俺は傭兵部隊に指示を出す」

「了解ィ」

 ユガーネが周囲に声を掛け、手分けして通信術具を操作し始めるのを横目に、俺もオーブに新たな識別番号を入力する。

 傭兵部隊の運用については、事前にファースから指示を受けていた。今回預けられた四部隊は本部の防衛に注力し、管制及び指揮機能を維持するのが、主な役目だ。割り当ては、この執務室や、常用する滑走路のある東第三区画方面。

 練兵場に用意された、幕屋の簡易兵舎で待機を命じられている傭兵部隊にも、その部隊長に貸与する形で通信術具が与えられている。異変は既に彼らも知るところであるらしく、通信には即座に応答があった。歩兵と弓兵の各一部隊に持ち場につくように指示しつつ、残りの部隊には待機を命じておく。虎共がどれだけの数で襲ってくるか――襲い続けてくるか読めない以上、手持ちの札を早々に使い切る訳にはゆかない。預けられるはずだった三つ目の歩兵部隊も、三時に過ぎに訪ねてくる予定だったが、この分では合流も難しいだろう。

「隊長、一班と二班は警鐘に気付いて支度し始めてたみてェだ。十分後には到着するとよ」

「了解した。五班から八班まで、次の出撃命令に備えろ。九班及び十班は待機を継続」

 指示を出せば、威勢のいい返事と共に八名の隊員が動き始める。

 第九竜騎小隊は、俺を含め人間と竜が十名ずつ所属しており、二名編成の班を十組編成できるだけの人員を保有する。普段ならば、その中で適宜組み合わせを入れ替えつつ編成するのだが、小隊の指揮を取らねばならない都合上、先日の会議から十班は俺とユガーネで固定していた。

「隊長、ラドはどうするんです?」

 俄かに慌ただしくなった執務室の中、ザザキリが声を上げる。ギディオン・ガンターとの九班に割り当てられ、十班に次いで出撃順が遅いことから、自主的にラドの面倒を見ていた。

 ちらと目を向けてみれば、部屋の隅の、お決まりの絨毯の上で、赤金の竜が白金の竜を抱えている。

「医療部隊かどこか、本部から動く可能性が低い部隊にでも預かって――」

 もらう、と言いかけた時、机の上の通信術具に着信があった。識別番号は、第四大隊第二管制部隊。

「こちら第九竜騎小隊、ガザート」

『第二管制部隊、ハーロウ。新たに〈翼虎〉の出現を確認。三部隊をメビ村へ派遣願う』

「了解した。――五班、六班、七班、メビ村へ向かえ!」

 通信が切れるのを待たず、声を張り上げる。

 先手を打って準備をさせておいて、正解だった。三班六名は瞬く間に執務室を飛び出していき、いよいよ待機人数も半減となる。一気に三班持っていかれたのは、少し痛いな……。

「九班、出撃準備を」

 ため息を呑み込んで告げれば、ガンターがいつも通りの落ち着き払った様子で「はい」と答え、席を立つ。ザザキリも何やらラドに言い聞かせる素振りを見せた後、立ち上がって準備に向かって行った。

「ユガーネ、手元に近隣一帯の地図はあるか」

「はいよォ」

 しかめっ面になったラドが、絨毯の上からこちらに歩いてくるのを横目に見つつ、近付いてきたユガーネから地図を受け取る。ナズハ村、メビ村……。

 そうではないかと思っていた懸念は、地図上で改めて確認してみると、嬉しくも何ともない確信へと変わった。ち、と舌打ちが漏れる。

「不味いな。連中、徐々に近付いてきている」

「こっちの兵を引っ張り出せるだけ引っ張り出して、手薄になったところに一気に雪崩れ込む腹か?」

「そう考えるのが妥当だろう」

 ユガーネに答えながら、地図を畳む。

 メビ村は、ナズハ村とリィリャの中間地点に位置する。管制部隊の対空感知術式の作用範囲内にも含まれるほどには近場であり、すなわち〈翼虎〉は、そこまで攻め上ってきているということだ。

 戦場を俯瞰して兵を配置し、各部隊を適宜動かすことで状況を最善へと導くことこそ、管制部隊の最も重要な仕事だ。当然、虎共の意図には気付いているはず。上手く手を打ってくれるといいが。

「念の為、俺たちも出撃準備は整えておく。仮に一班と二班が戻る前に要請がかかったとしても、応じない訳にはいかないからな」

 これから席を立とうというのに膝の上によじ登ってくるラドは、とりあえず今は放置しておくことにして、先に地図をユガーネに返す。

「了解。……そのちびは、どうするんだ?」

 ユガーネが顎でラドを示す。

「ここに独り残しておく訳にもいくまい。どこか手頃な部隊に預けておく。――いいな、ラド」

 答える言葉の末尾は、共に空に向かうことになるであろう竜ではなく、膝の上のこどもへ。ラドは相変わらずのしかめっ面のまま、黙然として答えないが、嫌だと騒がないのならば、受け入れる他ないと理解しているということだ。ラドは幼くはあるものの、決して馬鹿ではない。

 とりあえず、第四大隊の医療部隊にでも連絡を取ってみるかと、通信術具に手を伸ばそうとして、

「第三大隊長?」

 発信するより早く、思いもしない相手からの通信が入った。迷う暇も惜しく、応答する。

「こちら第四大隊第九竜騎小隊、ガザート」

『第三大隊、キャラハンだ』

 オーブから聞こえる声は、まさしく名乗り通りのクリフ・キャラハン第三大隊長のものだ。

 クリフ卿とは、別段親しいということもない。ラドを保護したばかりの頃、ウォルドロンの手を借りたことで多少の連絡を取ったことはあるが、それきりだ。こんな急場で通信を入れてくるような用件とは、一体何であるのやら……。

「クリフ卿、どのようなご用件で?」

『〈翼虎〉の出現が途切れないと、管制部隊が悲鳴を上げている。遠からず、君にも出撃命令が下されるだろう。その時に、気がかりを残していくのは得策ではあるまい。イレイン・ウォルドロンを向かわせているが、迷惑ではなかったかね?』

 まさかの話に、思わず二度三度と瞬く。

「いえ、こちらでもちょうど預け先を探していたところです。ご厚意に感謝します」

『役に立てて何よりだ。ウォルドロンには、子竜を保護した後、自分の部隊に帰還するよう申し渡してある。その方が、まだ安全だろう。……まあ、最悪の事態に陥った場合、本部を防衛する戦力として期待していないといったら、それは嘘になるがね。それでも幼子は幼子、可能な限り守ろうさ』

「ご配慮痛み入ります」

 そう答えた時、オーブの表面に別口の通信が入った旨が浮かび上がる。第四大隊第二管制部隊。

嫌な予感しかしなかったが、応えないという選択肢もまた、存在しない。クリフ卿には丁重に礼を述べ、通信を切り替える。

「こちらガザート」

『第二管制部隊です! ユシラ村へ二班の派遣を願います!』

「……了解した」

 いよいよ余裕がなくなってきたのか、急きこんだ様子で言うだけ言って、通信は途切れた。

 ユシラ村は、メビ村とは比べ物にならないほどリィリャに近い立地にある。いよいよ、連中もこの街の目と鼻の先にまで迫ってきたということか。

「八班、九班、ユシラ村へ向かえ!」

 待機班へと声を張れば、三度の「了解」の唱和。そして、新たに四名が執務室を後にし、入れ替わりで一班と二班が到着する。

 ふと時計を見れば、ようやっと二時を回ったところだった。

「長い一日になりそうだな……」

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