水
ココノアがシャワーを浴びて再度つなぎを着て部屋に戻ると、ウーヴァが左側のベッドで大きな体を曲げて眠っていた。すやすやと眠る様子がそれこそ実家で飼っていた大型犬を思い出させる穏やかさで、ココノアは小さく笑う。
彼女に良く懐いていた、収穫間際の小麦のような色の毛をした犬だった。彼女が生まれる前から家の住人だった彼はもういない。
「ウーヴァ」
名前を呼ぶ。しかし、褐色の肌をした犬はぴくりとも動かなかった。
ココノアはそれに満足したように赤目を細め、音もなくにこりと微笑む。そして、腰で巻いた袖を少しだけ緩め――本当なら肌着と下着だけで寝てしまいたかったが、流石に我慢した――、空いたベッドに潜り込んだ。
『もう寝るのかな、俺のココ』
彼女がシャワーを浴びている間ずっと喋り続けたツィーネはある程度まで機嫌が戻ってきていた。軽い声が心の奥でぷくぷくと泡立つ。
『寝るよ。昨日は夜更かしだったからね』
乾ききっていない髪のまま、枕に沈む。腰の位置にある結び目が邪魔で何度か身動きしたが、落ち着く位置を見つけて目を閉じた。
『明日には帰るよ。――おやすみ、ツィーネ』
『おやすみ。俺のココ』
「お水、値段ついてる」
何もない夜を越え、朝からツィーネのご機嫌を取り、ココノアは宿から出ていた。セジャとの合流までもう少し時間があるが、彼女らは研究所近くの喫茶店で朝食がてら時間を潰している。
ココノアが冷たいミルクをごくごくと飲みながら、机にたてられた小さなメニュー表へ目を向ける。
二種類ある朝食のセットは飲み物を一つ選べるのだが、その選択肢に水が含まれている。地上のアメシストであれば水に価格設定をしている店はまずないが、この店では他の飲み物と同等の値段がついていた。
「ジェードでは飲み水は貴重だからね」
「きちょー?」
「大切に使わないとすぐになくなってしまうってこと」
ウーヴァがまんまるに焼けたパンケーキにフォークを突き刺し、窓の外を見た。水晶に覆われた空は薄暗く、昨日の煌めく美しさはどこへやら、だ。
「水、そこにあんのに」
「海水はそのまま飲めないよ。海に落ちた時、口に入らなかった?」
ココノアが笑い、シリアルにミルクを混ぜずにガリガリと噛み砕く。穀物を潰したものに小さなドライフルーツが混ざっていて僅かに甘い。砕いたシリアルを飲み込み、再びミルクで口の中を洗い流す。
彼女がミルクのほのかな甘さを味わっている間に、ウーヴァは海水のしょっぱさを思い出したらしい。顔のパーツを真ん中に寄せるようにしかめた。
「まずかった」
「あはは。飲めない理由が分かったかな。……うーんと、地上だと水の保存容器にお金がかかるくらいだけど、ジェードはそうもいかない」
「なんで?」
ココノアは床を叩くように足を鳴らす。
「ジェードは水晶に覆われていて、地下水を引ける場所もない。水晶に穴を開けたらこの覆われた空間に意味がなくなる」
ココノアがシリアルをスプーンに山盛りすくい、口に入れる。小石の上でも歩くような音を聞きながら、ウーヴァは布団のように柔らかいパンケーキを切り分けた。
「じゃあ、水がねえの?」
小石を飲み込んだココノアが空っぽになった皿へスプーンを置いた。カツンと乾いた音がする。
「そう。だから買ってるのさ」
そして、残っていたミルクを一気に飲み干し、ぷはっと息をついた。
「ジェードに来る時、階段を降りたのは覚えてる? あの入り口の手前の……横に扉があったことには気付かなかったかな」
ウーヴァが首を降るのを見てからココノアは頬杖を突く。
「その扉の奥には、まーっすぐ地上に向かって空いた穴があるんだ。地上から見れば井戸みたいな感じかな」
ココノアは先程のウーヴァと同じように窓の外へ目を向ける。朝とは思えないほど薄暗く、気分まで陰らせる天井だ。
「階段で運べない重たい物なんかはその井戸を使ってやりとりするんだ。地上の綺麗な水も井戸で下ろしてもらうんだよ。ジェードでも汲んできた海水で真水を作ってるけど間に合わないんだってさ。だから、その分だけここでは水が貴重だし、その分高くなる」
ウーヴァはオレンジジュースの酸っぱさにきゅっと体をすくめ、瞬きをしながら首を傾げた。
「地上の水はなんで飲めるんだ?」
「ここと同じだよ。海水を飲み水に変えてるだけ。ただ、こういうことは自然の力であるクアルツを用いた方が効率がいいらしいよ」
ココノアはウーヴァの皿とコップが空になったのを見て立ち上がった。ポケットから半分に畳んだ財布を取り出し、代金に少し上乗せした金額をおいておく。ウーヴァが几帳面に皿やコップを等間隔に並べるのを見ながら立ち上がった。
