5:幕間の空

 リィリャ竜謡騎士団の本部には、竜が飛び立つ為の滑走路が、東西南北にそれぞれ一つずつ整備されている。我々第四大隊第九竜騎小隊が日常的に利用するのは、東にある第三滑走路だ。

 ラドの面倒を見るようになって、今日で早くも一週間が経過した。七日ぶりに足を踏み入れた滑走路は、何一つ変わっていないはずだというのに、妙に懐かしいような感慨を抱かされる。

 だが、航空任務における制服たる飛行服――常用のものと異なる暗緑色で統一され、耐寒、耐圧等の保護魔術が幾重にも施されている――に袖を通し、風防眼鏡ゴーグルを装着してしまえば、他愛ない感傷など息を吐く間にどこかへ消えていった。

 今回の任務は、リィリャ南西のサナメ村上空を含む空域の哨戒だ。突然の方針変えでも起こしていない限り、〈翼虎〉は同じ場所に十日と空けず出現することはない。ゼセンタデナ一派の根城となっていた渓谷からもさほど離れていない空域であるので、連中と遭遇する確率は限りなく低いと思われた。

「休み明けの試運転にはもってこいだな」

〈だからって、居眠りなんぞすんなよ〉

 軽口を叩くユガーネも、既に準備は万端だ。

滑走路には、背に載せる鞍や、翼に掛ける手綱を始めとした装備一式を管理する部隊や、帰還した者を迎える医療部隊など、多岐にわたる人員が配備されている。人間が飛行服に着替える間に滑走路へ先行していた竜は、すっかり離陸準備を終えていた。

「お前こそだ。誰に物を言ってる」

〈七日ぶりに飛ぶ隊長様にだよ。俺の背にあって、情けねェ格好晒すんじゃねェぞ〉

「要らん心配だ」

 言い返しながら、周囲からちらほらと注がれる視線を何とはなしに見返す。どれもこれも決まって歳若い隊員で、一様に物珍しげな顔をしていた。おそらく、この春に入隊したばかりなのだろう。

 竜の姿では人の言葉が発声できないが、竜の言葉もまた、人の身で発せるものではない。それぞれが違う言葉を用いているのに意思疎通ができていると見える様子は、〈竜謡士〉でない者からすると、初めの内はひどく不思議に感じられるものらしい。

 もっとも、それも竜謡騎士団にあっては、ありきたり極まりない光景だ。彼らも遠からず慣れて、目もくれなくなるに違いない。

「ともかく、そろそろ任務開始時間だ。私語は終わりにしろ」

〈へいへい、了解っと〉

 南西空域には、俺とユガーネの一班、ガズザカとバイアットの二班で赴く。当然ながら、一班の班長は俺だ。二班はバイアットがまだ若いこともあり、リィリャに配属されて二十年近くになる熟練の竜であるガズザカに班長を任せてある。

 俺がユガーネの背に上がれば、バイアットも続いてガズザカの背に上がる。きちんと鞍に収まり、鞍帯で身体を固定する様子を確認してから、号令を発した。

「――離陸!」

 ユガーネが助走を始め、空を打つ翼が風を掴む。ぐらりとした、慣れた浮遊感に包まれると、瞬く間に地上は遥か足元へと遠ざかっていった。

 竜は空における最速の称号を、〈翼虎〉と争うほどの高速飛翔能力を誇る。その最中にあっては、音声での会話などできようはずもない。ここからはユガーネとは思念対話で、バイアットとは通信術式でもって意思の疎通を行うことになる。

 左耳に装着した通信術具の確認を兼ねて、バイアットへと呼び掛けた。

『こちらガザート。バイアット、調子はどうだ』

『問題ありません!』

『結構、では目的の空域へと向かう。――管制、よろしく頼む』

 任務中の通信術具は、任務に向かう隊員と、担当の管制部隊とが同時に会話ができるよう、術具間の連携が調整されている。

 呼びかけると、即座に答えが返ってきた。

『かしこまりました。本日の管制は、第三管制部隊が担当致します。まずは針路を南へ。三十分以内に目標空域へ到着するよう、調整願います』

『了解した』

 空における任務は、地上での場合に比べ、遥かに自己の位置や敵の居場所の把握が難しい。その助けとなるのが、管制部隊だった。

 騎士団では、リィリャを中心とした広大な空域を作用範囲に含める、大規模な対空感知術式を常時展開することによって、広範囲の索敵を可能としている。この術式によって得られた情報の分析と分類を行い、各竜騎小隊に伝えるのが、管制部隊の大きな役目の一つだった。

