第十話 アンジュ

 時は三か月ほど前にさかのぼる。


 エゼルバルドとヒルダが馬車護衛の依頼を受けた時、一人の女性の人生を狂わす事件が起きてしまった。商機を武器に急成長した商人へと嫁ぐ予定であったの……。だが、結婚を約束された愛しい男性から突如、結婚を白紙にすると、狭い村の中で声高々に言われてしまった。そしてしばらくの間、食事も受け付けずただただ泣き崩れるしかなかった。


 その女性はアンジュと言った。

 七日程泣きはらしたアンジュは何を思ったのか一つ、宣言をした。


「お母さま、私決心しました。あの男に復讐をいたします。その為にはどんな事でもして見せます。たとえ火の中であろうと水の中であろうと。そして、善なるものは何かを世に問いてみます」


 殺人予告と見られる宣言だった。それは違う方向に力を向けているのではないかと、アンジュの母は思うのだが、塞ぎ込んで涙を流すよりよっぽとマシではないかと思い、それ以上は言わなかった。

 だが、この事が強力な暗殺者を誕生させるなど今の時点では誰も知る由も無かったのだが。




 まずアンジュは走った。走って走って、走りまくった。

 何をするにも体力だと血を吐く程走った。それでも止めず、ひたすら走り回った。それが正しいのかわからずにひたすらと。

 おおよそ二十日、サマビルで有名になる程、走り回った。


 体はボロボロになったが、走り続けることが出来るようになり、想像もつかない程の外見と化してしまった。美しかった顔立ちも、眼光鋭く獲物を狩る目を持つ獣の顔立ちとなり、近づく者は攻撃の対象だと思われるほどにだ。

 元の顔立ちは美人であった為、その後は美しき影など呼ばれるのだが、それはここでは関係ないだろう。


 この時点で体力は素晴らしくなったが、他の技術が伴わない事はアンジュ自身、百も承知だった。特に武器を持つ事をしたことが無く、普通の町娘として育ったのだ。誰から見ても当然の事であった。

 これから師事する事を確実に自分の物にする為に今まで走り続けたのだ。体力が無ければそこで終わってしまう。そうならない為に自分を追い込んでいた。


 それが実を結ぶのはトルニア王国に多大な功績があった人々が自治領として受けたキール自治領の首都ラルナに着いてからだった。噂で聞いた事があったが、確実にいるとは思わなかった人物がそこにいた。


 老齢のその人、老人はこの世から去る事を望んでいた。今まで数多くの弟子を輩出してきたが、その全てが世間に背を向けて生きるための道具としてしか己を見ていなかった。己を売り込み、名を成すためだけ。

 その様な弟子しか生まれなかった事を恥として、弟子を取らぬことすでに数十年経っていた。


 あと数年すれば老人は老衰にてこの世を去るだろう。いや、もしかしたら病気で数か月の命かも知れない。今だ眼光鋭い顔立ちに、現役として通用するかと思うのだが、その腕を教える事はしないと誓っていた。ここにアンジュが現れるまでは。


 アンジュがラルナに船で到着したのは五月の半ば過ぎ。復讐に燃えるアンジュには退屈な船旅であったが、過酷に課した自分の体を休めるには丁度良い時間だった。


 ラルナに着いたアンジュがその老人を探しだす。この様な過去を持つ老人はたいてい名前を偽ったり、住所が違う場合が多いのだが、なぜか名前も住所も隠す事なくその場にいた。運がいいことに到着したその日に見つけることが出来た。


「私はアンジュと申します。老師、私に技を教えてください。復讐したい者がいるのです」


 アンジュは老人を心を込めて”老師”と呼んだ。雰囲気だけで分かる、高みにいるその老人から習いたい。あの者に復讐をするにはどうしても必要だと。


「復讐して何になる」


 アンジュに問う老人。問いたがどのような答えが出ても教える気はない。諦めてもらう他の選択肢は無いのだが。


「私の心に決着を付けたいのです」

「それなら自分で行動せず、人を雇えば良いのではないか?」

「それでは私の心が晴れません」


 自分の心に正直に生きる、それは素晴らしい。だが、人を手に掛ける事を推奨しているわけでは無い。

 心が晴れても、穴の開いた心は元に戻らない。老人には苦い思い出があった。

 その為にも、ただの復讐には力を貸す事はできない。


「それはお前の独り善がりだ」

「それでもお願いします」

「では聞くが、お前がワシから教わった後、どうするのだ。その技を使って、別の者も同じようにその手で裁くのか?」

「……恐らくそうなるでしょう」


 アンジュの答えは裏家業で生きる。そう宣言している事になる。それならば答えは当然、


「なら教えることはできんな。帰るがいい」


 老人の顔にはいっそうの険しさが表に出る。

 もう話すことなどないと、そのまま追い出そうとしたのだが、アンジュは今までの体制からひれ伏すように老人に向かって言った。


「ですが、私の様な不幸な女を増やしたくないのです。私の力は弱い者を守る力でありたいと。権力や金の力を笠に着る不埒な者達へ対抗する力となりたい。表では善人の顔をして、裏ではあくどい悪者の顔。その天敵となりたい」


