第二章 魚が泳ぐ空
宿の住人
「ここが君の部屋。僕とツィーネは隣。僕の仕事を手伝ってもらうから、出かける時は僕に声をかけるようにしてくれるかな」
宿スミレの最上階である三階、一番東の角部屋三○四号室がココノアの部屋だ。ちょうど隣の三○三号室が空きだったので、そこをウーヴァの部屋として借りることにした。
「だいたいの家具は揃ってるから、後は中身を詰めるだけだ。足りないものはこれからツィーネと買い物にいって。財布はツィーネに渡しておく」
ツィーネはあからさまに不満げな顔をしたが、ココノアは見ないことにした。この件に関しては昨夜のうちに散々文句を言われている。同じことを昼間にも繰り返すつもりはない。
宿スミレに戻ってくる最中に荷物を入れるバッグや着替えなど簡単なものはざっくり揃えてきたが、部屋で食べるものや水などは買っていない。ツィーネが買い物の役に立つかは謎だが、道案内くらいならば任せられる。
ココノアは財布をツィーネに渡し、三○三号室から出ていこうと靴に足を突っ込んだ。解けた靴紐を見てしゃがみ込む。
「僕はマイアリドさんと話があるからそっちにいるよ。何かあったら教えて。――ツィーネ。よろしく」
「……俺のココがそういうのなら」
靴紐を結んだココノアが手を振ると、不機嫌なツィーネとご機嫌なウーヴァが仲良く手を振り返した。
「ヘグ、メグ。こんにちは。先生はいるかな」
「ココノアさん、こんにちは」
「こんにちは」
ココノアがノックしたのは同じ階の西側三○一号室で、そこから出てきたのは褐色肌の少年と少女だった。
双子の兄妹ヘグとメグはぱりっとした真っ白なシャツに揃いのリボンタイを結んでいるのが常だが、掃除中だったようで今はそのリボンタイは胸ポケットに押し込まれていた。二人は口を覆うマスクを下げ、大きな碧眼でココノアを見上げた。
「掃除中ですので、先生には外で時間を潰してもらっています」
「潰してもらっています」
そう言うこの双子は三○一号室の住人ではない。先生と呼ばれる初老の男マイアリドこそがここの住人であり、彼が双子の面倒見ている――見られているのかもしれない――保護者である。
「庭か食堂にいらっしゃると思います」
「いらっしゃると思います」
日々マイアリドの世話を焼くヘグとメグに礼を言い、ココノアは目的地を一階にした。
宿スミレは二階と三階に四部屋ずつ、八部屋しかない。しかも現在はココノアやマイアリドたちのような長期利用客で殆ど埋まっていた。
すっかり顔見知りの宿の住人たちに囲まれた中で生活する気楽さを思いながら、ココノアが中庭に通じる扉を開けた。
中庭には大きな木が一本。その木陰にある丸太に腰掛けているのは、いつぞや、宿スミレを出るココノアに声をかけた男だ。
「マイアリドさん。こんにちは」
「うむ、ココノア君か。こんにちは」
本を読んでいたマイアリドは眼鏡を押し上げ、ココノアを見上げた。
ココノアは「ちょっといいかな」と尋ねながらも、返事を待たず地面に直接あぐらをかいた。
マイアリドは栞を挟んでから本を膝に置き「どうしたね」と優しい声音でココノアを促した。
「今日は連れ帰ってきたウーヴァのことと、代理契約のことで少し」
ココノアの言葉にマイアリドの視線が鋭くなった。もとより皺がある眉間に、さらに深いものが刻まれる。
「ウーヴァの記憶が食われてるみたいなんだけど、契約の痕跡がないんだ。ツィーネが気付いて、代理契約かもしれないって」
「……どこかに報告したかね」
代理契約とは本来なら精霊と人間の二人で行われる契約の間に、別の人間が入る契約だ。クアルツを注ぐ精霊とそのクアルツを得る人間、そして、代償だけを支払う人間が生まれることになる。代償を支払う人間だけが不利益を被る契約になり、身分が下の者が代理として利用されていた過去がある。
