8:昔語の夜

 ルヴェカヴァの氷を溶かし去るほどの焔を吐いたラドは、案の定、その日の夜に高熱を出して寝込んだ。今までは見掛けの幼さに反し、風邪の一つも引かない健康優良児そのものであっただけに、ふらふらしながら「あつい」と訴えられた時の驚愕と動揺は、筆舌に尽くしがたいものがあった。

 我がことながら「らしくない」と笑いたくなるほど、慌てふためいてサシピリオ卿夫人に助けを求めてみれば、夫人は俺の動揺をよそに落ち着いたものだった。曰く、吐いた焔の熱が体に残っているだけであり、大事ない。特効薬こそないものの、安静にしていれば熱も下がり元気になる、と。

 そうは言われても、熟れた果物のように顔を赤くさせ、苦しげな息を吐いて横たわる姿は、いかにも哀れに思わせた。あなたが慌てていてどうするのですか、と窘められまでしてしまったが、生憎とこちらは子供の世話にかけては新兵同然なのだ。落ち着いて構えていろ、という方が土台無理である。

 ともかく夫人の手を借りて、ラドは早々に寝かしつかせることに成功した。とは言え、どうにもただ見守っているというのも心許なく、寝台傍らの小机に水を張った桶を持ち込み、手拭を濡らしては額に乗せてみたりなど試みているが、効果があるのかは定かでない。返す返すも、寝る前に夫人が用意してくれた、熱冷ましの薬湯を飲ませ損ねたのが悔やまれる。効き目は折り紙つきだという薬湯は苦さも相応であったらしく、お子様は頑なに拒んで嫌がったので、終ぞ飲ませるには至らなかったのだ。

 今更に口を突いて出たため息のせいで、余計陰鬱な気分になってきた。暗がりの中、何とはなしに時計を見てみれば、時刻は既に零時を回っている。あのろくでもない竜の為に、明日の休みはまさかの帳消しとなり、出勤を命じられる羽目になってしまった。街中であれだけの大騒ぎになってしまっただけに、事後処理やら何やら、悪夢のように忙しくなることは目に見えている。

 明日も、過酷な一日になることだろう。隣に眠るこどもの世話を焼くのもほどほどにして、早々に睡眠に入り、体力の回復に努めるべきだ。それは、分かっているのだが。

「……ろー?」

 かすかな声が聞こえ、閉じるだけ閉じていた目を開く。桶を置いた小机には、光量を絞った夜光石のランプも置いてある。普段の暗闇よりもわずかに明るい部屋の中、熱に潤んだこどもの眼が、俺に向いているのが見えた。

「どうした?」

 低く囁く声で問い返してみれば、「あつい」という訴え。手を伸ばして、こどもの額の上に乗せた手拭に触れてみれば、確かにぬるくなっていた。

 身体を起こし、手拭を取り上げて桶に浸す。保冷術式の施された桶に注がれた水は、氷を浮かべておいたこともあり、未だしっかりと冷たい。

 冷たい水を充分に含ませてから、軽く絞った手拭を畳み直し、こどもの額に載せる。

「つめたい」

「もう少しぬるい方がいいか」

「だいじょぶ」

 そうか、と答え、再び横になって目を閉じようとすると、

「ろー」

「うん?」

「なーうれら なに?」

「……聞いていたのか」

 うん、と肯定する声は小さい。

 薄闇の中、俺を見つめる眼は、知らぬ間にぱっちりと開いていた。よもや、完全に目を覚ましてしまったのではあるまいな……。

「気になるのか」

 軽率に会話に乗って、完全に覚醒させてしまうのも躊躇われたが、こればかりは「後でな」と誤魔化し半分の先延ばしにできることでもない。

 ナーウレラの地に関する昔話は、喋る俺にとってはもちろんのこと、聞く方にしても楽しい話ではないはずだ。しかし、熱に浮かされたこどもの願いを一蹴してしまうのも、どこか後ろめたい――などと思ってしまうくらいには、俺もこのちびすけに絆されてしまっているらしかった。