とはいえ、さすがにリィリャ竜謡騎士団の防衛領域全てを、感知術式で覆いきることはできない。現在の作用範囲ですら、動力源たる魔力の確保や、遠方まで術式を届ける中継設備の敷設などの兼ね合いで、限界に近い状態であると聞く。つまり、任務で出向く空域の全てで感知術式の恩恵を受けられる訳ではない。その作用範囲内から出てしまうと、得られる情報はがくんと減ってしまうのだが、それでも管制からもたらされる情報は総じて有用であり、頼りになる第三の目であることは間違いなかった。

『バイアット、一班で先導する。後に続け』

 短く告げ、ユガーネに針路と速度の指示を出しながら、手綱を握り直す。ゴーグル越しに見やった空は、目が痛くなるほどに青かった。



 果たして、航空哨戒任務は無事に終了した。

 予想通り、〈翼虎〉の出現はなし。晴れ渡った空はひたすらに穏やかであり、地上から手を振る村人に手を振り返す余裕すらあった。時折地上に降りての休憩を挟みながらの哨戒は二時間ばかり、帰還するとちょうど昼時である。

 こういう時こそ、職権乱用のし時だ。報告書の記入は後回しにすることにして、昼食を優先する指示を出せば、バイアットは分かり易く喜び、ユガーネは「相変わらずじゃねェの」とにやつく。ガズザカは、そんな同僚たちを微笑ましげに見守っていた。人の姿を取ると細身の中年の男になる彼は、第九竜駆小隊における最年長の竜でもあった。

「いいのかよ、隊長殿がそんな許可出して」

「権力とは、上手く使う為にあるものだ」

「言うねェ」

 何はともあれ、昼食だ。久々に飛んだこともあって、ひどく腹が空いている。冷やかすユガーネの相手もそこそこに、流れで二人と二頭連れ立って滑走路を後にした。面倒なので、飛行服から着替えるのも後に回すことにする。

 まず向かうは、執務室。ラドを回収し、その足で食堂に向かう――

「……何だ、その反応は」

 はずだった、のだが。

 執務室で手すきの隊員に構われていたラドは、俺が部屋に入るなり、愕然とした表情を浮かべて硬直した。青く煌めく眼が、こぼれんばかりに見開かれている。

未だかつてない反応に、思わず隣に立っていたバイアットを見てしまったが、訳が分からないとばかりの表情で首を横に振られただけだったので、何一つ助けにはならない。振る相手を間違えた。

 そして、戸惑っている間にも、

「ろおぉおのばかぁああぁあああ!!」

 何故か詰られた。しかも泣き叫ばれた。何故だ。後、やっぱりお前要らん語彙だけ増えてないか? 誰が仕込んでいるのやら、些か気になるところではあるが……候補が多過ぎるな。何しろ、うちの連中は一癖も二癖もある者ばかりだ。

 突然の異常事態に、ついつい思考が明後日の方向へ逸れかける。その時、ぬうっと背後から首を伸ばしてくる男の顔が、視界の端に映った。

「あーあー、やっちまったなァ。こりゃ、ちびすけの奴、一丁前に妬いてんだ」

 背後から文字通りに顔を出したユガーネが、人もとい竜の悪い笑みを浮かべて嘯く。……妬く?

「お前から他の竜おれのにおいがするんで、怒ってんのさ。あのちび、お前を親父だと思ってんのか、兄貴だとでも思ってんのかは知らんが、ともかく取られた気になってんだろォよ」

「何だそれは」

「ちびの竜ほど、そうやって妬くもんなんだよ」

 なァ、と周知の事実を語るような口振りで言ったユガーネが、更にガズザカへと話を振る。まさかのガズザカまで、「そうだな」と苦笑を浮かべて肯定してくるので、一層に驚いた。何だそれは。

 ため息を吐いて、執務室の中に踏み込む。お決まりの部屋の隅の絨毯の上で、こどもは熊のぬいぐるみ――知らぬ間にザザキリが与えていた――を振り回して泣き叫んでいた。子守役を頼んでいたデイジー・ガードナーも、すっかり困り顔である。全く、駄々っ子か。いや、駄々っ子だが。