自分で支払う代償とは違って多少の無茶もしがちのこの契約は、非人道的であるとされてアメシストだけではなく大陸にある三国全てで禁止になっていた。
「いいえ。ツィーネも本当かどうかは分からないみたいだし、本人が――ウーヴァがそのこと自体の記憶も食われてるみたいで、何も覚えてないんだ」
ココノアが足に手を突き、少し体を傾ける。長い前髪が揺れ、軽く俯いたココノアの顔を隠した。
「契約どころか、クアルツが何かも覚えてないんだ」
「……真実は消されてしまった後、ということかね」
マイアリドの言葉にココノアは頷きもせず、ふくらはぎを握る指に力をこめた。
「――食われた記憶って、戻らないのかな」
質問と独り言の間をとったような呟きを、マイアリドはそうっとすくいとる。
「戻らんよ。忘れてしまったわけではないからの。――ココノア君。代理契約の件、これからどこかに報告をあげるつもりかね」
ココノアは首を左右に振り、顔にかかった前髪をなでつけた。
「リアルガーがウーヴァの引取を拒否してるんだ。あんまり深く突っ込みたくない。本人も分かってないし……。――だから、マイアリドさんにだけ言っておくよ。僕はあのままウーヴァを囲うつもり」
「わしに言ったってなんにも出来ないよ」
マイアリドの小さな呟きに、ココノアは顔をあげた。
「何も出来ないって? 僕の話をこうやって聞いて一緒に考えてくれるし、口も固い。記憶が戻らないことも教えてくれた。――それとも、報告したほうがいいかな。代理契約のこと」
溜息混じりにココノアが立ち上がった。乾いた土を払い落とす。
「わしなら本人が望まぬ限りは報告せんよ。消えた真実はどうやって浮かばんし、ないものをほじくり返されるのは辛いだろうからの」
マイアリドは木漏れ日を背負ったココノアを見上げる。逆光でよく見えないというのに、ココノアが普段どおりの控えめで穏やかな笑みを浮かべているのがなんとなく分かった。
「ありがとう。もし記憶が戻るならって少し考えたんだけど、無理ならこのままにしておく。……また何か悩んだら、こうやって話を聞いてくれるかな」
「もちろんだよ。……さあて、そろそろヘグ君とメグ君の掃除も終わるころだろうかね」
立ち上がるマイアリドから視線を外し、ココノアがぱっと後ろを振り返った。その反応から少し遅れて、庭と宿を繋ぐ扉が勢いよく開く。そして、そのままの勢いで登場したウーヴァが転がるようにしてココノアに飛びついた。
「ここのあ!」
「おかしいな……。買い物に行っておいでって言った気がするんだけど……」
せっかく立ち上がったところを押し倒されてしまったココノアは苦笑いでウーヴァの長い金髪を撫でた。
「ツィーネはどうしてるんだ――」
そう言いながらもココノアは答えを見つけていた。
突然のことに目をまん丸にして驚いているマイアリドに苦笑を見せてから首を持ち上げて扉の方を見た。暗緑色のローブを被った小柄の女と一緒にツィーネが立っている。
「あっはははは! ココ君、なかなか面白い子を連れてきたね! あはは、ひーっ、お腹が痛いっ!」
おそらくこの突撃の原因を作った女である。
ココノアがそちらへ声をかけようと口を開くのと、ウーヴァが両手でココノアの顔を挟み込むようにしたのが一緒だった。言葉にならなかった声が「むぇ」と間抜けな音になって出てくる。
「ここのあ、ここのあ。お前、女なのか」
ローブの女が、ウーヴァの真剣な疑問を聞いて腹を抱えて笑い転げた。そのウーヴァの深緑の瞳には疑問符がみっちり詰め込まれている。
ココノアはなんとか両手でウーヴァを引き剥がし、首を傾げた。後頭部でまとめられた髪が下の雑草を撫でてカサカサと音を立てる。
「あれ。訂正してなかったっけ。――うん。僕は女だよ」
ウーヴァはココノアの事実に多大なるショックを受け、目をまん丸にして硬直した。
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