赤
宿スミレの中庭、木陰の丸太に座り込んだココノアは木製の腕輪に細かい模様を彫っていた。
ツィーネの姿はなく、ウーヴァは彼女の足元に座り込んでうとうとと船を漕いでいる。
心地よい風が吹いては汗を冷やしていき、細かい木屑を飛ばしていった。
「――ココノアさん、少しいいですか」
「いいですか」
彫刻刀が木を削る音と枝葉がこすれる音が支配する庭で、幼い声が割り込んできた。
返事をしたココノアが顔を上げると、昼間は掃除をしていたヘグとメグが立っていた。兄であるヘグの腕の中には分厚い本がある。
「先生から預かってきました。今度、リアルガーへ行く用事があるので、これを見てウーヴァさんが懐かしく感じたり、欲しいと思うものがあれば調達してくるとのことです」
「とのことです」
ヘグがすらすらと喋りながら手渡した分厚い本は、子供が見るような図鑑だった。ココノアがしっかりとそれを受け取ったのを見ると、今度はメグが先に口を開く。
「私たちがよく見ていた本なので少し褪せていますが、よろしければ目を通してみるようお伝えください」
「お伝えください」
二人が揃って頭を下げる。
「分かった。起きたら渡しておくよ」とココノアが微笑んでうたた寝をしているウーヴァの金髪を見下ろした。
ヘグとメグも彼と同じ褐色の肌をしており、それは「山の民」と呼ばれるリアルガーの民の特徴である。海の道があり、両国間の行き来があるこの当たりではそこまで珍しくはないが――とはいえ少数派には違いない――、この辺りから離れれば離れるほど珍しい肌の色になる。
「ん……」
ココノアが期限など他の話を双子としていると、ウーヴァが目を開いた。
「ウーヴァさん、こんにちは」
「こんにちは」
ヘグとメグの挨拶に、ウーヴァも「こんにちは」とオウム返しする。ぼんやりした目をしている彼に二人がぴたりと揃った会釈をしてみせた。
「私はヘグです。よろしくおねがいします」
「私はメグです。よろしくおねがいします」
ウーヴァは双子の自己紹介をぼーっと見上げていたが、ココノアが「君も自己紹介したら」と促すとはっとしたように笑顔になった。
「ウーヴァ。俺はウーヴァ。――おんなじだ。俺とおんなじ」
嬉しそうに彼が指さしたのは二人の褐色の腕だ。
「はい。私もメグもリアルガーで生まれた山の民です」
「山の民です」
二人の説明にウーヴァは「やまのたみ?」と疑問符を浮かべたが、とりあえず出身地が同じであることは理解したらしかった。宿にはヘグとメグしかこの肌の色の者はいないし、ウーヴァからすると自身だけ違う色をしているのが不思議に思っていたのかもしれない。
ココノアは楽しそうにお喋りをし始めたウーヴァに、持っていた図鑑を差し出した。
「ヘグ、メグ。時間があるなら一緒に見てやってくれないかな。僕と見るより君たちと見た方がいろんな話が出来るだろうし」
ヘグとメグはココノアの頼みに顔を見合わせた後、こくんと頷いた。二人はウーヴァの前にしゃがみ込み、あぐらをかいているウーヴァの膝の上に図鑑を広げる。
ココノアはウーヴァが「なんだこれ」と首を傾げたり「これ知ってる」と賑やかにしはじめたのを見守りながら、再び彫刻の作業に戻った。
ふと視界が悪くなってきたことに気付き、ココノアが顔を上げた。
すっかり日が傾き、空は朱色を滲ませている。
アロズ教では太陽は真上に昇る頃に加え、夕日が沈んでいく時にも祈りを捧げなければならない。ココノアが指を絡めたところでふと足元へ目を向ける。
大柄なウーヴァがまた座ったまま眠っており、その膝の上に折り重なるようにヘグとメグも昼寝に勤しんでいた。
ココノアは音もなく笑ってから、空に向かって極短い祈りを捧げた。それから静かに彫刻刀や腕輪をウエストポーチに片付け、そうっとウーヴァの肩を揺らした。
「ウーヴァ。おはよう」
「う……ココちゃん?」
「よく寝ていたね。ヘグとメグも優しく起こしてあげて」
ウーヴァを覗き込んだココノアの真っ赤な瞳が、夕焼けで更に染められていて。
「――綺麗」
彼は思わずそこへ手を伸ばしていた。
「ウーヴァ?」
しかし、その手はココノアに触れなかった。顔に触れる直前で止まっていて、ウーヴァは困惑するように指先を動かした後俯いて手を下ろす。そして、ヘグとメグを優しく揺らした。
「……ふわあ、すみません。つい、寝ちゃいました」
「……ふわあ、寝ちゃいました」
ヘグとメグが目元をこすながら顔を上げると、俯いたウーヴァの顔が夕日で赤くなっているのが見えた。
「なんだこれ」
「そういう記憶もないんだね。それともリアルガーにはトマトがない?」
「とまと。赤い。――赤いの、美味しいな」
一口サイズの小さなトマトを食べたウーヴァがサラダのトマトだけを摘んで食べていく。
「ウー君の記憶ってちぐはぐだよね。規則性も分からない。レタスは覚えてたし」
「……ウー君?」
ココノアとウーヴァと一緒に夕食を摂っているのはセジャだ。セジャはウーヴァにトマトを一つ分けてやり「ウー君」と言いながら彼を指差す。そして、彼女は手元の麺と肉をかき混ぜながら眉を寄せた。
「喋り方がたどたどしいし、記憶がどんどん消えていく病気だと嫌だなあと思ってさ。せっかく仲良くなろうっていうのに、何日か経ったら私たちのことを綺麗さっぱり忘れちゃいました、なんて寂しいでしょ。何か規則性でもあればーと思ったんだけど分からないね。ま、私は医者じゃないけどさ」
セジャの話を聞きながら、ココノアが噛んでいた鶏肉を飲み込んだ。
病気による記憶の喪失ではないことは知っているが、詳しく話すつもりもないので首を傾げてはにかむ。
「何かを思い出すなら思い出すでいいし、忘れるなら忘れるでいいよ」
「ココ君ってそういうとこほんっと我関せずだよね……。で、そんな記憶喪失なウー君は先生に何を頼んだのさ」
夕方、ウーヴァは図鑑を見ていて幾つかに強い興味を示した。ヘグとメグがそれをマイアリドに伝えているはずだ。
彼はなくなったトマトを探してサラダを真剣にかき混ぜていたが、セジャの質問はしっかり聞いていたらしい。すぐに顔を上げる。
「お人形さん。ココちゃんみてえな、赤い目の、お人形さん」
「……アイエリエス教は覚えてるの?」
「あいえりえすきょ?」
「覚えてないよ」
「うん。反応を見たら分かった」
セジャは甘辛く味付けされた麺を口に運び、隣で蒸した芋を食べているココノアをちらりと見た。彼女の口の端にソースの色がついているのが気になりながらも、ごくんと麺を飲み込む。
「ココ君がウー君の世話を焼くのはいいけどさ」
見えないが、きっと近くにいるであろうツィーネを探すようにセジャは視線を左右に振った。
「チー君は拗ねそうだよね。……ジェードにウー君を連れて行っても大丈夫なの?」
あの精霊が不機嫌だといろいろ面倒くさいんだよなあ、とセジャは考えながら鶏肉を美味しそうに頬張るウーヴァにもう一つトマトを置いてやった。
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