 まさに土下座の姿勢である。足をたたんで座る文化の無いこの地方では経験のない座り方だ。老人は幾度か見た事のある姿勢ではあったが、辛い事は百も承知だ。

 それでも願いを聞き入れる事はできない。


「……」

「老師……」


 老人はその場から動かないアンジュをどうすればよいのかわからなかった。ピクリとも動かないアンジュからは並々ならぬ気配が漂ってくる。


「……」

「…老師……お願いします」


 言葉が出てきたのはすでに夜の帳が降りてきてからだった。何時間、同じ姿勢だったのだろう。ついに、老人は負けた。アンジュの思いに負けたのだ。


「わかったわい。老い先短いこの老体に鞭打って教えてやるわい」

「ありがとうございます」

「くれぐれも、力の使い方を間違えるな」


”力の使い方を間違えるな”、老人の元から去るその日まで毎日聞かされるその言葉だが、アンジュは死ぬまで忘れなかったと言う。




 次の日からアンジュの修業は始まった。

 体力しか取り柄の無いアンジュは技を覚える以前に力が弱かった。腕や指の力が弱く。棒を振り回す事さえ苦労していた。

 その為、一か月は筋力をつける訓練だけをしていた。


「老師、いつまで続ければよろしいのですか?」

「馬鹿者が。その腕力で教える事が出来る訳無かろう。最低でもその石を指だけで振り回せるまでだ。文句を言わず続けろ」


 老師の修業は厳しい。

 アンジュの腕力は十キロほどの石であっても持つことが出来なかった。

 その石を持って走り回れるまで一か月を要したのだ。両手それぞれに持てるまで。


 石を持つことが出来て初めて次に進むことが出来た。


 重い棒を振り回す修行。

 持ったまま腕を真正面に伸ばすだけの修業。

 足さばきの修業。

 体にぶつけられる痛みを我慢する修業。


 体はさらにボロボロになり、痣が無い場所を見つけるのが困難なくらい。

 それでもアンジュは音を上げる事が無く、痛みをこらえながら修業を続けていた。


 老師はここまですれば音を上げるはずと考えていたのだが、その辛抱強さに恐怖した。

 もしかしたら教えてはいけない者に教えているのかもしれないと。


 十日が経った。痣は無くなる事は無かったが、少しずつ、技の修業を入れて行った。

 短剣、ナイフの使い方。

 人から出る気配の察し方。

 武器に頼らずに人を制圧する方法、等々。


 だが、技をマスターするには時間が無かった。

 老師が倒れたのだ。




 老師が倒れたその夜の事。


「老師、お体はどうですか」


 倒れた老師を部屋に運び、心配そうに話しかける。

 あんなに生気に満ちていた体から、弱々しい生気しか出ていない。

 見ているアンジュも辛い。何とかして老師に元気になってもらいたいと。

 そして、修業を再開し全ての技を吸収し、老師に安心させたい。。


「自分の体だ。自分が一番よく分かっている。もう先は無いな。世話になった。それに最後にお前に会えて良かったと思っている」


 言葉遣いも弱く、初めて会った老師と同じとは思えない程だった。


「そんな事を言わずに。元気になって、もっと鍛えてください」

「もう、教える事はできん。寿命じゃ。その代わりだが、机の引き出しを開けてくれるか」


 老師が指した先には、絶対に触ってはいけないと言われていた机だ。一つしかない引き出しを開けると、二冊のノートだけが入っていた。アンジュは手に取ると不思議そうに眺めた。


「これは?」

「修業の途中で終わる事はわかっていたのだ。すべてを教える前にいなくなると、な」

「えっ?」


 老師の突然の告白にアンジュは驚きを隠せない。寿命が尽きる事を予知していた事を。


「だから、修業の方法と技をそれに記しておいた。お前はまだ未熟だ、技を使う事すらできないだろう。力を付けてから、そこからが本当の始まりだ」

「ハイ、老師」


 涙目になりながらも気丈にふるまい、思いを込めて返事をする。


「修業はここでなくとも出来る。続ける事だ。お前に言った事、覚えているか」

「”力の使い方を間違えるな”ですね。毎日聞いています。忘れるわけがありません」


 天井を見上げる老師が一点を見つめながらアンジュに再度問う。

 アンジュは答える、毎日言い続けていた力の向かう先を示すその言葉を。


「そうだ。それを忘れなければ、お前の力はもっと強くなる。慢心した時、お前はお前に殺されるだろう」

「肝に銘じます」

「それでよい。少し疲れた、眠っても良いか?」

「では明朝、またお寄りいたします」

「よろしく頼む」


 アンジュが老師と話をしたのはそれが最後となった。

 翌朝、老師の元を訪れると、もぬけの殻であった。何処へ行ったのか、何時移動したのか、まったくわからなかったのだ。


 だが、老師と別れた夜遅く、大陸全土から大きな流れ星が空から落ちるのが観測された。アンジュが見たかは定かではないが。




 老師がいなくなり、その意味を察したアンジュはラルナから離れる事を決意し、母親の住む王都アールストへ戻る事を決意する。王都にはアンジュを地の底へ突き落した憎いアイツがいる。まだ、手を出すには早い。修行をしなければ逆にあいつに殺されるだけだ、と。




 王都へ戻ったアンジュを迎えた家族はその変わり様に驚いた。

 気立ての良い、笑顔の素敵な娘に育てたはず。それなのに、面影は無く、獲物を狙う眼光はすれ違う人でさえも恐怖させるほど。


 アンジュの母は明るい娘はいなくなった、そう思う事にした。だが、自分の娘を蔑にすることも突き放すこともせず、いつも通りに接するその姿は家族の考えさえも徐々に変えていく。




 その数か月後、アンジュが事件を起こすのだが、それは闇に葬られ知られることは無かった。一部の協力する人を除いて……。

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