「面白くない話だぞ」

「うん」

「それでも聞きたいのか」

「うん」

 頷いての返事は蚊の鳴くような小ささではあったが、じっと据えられた眼差しには、話を聞くまでは目を閉じないとばかりの強情さもにじみ出ていた。

「……仕方がないな」

 軽く息を吐いて、すぐ傍で横になっているラドに向き直る。頭の下に腕を入れて、少し角度をつけると、じっと見つめてくるこどもの顔がよく見えた。

「ナーウレラは、この街からずっと南の、海に面した小さな都市だった」

 俺がその街に配属されたのは、もう十年以上も昔のことだ。バイアットのように、養成学校を出て最初に割り当てられた場所。

「お前が生まれる遥か前、俺がまだ騎士団に名を連ねて間もない頃。あれは、そう――あれも、初夏のことだったな」

 南方のナーウレラは夏の暑さの厳しいことでも知られ、涼しい東方で生まれ育った俺は、初夏といえど茹だるような暑さに辟易していたものだった。

「〈翼虎〉のことは、どれくらい知っている?」

「そら から くる。てき」

「そうだ。どのような仕掛けがあるのかは分からんが、天に浮かぶ雲を前兆として、奴らは現れる。その数は事前に知る術などなく、どれほどの規模で襲ってくるかなど、運に任せるしかない」

 あの日のナーウレラの空は、一面の曇りだった。奴らはその雲を通じて、まるで空を埋め尽くさんばかりに押し寄せた。

 今も、あの光景を忘れることはない。灰色の曇天を背に飛来する、無数の黒い陰影。街中に響き渡った急を告げる鐘の音と、人々の恐怖の叫び。

「ナーウレラは、小さな街でな。騎士団も、リィリャの半分くらいの規模だった。俺たちは全戦力を投入して撃退を図ったが、初めから数で負けていて、その劣勢を引っくり返せるような奇跡も起こりやしなかった。最寄りの街に求めた援軍も間に合わず、人も竜も食い散らかされ、騎士団は壊滅した。わずか一昼夜で、街はものの見事に廃墟と化した」

「ろー けが した?」

 熱で赤らんだ顔で、ただでさえ潤んだ目に更に水分を溜めて、ラドが問い掛けてくる。何でお前が泣きそうになっているんだ、と少しおかしな気分で、仰向けになったこどもの額に手を伸ばす。

「それは、まあ、多少はな」

 身動ぎのお陰でずれた手拭いを戻しながら、軽く答える。街一つが丸々壊滅するような事態だ。もちろん俺も無傷でなどいられなかったが、後に残るようなひどい負傷もせずに済んだのは、それこそ奇跡というものだったのかもしれない。

「あの時の俺は本当に、ナーウレラに着任したばかりで、まだ〈竜謡士〉として組む相手も決まっていなかった。要するに、戦力外だった訳だ。右も左も分からないでいる間に、先達の〈竜謡士〉が空に上がっていって、次々と怪我をして戻ってきてな。ひたすらに〈癒復謡〉を歌って、医療兵の真似事ばかりしていた。だが、そうしているうちに、どんどん戻ってくる数が減っていくんだ。十騎いたものが八騎になり、五騎になり、やがて誰も戻らなくなる。そんなことを何度も繰り返しているうちに、街や本部の防衛に奔走していた歩兵部隊や弓兵部隊までもが磨り潰されていった。……あの時は、心底恐ろしかったな。虎共が迫ってくることがじゃなく、周りにいた仲間が戻らなくなることが。いつの間にか少しずつ数を減らしていって、やがて自分だけが取り残されるのではないかと、それだけが堪らなく怖かった」

 今振り返ってみても、あの時は終ぞ死ぬことや食われることを恐れはしなかったように思う。ただひたすらに、自分が独り、あの地獄めいた光景の中に取り残されていくのが耐えがたかった。

 そこまで語って、一息吐く。昔語りなど、久しくした覚えがない。ちくちくと胸郭の内側を刺すような痛みを持て余していると、濡れた手拭いを触って少し湿った指を、小さな手が握るのが分かった。

