契約更新
宿スミレに戻ってきたココノアはウーヴァに虫刺されの薬を塗った後、最近かかりきりになっている腕輪に模様を彫っていたのだが――
「……三分の二は残ってる」
夕食前の時間になって、ココノアは腕輪を放り出して床に座っていた。覆いかぶさってくるツィーネを両手で必死に押し返している。
「だけど減ったよ、俺のココ」
「明後日はセジャに仕事を頼まれてるんだ。今日明日で倒れてたら支障が出る。せめて仕事が終わってからに――」
「嫌だよ」
「ジェードじゃクアルツも使えないし、今日は注がなくたって――」
ツィーネの手がひたりとココノアの腹に触れた。
そこからぞくりと力が抜けていき、ココノアが後ろへ倒れこむ。
「ツィーネ!」
「どうしたのかな、俺のココ」
ツィーネがココノアの生命力を食らい、その対価にクアルツを注ぎ込む。力が抜けていく感覚に、ココノアは嫌がるように首を腕を振るうが力が入らない。
「ツィーネ……!」
「俺のココ。心を動かさないでおくれよ、あんな男に」
意識が遠くへ落ちていくのを感じながら、仰向けに倒れたままココノアが小さく頷く。
「俺のココ。あんなにベタベタしないでおくれよ、あんな男と」
なんとかツィーネの服を掴み、ココノアが僅かに頭を持ち上げる。
「俺のココ。心を許さないでおくれよ、あんな男に」
「わ、かった……。分かった、から。ツィーネ、もう、やめ……」
かすれた声でココノアが懇願すると、ツィーネはクアルツを注ぐのをやめて彼女を抱き起こした。彼女の頭部が重さに負けてがくりと垂れ下がる。
「俺のココ。俺にだけ、心をおくれよ」
ココノアが開いた唇を動かして何か言おうとしたが、声が出る前に彼女は意識を手放した。
「ココちゃんが元気ねえの、俺のせい?」
ココノアは今にも眠りそうな頭を左手で支え、フォークを持ったままの右手を揺らした。
「違う。気にしないで……」
そう言うココノアは皿に乗った鶏肉をフォークで突き刺そうとして、全く見当違いなところへぶつけた。カツンと音がたち、賑やかな食堂の音に混ざる。
「僕、この後、少し寝るから……明日は、セジャと……ええと、セジャ、と……」
何かを話そうとしていたココノアだが、額を支えていた左手が滑り、がくんと頭を揺らした。その衝撃で一時的に意識をはきりさせたのか、ココノアは一旦フォークを手放して両手で目元を覆って天井を仰ぐ。
「あー……駄目だ! 頭が寝てる! ――ウーヴァ。明日はセジャとジェードに行く前の打ち合わせがあるから出かけないようにしておいてくれるかな」
必要なことだけを一気に喋ったココノアはウーヴァの返事を聞かずにフォークを掴み取り、その勢いのまま大きな鶏肉の塊を口に押し込んだ。あまり噛まず、水で流し込むようにして飲み込む。
「わ、分かった」
ウーヴァは突然始まったココノアのフードファイターばりの豪快な食べ方に狼狽えているようだったが、その彼女は自分が眠りに落ちてしまうまえに食事を終えようと必死である。
気絶して一晩二晩と寝込むほどの生命力は奪われていないし、クアルツも注がれていない。しかし、気を抜けばいつ眠りに落ちてもおかしくない程度には消耗している。
「ココ君、そんなにお腹減ってるの? 時間があるなら明後日の話もしたいんだけど」
ココノアは背後から声をかけてきたセジャに顔も向けず、断るように左手を振った。
「俺のココは食欲じゃなくて眠気と戦ってるみたいだよ。明日が約束だったのなら明日にしておくれよ」
「ああ、うん。別に構わないんだけど……。チー君、また? この間もしてなかった?」
ツィーネはセジャの質問に答える前に、勢いを失ってうとうとし始めたココノアの肩を揺らす。しかし、彼女は手からフォークが床へ落ち、ぐらりと体が前へ傾けた。
