傷口

 ココノアが男と仲良く四輪車から離れると、白の煙が段々と黒くなっていく。

「あんなので僕を殴ろうとしたのか……」

 後からぞっとしたココノアは周囲へちらりと目を流す。流石に騒ぎに気付いた住人たちが不安そうな顔で窓を覗いたり、外へ出てきたりしていた。通行人のあまりいない路地であるため、車の近くには誰もいない。

「しまった。一人、見逃した」

 四輪車に乗っていた三人のうち、一人の姿は見えない。ガラス瓶を持ち出した男はココノアが同じ方向に逃げてきたことに気付いて、足を絡まらせるのではないかと心配になるほど慌てた様子で彼女に背を向けている。もう一人は彼女とは反対方向に逃げ、路地を曲がっていくのが見えた。

 せめて一人だけでも捕まえよう、とココノアが鈍くさい走り方をしている男へ向かう。

「逃げる前に、目的か何かくらいは吐いてほしいな!」

 男が着ているフードを引っつかむと、男が低い声でうめいて後ろへ体を傾けた。足は前へ進もうとしているためバランスが崩れてしまう。

「きゅ、急になんなんだよ!」

「昨日急に追いかけられた僕らも『なんなんだよ』って感じだったよ」

 男が振り返りざまに割れたガラス瓶を振り回す。ココノアが体を反らして避けるが、頬にぴっと赤い傷が入った。ココノアはぴくと顔を歪めたが怯むことなく、持ったままだったフードを下方向へぐいと引っ張った。男の頭が強制的に下がる。

 ココノアは男の横っ面を拳で一発ぶん殴り、次いで手首を叩いてガラス瓶を落とさせた。瓶が割れた際に液体が散ったのか、男の服には水玉模様に跡が残っている。

 人が触れてはいけないものなのでは、とココノアが顔をしかめながら後ろになった喫茶店の方へ顔を向ける。ウーヴァはまだ出てきておらず、セジャに連絡がついたのかは分からない。

 ミドリの研究所からそう離れていないため、連絡がつくよりも先に彼女が出てくる可能性もある。そうすれば彼女が必要なことをしてくれるはずだ。

 男がココノアを振り払おうと腕を振り回すので、ココノアはその手首を掴んで捻り上げる。力では敵わずとも関節の方向さえ考えれば、ある程度の体格差は無視して押さえつけられる自信が彼女にはあった。

『ウーヴァくらい力がないと、僕からは逃げられない』

 その彼と相対することを考え、眉を寄せる。彼が一体なんのためにあそこまで訓練されているのかは分からないし、その実力をどうやって発揮してきたのかも今は何も分からない。

『あいつのことばかりだね、ジェードに来てから』

 するりと割り込んできたツィーネの思考にココノアはふっと息を吐く。

『そんなことないよ』

 男の膝裏を踏み、その場に跪かせる。

『ただ、利用するなら彼を知っておくべきだし、扱い方ももっと覚えなくちゃいけない。あんなのに歯向かわれるなんて嫌だからね』

「ウーヴァ!」

 ココノアが男の背中に膝を突き、頭を左手で押さえて体重をかける。

 喫茶店から出てきたところのウーヴァはココノアの大声を聞いて走ってきた。

「ココちゃん! ココちゃん、怪我、して……」

「これくらいなんてことない。ウーヴァ、この人を押さえていて。逃しちゃ駄目だよ。僕はもう一人を追いかける」

「でも、怪我――」

 頬の傷が気になるのか、ウーヴァがおろおろと視線を泳がせる。

「大丈夫」

 狼狽える彼の手をココノアがぎゅっと掴んだ。そのままその手を男の背に持っていく。

「よし、そのまま押さえる。逃さないようにね。――セジャは? もう来るって?」

「セジャちゃん、もう部屋から出てるって」

「分かった。じゃあセジャが出てきたら上手に説明してあげて」

 ウーヴァの頭をぽんと叩いたココノアが立ち上がり、もう一人が逃げた陽へ顔を向ける。気付いた時には姿を消していた一人は何処へ隠れたか分からないが、運がよければ影くらいは見つけられるかもしれない。

「ココちゃん」

「じゃ、任せたよ」

 ココノアは頬の傷も忘れて走り出した。



 暫く走ったココノアが立ち止まり、周囲に視線を這わしながら両手を膝に突いた。

『……見つからない』

『あれから時間も立ってるし、見つからなくて当然だと思うよ、俺のココ』

 呻くようなココノアの思いに、ツィーネはからからに乾いた声を沸かせた。

 ココノアが頭を左右に振ると、髪束がばさばさと揺れて首元をくすぐった。

『僕もそう思う。さっきの場所に戻ろう』

 顎に垂れた汗をぐいと拭った彼女は背中を伸ばした。どこかに隠れられてしまえば見つけるのは難しい。それに、ウーヴァが上手く説明出来ているとも思えないし、戻らなければならなかった。

『……地上だったら絶対に逃さなかったのに』

 ココノアが奥歯を噛みしめる。

 精霊ツィーネから得ているクアルツの強大さを思いながら、踵を返して元の場所へ駆けていった。

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