「ガードナー、世話を掛けたな。任務ご苦労、ここからは俺が引き取る」

「いえ、とんでもないです」

 ラドの保護については、第四大隊長であるファースを通して、正式に第九竜騎小隊に与えられた任務という扱いになった。こどもの世話には、何かと手間も費用がかかる。その辺りに対する補填なども鑑みて、急遽取り計らわれた結果だった。

 恐縮した風で頭を振るガードナーは、今年二十三になったばかりの物静かな娘だ。ラドはそもそも人見知りをしない性質であるらしいが、ガードナーにも普通に懐いているらしく、これまでに度々絵本を読んでくれるようせがむ姿が見られた。

しかし、今のラドは、どうにもご機嫌斜めであるらしい。ガードナーが抱き上げようと手を伸ばすものの、身をよじって逃げるばかりだ。

「ラド、昼飯を食いに行くぞ。泣くのは後にしろ」

 俺が絨毯の縁に膝をついて声を掛けても、びゃーびゃーと泣いているばかりで、動く気配が微塵もない。どうしろというんだ、これを。

「ラド」

 ため息を吐――きたいのは本音だが、さすがにそれは悪手だろう。

「ラド」

真っ直ぐに顔を見て、もう一度呼び掛ける。

すると、泣き叫んで熊を振り回す挙動は変わらないまでも、こどもは自ら歩み寄ってきた。足音は、やけにドスドスとしていたが。……地団駄を踏みながら歩いてくるとは、器用だなお前。

「よし、行くぞ」

 充分に近寄ってきたところで、腕を伸ばして確保する。仕方がないので、ぬいぐるみも一緒に抱えあげてやった。また服を液体まみれにされては適わないので、そのまま脇に抱える。

そうして立ち上がって踵を返してみれば、バイアットがあんぐりと口を開けていた。

「良いんすか、それで!?」

「良いも何も、いつまでも付き合っていたら飯が食えんだろう」

「いつまでもの以前に、端っから付き合う気なかったろォが」

「俺は腹が減っているんだ」

「隊長って、時々よく分かんねーっす……」

「そういうこともある」

「お前はそういうことしかねェよ」

「心外だな」

 歩き出そうとして、ふと気付く。このままでは、あの隊員が一人執務室に残されることになる。

「ガードナー、俺達は食堂に飯を食いに行くが、お前も一緒に来るか」

 肩越しに振り返って、こどもが散らかした絨毯の上を整頓していた隊員に声を掛ける。彼女はきょとんとした風で、

「執務室が無人になってしまいますが……」

「二時間も三時間も留守にする訳でもなし、構わんだろう。――おい、熊で人を叩くな。腕でももげても知らんぞ。ザザキリがくれたんだろう」

 小脇に抱えたラドは、性懲りもなく手に握ったぬいぐるみを振り回して俺を攻撃していたが、贈り主の名前に反応してか、その一言で大人しくなった。頬を膨らませた、ぶすくれた顔で、うーうー唸ってはいるものの。

「おう、ちょっと借りるぜ」

 その時、不意に脇に抱えていたこどもが引き抜かれた。ユガーネがラドの首根っこを掴んで、引きずり出したのだ。首を掴んで持ち上げられたこどもの身体が、道連れになった熊のぬいぐるみと一緒にぷらりと中空に揺れる。

ぎょっと目を見開き、血相を変えたガードナーが「ユガーネさん!」と慌てた声を出したものの、下手人は「いーから、いーからァ」と意に介さない。

「ちびすけよォ。そんないつまでも膨れっ面してんじゃねェぞ」

「うるさい。ゆがーね いじわる。きらい」

「悲しいこと言うじゃないの」

 第九竜騎小隊の隊員については、ラドは概ね懐いている。その数少ない例外が、ユガーネだった。

 相性が良い悪いの話ではなく、むしろユガーネこそ構いたがりの節があるのだが、どうもその方向性がラドの求めるものではないらしい。怒らせることも頻繁であった結果、こうして「きらい」などと言われている訳だが、言われている方は愉快そうにしているので、関わるのも面倒くさい。俺としては、度が過ぎない限り、静観に留める気でいる。