「ろー かなしい?」

「悲しい……いや、悲しかった、と言うべきだろうな。今はもう、それほどでもない」

 鮮血を噴き出すような生傷も、十年以上の時が経てば少しずつ風化するものだ。振り返って、誰かに語れるようになる。思い起こすことで、かすかな疼痛を覚えることは、間々あるとしても。

「まあ、そういう経緯で俺はナーウレラの災厄を生き延びて――『取り残された』訳だ。お前と同じではないが、通ずる境遇と言えなくもない。だから、ルヴェカヴァの奴は『傷の舐め合い』だとか何とか言ったんだろう。……お前が本当に気になっていたのも、そこだったんじゃないのか?」

「……うん」

 小さな声で頷き、もぞもぞと身じろぎをしたラドがすり寄ってくる。横を向いたせいで手拭いが落ちたので、拾って適当に投げておいた。敷布まで濡れるのは御免だ。ばちゃ、と水音がしたので、少なくとも水に触れる程度には命中したらしい。

「ひとり で おいて かれる かなしい」

「そうだな」

「ろー おいて かない?」

「……ああ。お喋りは終わりだ、もう寝ろ」

 うん、ともう一度頷くと、ラドは大人しく目を閉じた。話を聞いて満足したからか、思いの外早くに寝息が聞こえ始める。多少なりとも睡眠をとって回復してきたのだろう、呼吸も穏やかだ。

 ほっと息を吐いて、俺もまた目を瞑る。ただ、眠りの波は早々訪れてくれそうになかった。気が昂っている、ということでもないだろうが。

 ――結局、あの日の俺は、たった独りでこそないものの、ほんの一握りの生存者の一人として壊滅した街の中から救い出された。全てが終わった後に到着した、心底から渇望した援軍によって。

 当時はその結末に思うところも少なからずあり、遣る瀬無い感慨を抱えたりもしたものだが、突き詰めれば、どうしようもない話でしかなかったのだ。

 ナーウレラは小さな街で、お世辞にも規模が大きいとは言えない騎士団しか備えがなかった。援軍を求めた街は最寄りと言えど遠く離れていて、およそ十分でない戦力では、それが到着するまで持ちこたえることができなかった。

 どうしようもなかったのだ。誰にも、何にも。

 だから、一々思い悩んで囚われても仕方がない。そう思って、生きてきた。これからも、そうやって生きていく――つもりではある、のだが。

 まずいな、と内心で独白する。慣れない昔語りなどしてしまったせいで、頭の中が感傷的になりすぎている。このままでは、つられて夢見さえ悪くなりそうだ。夜が明けて本部に出向けば、また今回の件に関する報告で、お偉方の前に引き出されるに違いないだろうというのに。

 少しでも、休んでおかなければ。そう思うのに、思考は過去と現在を行きつ戻りするばかりで、微睡すらもが遠い。……ああ、そう、現在と言えば。

「置いて行かない、か」

 つい肯定してしまったが、あれはいつか必ず嘘になることだろう。人間と竜は初めから生きる時間が異なり、〈高位種〉ともなれば、尚のこと差は大きく開く。それは神ならざる人や竜には、手の届きようもない時の流れの問題だ。

 それに、俺が特定の竜と組まない主義であることを伝えれば、またラドは臍を曲げるか、最悪の場合には泣くだろう。その時に、どうしたものか。こればかりは、未だ上手い手が考えつかない。正直に言って、割と本気で困ってすらいる。

 それでも、俺は特定の誰とも組みたいとは思わないのだ。誰かに自分の中身を明け渡す覚悟をしようと、どうしても思えない。

 その根底にあるのは、後に「災厄」と名付けられたほどの、陰惨な夜の記憶を明かすことへの恐怖ではない。それによる拒絶を恐れているのでもない。ただ、俺が自分自身を信用しきれていないだけだ。

 あの惨劇の夜を生き延びて、だからこそ、この命は奴らを滅ぼす為に、国と民を守る為に使おうと決めた。――だが、自分の中身を全て明け渡しても良いとまで思った相手から、再び「取り残された」時。