「この間もしたよ」
ココノアが食事の残った皿へ顔を突っ込むより先に、ツィーネは彼女を支えていた。
「ココちゃん? ココちゃん、どうした? ココちゃん?」
ウーヴァの動揺を無視したツィーネは眠ってしまったココノアを両腕ですくうようにして持ち上げた。
「それじゃ、おやすみ」
「チー君! 明日の朝にはちゃんとココ君を起こしてよ! 仕事の話なんだから!」
「俺のココのためならそうするよ」
「ココちゃん、おやすみ? なんで?」
一人置いてけぼりのウーヴァが視線を迷子にしているので、セジャは可哀想に思ってココノアが座っていた席についた。その間にツィーネは何も気にせず食堂を抜けていく。
「あ、レクトさん! 私、いつもの! ……ま、大丈夫大丈夫。ああやって食事に下りてくる程度なら明日には元気だよ。――それにしてもチー君の機嫌悪いねー。ウー君、ココ君に何したのさ」
セジャの問に、ウーヴァはしょぼんと肩を落として午前中にあった出来事を彼女に説明した。
ウーヴァのたどたどしい説明が終わる頃、セジャが注文した麺と肉を混ぜたものが運ばれてきた。セジャは彼にココノアが残していったものも食べていいよと勧めて押しやる。
「なるほどねー。……ええっと。ココ君とチー君が契約を結んでるっていうのは分かる?」
「クアルツをツィーネからもらうってココちゃんが言ってた」
「うん、そうそう。それで、クアルツを貰う代わりにココ君は生命力をツィーネにあげてるんだよ。お互いそれを了承して契約を結んでるのさ。――ま、あんな強引な契約を継続するココ君もココ君だと思うけどね」
セジャの説明の後半は溜息が混ぜ込まれていて、彼女は麺と肉を絡めるようぐるぐるとかき混ぜている。
「普通はクアルツを使い切ってから、契約を更新するのかやめるのかって話になるんだけどさ。……チー君はココ君の気を引きたいのか、ほんの少しクアルツが減っただけでも契約を更新しようとするところがあるんだよね。私が見てる限りだけど」
ウーヴァが曖昧に頷きながら、ココノアの皿の上を片付け始める。
その彼の下手なフォークの使い方を見て、セジャは苦笑して手を伸ばした。フォークの持ち方を直してやりながら「ココ君、こういうこと全然気付かないよねー」と溜息。
「セジャちゃん……。契約って、嫌なこと?」
フォークの持ち方を直されながら、ウーヴァが首を傾げた。セジャの手が止まる。
「どうだろうね。だけどココ君は好きでやってるんだと思うよ。子供の頃にチー君と契約を結んでからずっとそのままだって言ってたし。……契約っていうのはどちらかが嫌だと感じたら更新されないものだからね。――はい、フォークの持ち方はそのまま」
セジャも自身の食事に戻り、目を細めた。
「……あんまりココ君にべたべたしちゃ駄目だよ」
「女の子だから?」
「あはは、そうそう。ちゃんと覚えてたね。――それに、チー君の機嫌が悪くなるとココ君がこうやって無理をすることになるから、だね。チー君が嫉妬してココ君の気を引こうと契約を持ちかけて、ココ君は倒れる。……ココ君のことが好きなら、距離感を見てあげないとさ」
ココ君は黙って抱え込むところがあるから、とまではセジャは言わない。
ウーヴァは話を聞きながら口いっぱいに鶏肉を頬張り、何かを思い出そうと眉を寄せた。
「好きって、どんなものだっけ」
「……口に食べ物が入ってる間は喋っちゃいけないんだよ」
セジャは説明の難しい問いを、水で胃の中へ流し込んだ。
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