ユガーネも、これで加減は弁えた男だ。問題までは起こさんだろうし、お世辞にも趣味が良いとは言えないが、奴なりに楽しんでいるようにも見える。そんなところに横から口を突っ込むのも、やはり面倒くさい。

「ガザートはウチの隊の隊長でよォ、お前一頭っきりのもんじゃねェんだ。しょうがねェだろ。それが嫌だったら、とっととデカくなって、戦い方でも覚えて、自分と組ませるんだなァ」

「くむ?」

「こいつを背中に乗せて飛ぶんだよ。あァ、お前、竜に戻れねェんだったか? それじゃ駄目だな。それに、そのちんまいナリじゃ、まともに戦えねェだろうし……残念、こりゃ望みなしだわなァ」

 嬉々として言うユガーネの声色には、明らかに煽る響きがあった。何を考えているのか――いや、何を意図しているのかは分かるが、それをしてどうするというのか。

 黙って横から眺めていると、ラドの眼がぎらりと光るのが見えた。青に金に煌く灰の眼が、ぎらぎらと輝いている。そうして、

「つよ く なる! はやく おおき く なる もん!!」

 力一杯に吠えられた言葉に、ユガーネはにんまりと笑った。

「そーかそーかァ。そんじゃ、俺が直々に鍛えてやろォじゃねェの」

「やだ。ゆがーね きらい。ろー が いい」

「馬ァ鹿。言ったろォが。ガザートの奴は忙しいんだよ。俺で我慢しときな」

 ラドは幼くはあるが、〈高位種〉の竜を母に持つだけあってか、時に俺の考えている以上に賢く、見掛けに不釣り合いなまでの聞き分けの良さを見せることがあった。今もまさに唇を尖らせ、全身で不満を表現してユガーネを睨んでいながらも、拒否の言葉ばかりは口にせずにいる。

「分かったら、そのべしゃべしゃの面ァ、姉ちゃんに拭いてもらえや」

 そう言うや、ユガーネはラドをガードナーに押し付けた。ラドの散らかした後片付けを終えて近寄ってきたタイミングと相俟って、見事こどもを受け取ってしまった彼女は、また困惑しきった顔で俺とユガーネの顔を見比べている。

「少し相手を頼む」

「りょ、了解しました」

 生真面目な顔で頷いて見せるや、ガードナーはポケットから取り出したハンカチでラドの顔を拭き始めた。更に、ちびすけが大人しくされるがままになっている隙を狙って、バイアットが「これは置いてこうなー」とぬいぐるみを回収し、流れるような受け渡しでガズザカが絨毯の上に戻す。いい連携だ。

 下手に喋って、再び膨れっ面の子供を刺激してしまっても厄介だ。手振りで移動開始を伝え、歩き出す。今は不在にしている隊員は公休を取っている者と、他部隊との合同訓練に出ている者とまちまちだが、出払っている間に戻ってこないとも限らない。上に知られたらお説教の一つでも頂戴するかもしれないが、鍵はかけずに行くことにした。まあ、鍵の代わりに別の保険はかけてはあることだ。

「――で、どういうつもりだ?」

 昼を過ぎて、やや賑やかさを増した感のある廊下を歩みながら、傍らに並ぶ竜に問い掛ける。ユガーネは、未だ愉快そうににやけていた。

「何、このご時勢だ。戦力は多いに越したこたねェだろ。人間との混血とは言え、〈高位種〉にして、あの〈魔竜〉の直系だ。しかも、あの〈魔竜〉は遡れば竜王の遠縁に行きつく。血統としちゃあ、相当のもんだぜ。その娘なんだ、鍛えりゃ相当使えるようになるだろォよ」

「ほう、お前がそんなご立派な騎士のような考えを持っていたとは驚きだ」

「何だァ、知らなかったのか? 俺はちゃんと騎士団って奴に所属してんだぜ」

「それは初耳だ。今年最大の驚きだな」

「冗談はともかく、俺ァこれから暇を見て、ちびすけを鍛えてみる。良いだろ? 良くも悪くも、あの素性は注目されるぜ。疎まれるにしろ、迎えられるにしろ、力には自覚的であった方がいい。更に言うなら、研ぎ澄まされていればいるほどいい。少なくとも、自分の身は守れるからなァ」

「……まあ、一理なくもないか。分かった。その点に関しては、お前の裁量に任せる。俺には、竜の教育は分からんからな」

「あいよォ、任された。そん代わり、大隊長への報告は頼むわ」

「話はしてみる。何と言われるかは知らんが」

 そんなやり取りをしていると、後方で笑声が弾けた。ラドを抱いたガードナー、バイアット、ガズザカは、俺達のすぐ後ろに続いている。ちらと視線を向けてみたところ、何やらバイアットがラドをあやしているようだ。少しは機嫌も治ったか……?

