深緑の世界

「あー面白かった。ココ君って背も高いしスマートだし、よく間違えられてるけど。あそこまでべたべた引っ付いておいて気付かないなんてことあるんだねー。ぺったんこだから仕方ないか」

 レモンと蜂蜜を溶かした水を飲むココノアの前にいるのは、先程大笑いをしていた暗緑色のローブを着ていた女だ。部屋でローブを脱いできた彼女は紅い色が出る茶を冷やして飲んでいる。

「セジャが子供に間違えられるのと同じ問題だよ。小さいから仕方ないかな」

 ココノアがマドラーでレモンを潰しながら反撃すると、セジャと呼ばれた女は先程までの笑顔はどこへやら、仄暗いオーラを纏った。

「……だよね。身長が低いから子供に間違われる……知ってる……知ってるけど、もう伸びないんだよ……。これは科学の力ではどうにもならないんだよ……」

 セジャが独り言を茶へ溶かしているのを見ながら、ココノアはグラスを傾けた。

 ウーヴァはココノアを男だと思っていた衝撃から抜け出せないようだったが、ツィーネが引きずるようにして買い物へ連れ出してくれている。想像以上に相性が悪そうな二人を思い浮かべていると、セジャがどんよりとした顔を上げた。

「そうそう。聞きたいことがあって。ええと――四日後、一緒にジェードに来てくれる? いつもの仕事を頼みたくってさ。空いてる?」

「分かった。空いてるよ」

 セジャは水中都市ジェードにある「ミドリの研究所」に所属する科学者だ。科学とクアルツの融合を目指す研究所で、今はアメシスト側の小さな工場と契約して様々なものを開発している。

 彼女の部屋はその開発に必要な設計書や仕様書、研究所への報告書などで溢れかえっている。その大量の資料や試作機を運ぶ際に、ココノアが駆り出されるのはよくあることだ。

「ウーヴァも連れて行ってもいいかな。たぶん、ジェードのことも分かってないし、面白がると思うんだ」

 マドラーでレモンをひっかけて持ち上げたココノアは、そのすかすかになった黄色にかぶりついた。きゅっと締まる酸味に身をすくめる。

 セジャは「いいよ。申請書をもう一枚用意しておくね」と言いながら脳内の、用意しておくべきものリストにその一枚を加えた。

「それにしても、ココ君がそんなふうに他人のことを気にかけるなんて珍しいね?」

 ココノアがレモンの皮を奥歯で噛み締め、苦味を飲み込みながら首を傾げた。

「そうかな」

「そうじゃない? ココ君ってマイペースで、そういうこと考えなさそうだからさ。保釈金まで払ってあげたんでしょ、よくやるよ」

 セジャが茶を飲み干し、残った氷の欠片も口内に流し込む。氷が砕ける音を聞きながら、ココノアも残りを一気に飲み干した。口内にあった苦い皮も流し込む。

 そして、ココノアは前髪を一度だけ撫で付けるようにしてから笑った。

「大型犬みたいで可愛いよ。実家にいた犬みたいなんだ」

 実家の子はもう死んじゃったけどね、とまでは言わなかった。



「ココちゃん」

 ウーヴァの得意げな表情を見上げたココノアは、彼の隣に立つツィーネの方に顔を動かした。

「ツィーネ。何か教えたのかな」

「俺は何も。だけど、セジャが何かを吹き込んでいたよ」

 ココノアは買い物から帰ってきた二人と一緒に荷物の片付けを始めるところだった。

 その少し前にセジャがナッツを練り込んだ甘い焼き菓子を持ってきて、その際にこそこそと喋っていたのが原因らしい。

 ウーヴァは目をきらきらさせながら、ココノアの両手を掴んでぶんぶんと振る。

「ココちゃん」

「……ああ、はい。何かな」

「ココちゃんって呼んだら喜ぶってセジャちゃんが。ここのあ、嫌だったか」

 得意満面から一転、不安そうに眉を下げたウーヴァに、ココノアは小さく吹き出した。どうでもいいことを覚えたなあと呆れながら顔を傾けた。

「嫌じゃない。好きに呼んでいいよ」

『俺は気に入らないよ、馴れ馴れしくて』

 ツィーネは本音通りの顔をしていたが、生憎ウーヴァはココノアしか見ていない。ココノアの許可に再び表情を明るくしている。

 ココノアはしばらくぶんぶんと振り回される手に付き合っていたが「……そろそろ手を離して片付けをしようか」と提案した。それを聞いて動いたのはウーヴァではなくツィーネが先で、彼はウーヴァから奪い取るようにしてココノアを抱き寄せて「片付けをしようか」と彼女の言葉を繰り返した。



 荷物の片付けをしていて分かったことがあった。

「……んんん、まだ、少し変……」

 ウーヴァはものの配置にかなり強いこだわりがある、ということだ。

 ココノアとツィーネは付き合いきれず、リビングの床に座り込んでウーヴァの気が済むのを待っている。買ってきた荷物はおおよそ片付けたのだが、彼は寝室のベッドサイドテーブルとベッドをきっちり平行にしようと格闘している。

「ここまでじゃなくていいけれど、俺のココも少し見習った方がいいよ」

「それは僕の部屋が汚いって文句言ってるのかな」

 片付けが得意ではないココノアの部屋には様々なものが様々な場所に放置されている。洗ったマグカップがそのままシンクに置いてあったり、使った彫刻刀が食器棚に仕舞われていたりと、彼女自身も「どうしてこんなところに」とぼやくほどだ。

 あぐらをかいたココノアは頬杖をつき、体を前後にゆらゆらと揺らした。

「ウーヴァの部屋は汚さないように気をつけよう」

「どうして」

「怒りそうだからね。こだわりが強すぎて『こうあるべき』って思い込んで、海の道みたいなことが起きる――っていうのが僕の推測」

 考え込みながらココノアが揺れていると、奥の部屋でようやく片付けを終えたウーヴァが清々しい顔で出てきた。これで部屋のものは彼の感性に従ってきっちり並んだはずだ。

「お疲れ様、ウーヴァ。とりあえず座ってお喋りしよう」

 ココノアが手招きすると、ウーヴァが彼女の目の前にぺたりと座り込んだ。

「海の道であんなふうに怒った理由を、もう一度、ちゃんと教えてくれないかな」

 ウーヴァは問われてあの時のことを思い出したのか、むすっと唇を尖らせた。

「あの橋、すごく綺麗だった。だけど、あいつ、汚しやがった。――これくらいの、小せえ紙。落ちて、踏んで――俺の世界、汚されて」

 彼の言葉にだんだんと勢いがついていき、ココノアは水を浴びせるように「君の世界じゃないよ」と冷ややかに呟いた。それを聞いて彼が勢いよく腰を上げて彼女へ手を伸ばす。

 ウーヴァがココノアの頬に触れ、その手首はツィーネが掴んでいた。

「俺が見てるもの、俺の世界だ。ココちゃんだって、俺の世界の一部だ。綺麗なもの、気に入ったもの、汚されて、壊されて、平気なわけねえだろ――!」

 深緑の瞳に凶暴なものが宿ったのが見え、ココノアは目を細めた。ツィーネは動かない彼女をじっと見ている。

「ウーヴァ。海の道みたいなことを何度も繰り返すのなら――」

 ココノアが僅かにクアルツを放出し、ウーヴァを引き剥がした。

 床に背中をぶつけた彼の胴をまたぎ、両の手で彼の目を覆い隠す。

「僕は君の世界から消えるよ。――それが嫌なら我慢を覚えることだ。それに、世界なんてものは元から汚れているものだしね」

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