「よし、そろそろセジャと合流の時間だ。――ごちそうさま」
彼女が奥にいる店員に声を掛けると、ウーヴァも真似して「ごちそうさま!」と奥に笑顔を向けた。店員が軽く頭を下げたのを背に、扉をくぐって外へ出る。
水晶越しの薄暗い空。きっと地上では雨が降っているか、そうでなくとも分厚い雲が空を覆っているのだろう。波がうねるような天気ではないようだが、海の中の光は色を深く染めていた。
「――ココちゃん」
ツィーネは洗濯物を入れてくれただろうかとココノアが考えながら、ウーヴァへ顔を向けた。
「どうかした?」
「あの四輪車、変じゃねえ?」
そういうウーヴァが見ているのはここジェードで時折走っている四輪車だ。後ろに大人四人は乗れるほどの荷台スペースがあり、人だけではなく荷物を運ぶためによく使われているタイプだ。
普段ならなんの違和感もない四輪車が変だと言われる理由に、ココノアはすぐに気付いた。
「ウーヴァ。喫茶店に戻ってミドリの研究室に電話をかけてもらっておいで。セジャの研究室に繋いでもらって、セジャには早く外へ出てこいって言って」
「で、でも……」
渋るウーヴァのすぐ横でココノアがしゃがみ込み、スニーカーの靴紐をきつく結び直す。
「何かあったらすぐに呼ぶよ。僕が君を呼んだら、電話の途中でもすぐに出ておいで」
ココノアが立ち上がり、まだ戸惑った様子のウーヴァを喫茶店の方へ押した。同時に四輪車に向かう。体勢を低くして四輪車の後ろへ回り、車体番号を隠す黒い布をめくって番号を覚えた。
そうしている間も中の男たちはココノアに気付くことなく、車外にもお喋りが僅かに漏れていた。
ココノアはウーヴァが店に戻ったのを見てから、腰を伸ばして中を覗き見た。運転席には誰も座っておらず、助手席に一人、後ろには荷物に囲まれた二人がいるだけだ。
再び顔を引っ込めてから深呼吸を一つ。運転席に回ってから、ひょいっと顔を出した。助手席の男と目が合い、男がきょとんとするのでにっこりと笑い返す。
ココノアは右手でドアを引く用意をしながら、左手で窓をこつこつと叩いた。助手席の男が後ろに座った男にちらちらと視線を送りながら「何か?」と口を開く。
「こんにちは。昨日は僕たちと追いかけっこをしたね。今日は何と追いかけっこの予定かな」
男たちの目に戸惑いが一瞬浮かんだが、すぐに合点がいったようだ。大きく目を見開いた助手席の男が慌てて運転席に来ようとするので、ココノアはドアを引いた。
「悪いことをしている自覚があるなら鍵くらいかけておくべきじゃないかなあ」
ココノアが呑気に助言しながらハンドルの下に差し込まれている鍵を引っこ抜いた。後ろに座っていた男が大荷物の中から、炭をぎゅっと圧縮したようなざらりとした黒の塊を取り出したのが目の端に映り、ココノアはすぐに頭を引っ込める。そのまま助手席の男が伸ばしてきた手から逃げ、思い切りドアを強く閉めた。
男たちの罵声を聞かず、ココノアは四輪車の前へ移動する。下部を思い切りがんっと蹴飛ばせば、動力部を隠すボンネットがぱかんと開いた。
『えーっと。どれを引っこ抜けば動かなくなるってセジャは言っていたっけ』
『俺が覚えてるわけないよ、俺のココ』
以前教えてもらった仕組みを思い出そうとして、ココノアが首を傾げる。見れば思い出すかと思ったが、そうは簡単にはいかなかったらしい。
『セジャもバンガスもよくこんなものを理解して説明出来るもんだよ』
そう言いながらもココノアがしゃがみ込むと、ようやく降りてきた男が振り上げたガラス瓶が空振った。
「そうだ。これって中を燃やして動くんだっけ」
ココノアは四輪車に対して爆発しそうだ、と感想を持ったことを思い出す。そして、男がわめきながら振り上げたガラス瓶には透明の液体が入っているのが見えた。
『燃やしてるんなら、水をかければ動かなくなるかな。湿気たマッチみたいに』
思いついた瞬間にはもう動いていた。改めて斜めに振り下ろされてきたガラス瓶の軌道から逃げ、男の手を四輪車の方へ押して軌道を変えさせた。
ガシャンと派手な音を立ててガラスが砕け、四輪車には液体がかかった。
これで燃えなくなれば足を奪える、とココノアが期待の目を四輪車の方へ向ける。そして、しうしうと煙が立ち上がるのを見た。異質な匂いに思わず鼻をつまむ。
「え、もしかして中身って水じゃなかった?」
男が慌てて逃げ出したのに続き、ココノアも真似するように車から離れた。
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