液体

 ウーヴァは路地の隙間から覗く黒い筒と男の顔をじっと見つめていた。男はこちらに筒を向けているものの、視線はこちらにない。誰かと話しているのか、斜にに傾いている。

「ウーヴァ。どうかした?」

「動かないでください」

 頬の清潔なガーゼを貼られながら、ココノアは視線だけでウーヴァを見た。彼が先程からこちらを見ていないことに気付いたのだ。

 ウーヴァは彼女の手を握ったまま、反対の手で少し先を指差す。

「あそこ。変な人」

 ココノアがその指先をなぞり、男と筒に気付いた。シューナが「これで冷やしてください」と氷袋を差し出したが、受け取らずに立ち上がる。その動きに気付いて男がこちらを向いた。

「――さっきの」

 彼女と目があった男が筒を持ち直したのか、僅かに筒が揺れた。そして、先程まで漠然とこちらを向いていただけのそれから、ただならぬ予感がしてぞくりを背中を冷やす。明確にこちらを線上に捉えたのだと感じた瞬間、ココノアはシューナの頭を押して伏せさせた。

「ウーヴァ!」

 突然のことに「なんですか!」と戸惑いと怒りを混ぜたシューナを無視し、ココノアは自身も頭を下げながらウーヴァの手を引こうとして――、

 ばふん、と間抜けな音がした。

 それから僅かに遅れて彼女らの頭上を何かが放射線状に通り過ぎた。小さな球体だ、と脳が理解した頃には彼女のすぐ近くに伸びていた街路樹へそれが衝突した。球体は割れやすいものだったらしく、ガラスの砕けるような音がして中から液体が飛び散った。

 飛び散った液体は街路樹の幹に垂れるよりも、散った火花と反応して燃え上がるほうが早い。

「……流石の僕でもあれに当たったら燃えるかな」

『馬鹿なこと言ってないで逃げておくれよ、俺のココ!』

 思わずぼやいたココノアに、ツィーネからの叱責が即座に飛んできた。彼女はちろりと唇を舐め、シューナとウーヴァから手を離す。

 シューナは燃える街路樹を見て目をまん丸にし、魚のように口をぱくぱくさせていた。

「体勢を低くしたまま、ここから離れて」

 そう言いながらココノアがすらりと立ち上がる。筒はまだこちらを向いている。

『あんな遅い弾、僕に当たるわけない』

『ココ!』

 ツィーネの強い声が聞こえるが、ココノアは無視して足に力をこめて走り出す――その瞬間、ウーヴァが彼女の手を掴んだ。

「ココちゃん、危ねえよ」

 ココノアが抵抗するよりも早く、ウーヴァがぐいと腕を強く引いた。尻もちをつかされたココノアが彼を見上げると、彼の深緑の瞳に入りこむ光がぐっと減っているのが分かった。ただでさえ薄暗いジェードを映す瞳は黒い筒に染まっている。

「ウーヴァ――」

 落ち着いて、とココノアが言葉を繋げるよりも先にウーヴァが走り出していた。

「ウーヴァ!」

 ココノアの手が空を切る。慌てて腰を上げて彼を追う。

『あんなやつのために無茶なんかしないでおくれよ、俺のココ!』

『嫌な目をしてた! さあて、双剣もクアルツもない僕に止められるかな!』

 ツィーネの思いが金切り声のように軋み、心を締め付ける。息苦しさを錯覚させる声に、ぐらりと意思が傾きかけた。

『ツィーネ! 僕が負けるわけない!』

 力強く、普段以上に自分へ言い聞かせるように心に叫ぶ。そして、二発目を放とうとしている男に向けて「撃つな!」と声で叫ぶ。

 足の速いウーヴァがあっという間に男に辿り着く。

 ココノアからは男の表情しか見えなかった。ウーヴァがどのような顔をしているかは見えないが、男の目に恐怖が浮かんだのが分かっただけで十分である。

『行かないでおくれよ、俺のココ! どうして!』

『いいから黙って! 集中出来ないから――っと!』

 ウーヴァに手が届く。首筋を引っ掴み、後ろへ引っ張ると彼の顎が上がって体勢が崩れる。そのまま彼を背に回し、揺れている筒に向けて蹴りをお見舞いした。

 男の手から筒がごとりと落ちる。

「君は幸運だね。彼より僕の方が理性的だ」

 ココノアが僅かに笑みを浮かべ、首を傾げた。後ろの髪がばさりと揺れ、頬の腫れが歪む。今更逃げようとする男の手首を掴み、力一杯に握る。

 ちろりと視線を奥に向けると、もう一人が全力で逃げ去っていくのが見える。ウーヴァをそちらへ走らせたいが、今の彼は側から離したくない。

「こいつら! ココちゃんを怪我させた奴らと一緒! それに、ココちゃんを狙った……! 許さねえ。ココちゃんを傷つけるやつは、嫌いだ、許さない――嫌いだ――!」

 ウーヴァが威嚇する犬のように顔を歪めるので、ココノアはなんとか落ち着かせなければと手に力をこめながら眉を寄せる。

「僕はそんなことを望んでないよ、ウーヴァ」

 そう返した瞬間、元いた方向から悲鳴があがった。男に膝を突かせてからそちらへ顔を向けると、煙を吹いていた四輪車が燃え上がっているのが見えた。かなり激しく燃え上がり、周囲に居た人たちも煙を吸わないよう口元に手を当てて大慌てで離れていく。

「元からあっちが狙いか……!」

 この場所から街路樹を挟んだ場所にちょうど四輪車がある。この男は四輪車に狙いを定めそこねて街路樹に当ててしまったらしい。

 混乱している様子を見て、男をウーヴァに任せてそちらに行くべきかと考えをぐるりと一周巡らせたところで――。

 パスン。

 空気をこするような音がして、男の体が大きく揺れた。

「わ」

 気の抜けた、ウーヴァの声。

 ココノアは男の体から急に力が抜けたことに対応できず、そのまま体勢を崩して男の体に手を突く。

「え」

 その男から大量の血液が垂れ流され、足元に広がっていく。

 何が起きたのか理解できず、ココノアが硬直する。

 そんな彼女をウーヴァ抱きかかえるようにしてそこから離れた。肩に担がれたココノアが、ウーヴァの背中をぎゅっと握る。

「今、の――人が、――? 僕の、下で――」

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