 それでも、まだ俺は戦い続けられるだろうか。十余年経って、あの時の記憶と感情が風化したとしても、再び味わった時に正気でいられるか。

 俺には、その自信がなかった。



 翌朝にはラドの熱もすっかり下がり、俺は若干寝不足ではあったものの、指示通り騎士団本部へと足を運んだ。できればラドには宿でサシピリオ卿夫人の下で大人しく休んでいてもらいたかったが、今日も強硬に別離を拒んだので、仕方なしにいつも通り同行させることにした。

 まずは第九竜騎小隊の執務室に赴き、朝礼に兼ねて昨日の緊急出動を労いつつ、今後の予定について伝える。ルヴェカヴァが騎士団の警備網を掻い潜って侵入を果たした件や、奴の言動から得られた情報については、この後開かれる会議にて情報共有が図られる見込みであること。一連の事件の情報収集と分析には騎士団長直下の情報部隊が動いており、直接迎撃に出た我が隊にも呼び出しがかかる可能性があるが、本日は全員鍛錬や哨戒任務もなしの待機扱いである為、適宜応じること、等々……。

「何か質問や意見がある者は」

 ひとしきり述べた後に呼びかけてみるも、挙手はなし。会議の時間も迫っていたこともあり、そのまま朝礼は閉会とすることにした。

「では、各自行動に移れ。特に仕事のない者は、緊急の指令が出た場合に即応できる用意さえあれば、寛いでいて構わん。――ザザキリ、ラドを頼んでいいか」

「もっちろん!」

「えー」

 自席の傍らに起立していた隊員たちが、席に着くなり移動をするなりの行動を開始する中、ザザキリが俺の執務机へと足取りも軽くやってくる。まあ、正しくは俺の机にではなく、俺の席の椅子に陣取っているラドが目当てだが。

 退屈そうに俺の椅子に座っていたラドは、歩み寄ってきたザザキリと俺を見比べ、唇を尖らせる。

「ろー どこ いく?」

「俺はこれから会議だ。今はザザキリに構ってもらえ。また後でな」

 むう、とラドが不服げな膨れっ面を作る。その頭をがしゃがしゃと撫でてやれば、

「ろー いつも あとでな いう」

「ちゃんと後で構ってやってるだろう」

「そー だけ ど!!」

「はいはい、そこまでにしましょうねえ」

 ばっさりと会話を断ち切り、ザザキリがラドを抱き上げる。

 ザザキリは、俺やユガーネと同じくらいの年頃の人型を取る、毛先に向かって金に変じる赤い髪と同じ色合いの鱗を持つ火竜だ。手先が器用で、持ち前の長い髪をいつも複雑な形に編み込んでいる。最近は、ラドがその恩恵に与ることも多い。

「戻ってきて、時間ができたら構ってやる。それまでは、また髪でも編んでもらっていろ。――ユガーネ、行くぞ」

「はいよォ」

 間延びした声で答えたユガーネが、大股に歩み寄ってくる。その名前を聞き、姿を目にした瞬間、ラドの表情が一変した。

「ゆがーね も いく!? ずるい!!」

 あからさまに駄々をこねる時の顔になって、こどもが叫ぶ。どうしてこいつは、こんなにもユガーネに対抗心を持っているんだかな……。

「ずるくねェよ。お前と違って、俺は出来る竜なんだよ。頼まなくてもお呼びが掛かるって訳」

 で、相変わらず大人げない竜は、一々こどもの神経を逆撫でするようなことを言う、と。

 全く、毎回毎回面倒で仕方がない。どちらも少しは自重というものを覚えないのか。思わずため息を吐けば、「ユガーネ」とザザキリの呆れ声。

「あんた、一々煽るの止めなさいよ。だから嫌われるんじゃない」

「さてなァ」

「ほら、ラド、膨れっ面しないの。隊長に『行ってらっしゃい』って」

「……いってらっしゃい」

 露骨に渋々とした送り出す言葉に苦笑しつつ、ユガーネを伴って執務室を後にする。

 さて――鬼が出るか、蛇が出るか。

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