「何を言われるか、ねェ。上の連中も馬鹿じゃねェんだ。さすがに向こうの挙動がおかしいことには気付いてんだろ。それを見越しての戦力増強なら、文句は出ねェさ」

 打って変わった低い声でユガーネが呟き、後方へ向けていた意識が引き戻される。

 本来の体躯からして並外れた巨大さを誇るユガーネは、人の姿を取って尚、俺より頭半分近く背が高い。ファースに勝るとも劣らない背丈は、おそらくは二メートルヤーキをゆうに越す。その高所から見下ろす眼は、刃のように鋭利な光を帯びていた。

「お前も気付いてんだろ」

「まあな」

 隠す必要もない。軽く返してやれば、ユガーネはにたりと唇に獰猛な笑みを刷く。

「〈翼虎〉共は、これまで街しか襲わねェと相場が決まってた。だが、あの谷の有様はどうしたよ。竜の群れが潜んでたから、特別に狙ったか? いィや、連中にそんな頭はありゃしねェ。山も川も飛び越して、真っ直ぐに人の街か竜の集落を狙う。それが千年前からのお決まりだった。だろ?」

「ああ。〈翼虎〉が直接襲うのは、一定以上の規模を持つ街や集落に限られる。それは長年の記録から導き出された、純然たる事実だ。それを踏まえるのならば、あの『巣』は襲われるはずはない。それだけの規模に達していない」

「おうともよ。リィリャにゃァ僥倖だったが、あれは有り得るはずのねェことだった。飛んできて食い散らかすだけの獣が、探るだけの知能を千年かけて獲得したのか――それとも、探索の指示を出せるような頭を持った突然変異体でも現れたか。真相は分かりゃしねェが、窮地ってのは些細な異変を見逃すことで、気付かねェでいるうちに忍び寄るもんだ。警戒し過ぎるくらいでちょうどいい」

 そうだな、と相槌を打とうとした時――

「だから、何でお前は人によじ登るんだ」

 後ろから上着を掴まれたかと思えば、人の脚裏に躊躇いなく靴裏を押し付けてくる感触。ぐいぐいと服を引っ張っては人の背中を登り進んできた小さな怪物が、ひょこりと肩口から顔を出す。

全く、こればかりは何度止せと言っても聞く耳を持たずに困る。背中に足跡つけてないだろうな。普段の黒い制服と違って、まだそこまで目立ちやしないだろうが……。背中に足跡をつけるだとか、そんな愉快な格好でうろつく趣味は、俺にはないぞ。

「ろー かま え!!」

 しかし、犯人は俺の心配もお構いなし。吐いてみせたため息もどこ吹く風、まるっきり人の話を聞いていない顔で主張してくるのだ。人の話はきちんと聞けと、これもいつも言ってるはずだがな。

「後でな。それから、今度はどこでそんな要求を覚えてきた?」

「ざざきり おそわった! ろー! いつも それ いう!! あとでな ばっかり!」

「俺は腹が減ってるんだ」

「むきー!!」

「おっと、かじるなよ」

 襟を掴んで口に入れそうな仕草が見えたので、それをされる前に大きく身体を前に倒す。ころりと一回転して肩の上から転げ落ちたちびすけは、床に落ちる前に捕まえて、再び小脇へ抱え直しておいた。

その対応がご不満だったらしく、こどもは何やかやと叫んでいたが、今の俺は腹が減っているので適当に聞き流させてもらう。さて、今日の日替わり定食の献立は何だったか。

「隊長、すっかり扱い慣れてきてんすなあ」

「羨ましければ代わってやるぞ」

 しみじみとした声で言ってきたバイアットにはそう答えたが、「遠慮しときまーす」とあっさり拒否された。残念だ。……まあ、冗談だが。

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