過剰

 ココノアが目を覚ましたのは夜を二度またいだ後の朝だった。

「……ツィーネ。何か、した?」

「何かって?」

 白々しいツィーネの態度に、ココノアはあくびよりは溜息よりの空気を肺から押し出した。ぎゅっと絞り出した息をベッドに沈めてから額に手を当てる。

 どうにか起き上がった体が異様に重く感じるのは眠りすぎたせいか、はたまたツィーネがをしたせいか。

「クアルツが増えすぎてる」

 ココノアのぼやきを聞いたのか、ツィーネは逃げるように霧散して消えた。消え去ったツィーネを睨みつけるが彼がどこへ移動したのか、そこに留まっているのかも分からない。

 ココノアは疲れたように表情筋から力を抜き、体をベッドから下ろす。何度も深呼吸を繰り返し、調子の悪そうな顔で着替えを始める。柔らかい生地の寝巻きはしっとりと汗を吸っていた。

 小さなクローゼットから普段着を取り出し、頭と腕を通す。紐で縛るズボンを腰でしっかりと固定したところで、腹の虫が空腹を訴えた。喉もからからである。

 ボリュームのある髪を手ぐしで雑把にまとめ、ベッドサイドテーブルに置いてあった髪留めで適当に縛る。

 スリッパを無視して寝室を出ると、キッチンにはドームカバーがあった。ダイダが用意してくれた夜食だと気付いて喜々としてドームカバーを開け――すぐに閉じた。

『……ツィーネ』

 心の奥底で、低く、呻くように精霊を呼ぶ。

『どうしたのかな、俺のココ』

『僕はどれくらい寝ていたのかな』

 ぺっこりと凹んだ腹を押さえたココノアが今度は正真正銘の溜息をつく。

『二晩だよ』

 ドームカバーの中身は夏の暑さにやられ、傷んだ匂いになっていた。食べてみようと挑戦する気にもならない。

「一晩のつもりだった……。冷蔵庫に入れておいてほしかったな……」

『俺のココはダイダの夜食を受け取って欲しいとしか言わなかったよ』

 融通がきかないツィーネに文句を重ねる気もなくなり、ココノアは黙って部屋のカーテンを開けた。

 空は明るくなりかけだが、太陽は顔を出していない。深い青が明るい日の光に侵食されていくのを見上げてから、備え付けの小さな冷蔵庫を開けた。中に入っているのは飲料水が入ったボトルが数本と、レモンがいくつか転がっているだけだ。冷たいレモンをそのまま囓る気持ちにもなれず、ココノアはボトルを取り出した。

 ごくごくと喉を鳴らしながら大きなボトルの半分ほどを一気に飲み込む。寝ている間に干からびそうだった体に冷たい水が染み込んでいく気がして、ココノアは「はー」と気持ちのいい息を吐いた。幾ばくか気分が良くなってきたところで、もう一口二口と水分を取ってボトルを持ったままベッドへ戻る。

 ダイダが下の食堂を開けるにはまだ時間が早いし、外に出ても店がやっている時間でもない。眠る気はなかったが、体は重くてだるい。

 仰向けに寝転がると息苦しい気がして、左腕を下にして目を閉じる。無意識に息が荒くなり、落ち着けるように何度も深呼吸を繰り返した。



 ノックが聞こえ、ココノアはいつの間にか眠っていたことに気付いた。体を起こすと貧血のように視界が揺れ、額を強く押さえる。

「ツィーネ。クリスタル化して、人型」

「俺のココがそういうのなら。どうかした?」

「代わりに出て。……目眩が落ち着いたら僕も顔を出す」

 ツィーネは了承し、寝室から出ていく。何度めかのノックに「今開けるよ」と声を返し、鍵を開けて扉を開いた。

「おや、ツィーネ。ココちゃんはまだ寝てんのかい」

 扉の向こうにいたのはレクトーナだった。彼女の瞳が心配そうにツィーネを見上げ、ココノアを探して部屋の中へちらりと移る。

 ツィーネは彼女が中を良く見られるように体をどけてやるが、レクトーナは自分がしたことに気付いて「覗きみたいで悪かったね、ごめんよ」と首を振った。

「俺のココなら起きているよ。まだ調子が戻らないみたいだけれどね」

 ツィーネが寝室を指差すと、レクトーナは眉尻を下げたまま僅かに笑んだ。

「昨日は丸一日姿を見なかったから心配になってね。ちゃんと起きてるならいいんだよ。ご飯は食べていたかい? あの子、食料品の買い置きなんて殆どしてないんじゃないのかい」

「食べてないよ」

 聞かれたままを答えたツィーネに、レクトーナは呆れたように息をついた。

「……しっかり食べないと戻る調子も戻らないって言っておきな。ダイダに粥を作らせておくから、食べに降りてこさせるんだよ。なんなら持ってきてやるからね」

 レクトーナの有無を言わせない指示に「ココのためになるなら、そうするよ」とにこやかに頷く。

「まったくもう。あの子はすぐに食べたり飲んだりを忘れるからね」

 彼女がやれやれと大げさに肩を上下させると、寝室の扉が開いた。隙間から顔を出したココノアが普段どおりに笑う。

「レクトさんが思い出させてくれるから安心して忘れられるんだ。――顔を洗ったらすぐに降りる。そうだ、卵の入ったお粥がいいなあ」

 ココノアの元気そうな表情を見たレクトーナがほっと表情を緩めた。

「卵くらいいくらでも食べな、さっさと顔を洗って降りておいで」

「はい」

 レクトーナは最後に「二度寝するんじゃないよ」と念押ししたあと、扉を閉めて去っていく。

 それを待っていたかのように、ココノアがしゃがみこんだ。くらくらする頭を押さえ、深呼吸を繰り返す。

「――ツィーネ。次は勝手にクアルツを足さないでほしいな」

「俺のココがそういうのなら。それと、俺がその約束を覚えていたらね」



 ふやかした米を卵でとじたそれは真っ白な湯気をあっげていて、この暑い季節にはそぐわない。それでも、ココノアは額に汗を浮かべて口へ運んでいく。

「そんなに慌てて食ったら体に悪いぞ」

 客席が見えるカウンターから宿の主人ダイダが声をかけてきた。ダイダの笑い声は大きい上に低いので、空っぽの胃によく響いた。

 ココノアは口内の熱い粥を飲み込み、笑って顔を傾けた。

「流石の僕でもお腹が減っちゃって。ダイダさん、お水ください」

「あいよ。――そうだ、ココ。昨日の夜、治安部隊からお前さんにって電話があったぞ」

 ダイダが大きな冷蔵庫から大きなポットを取り出し、きんきんに冷えた水を小さなポットへ移した。小さなポットには氷もがらごろと落としながら、彼は昨夜を思い出すように視線を斜め上に持ち上げる。

「また今日にでも連絡するっつってたかな。こないだ海の道で揉めたって言ってたろう。あれの話だとよ」

 彼は冷たい水と氷がたっぷり入ったポットを持ってココノアの前まで出てきた。

「え、なんだろう……。書類に不備でもあったかな」

「さあなあ。詳しい話はまた電話で聞いてくれな」

 あの日、ココノアが褐色の男と海へダイブした後、簡単な事務手続や証言はツィーネに任せたし、それに問題がないかチェックも入れてサインもしたはずだ。

 ココノアが首を反対側に傾げているのを見ながら、ダイダは残り僅かになっていたココノアのグラスへ水を注いだ。

 まだ店が開く時間ではないが、下ごしらえなどでダイダは忙しい時間のはずである。ココノアは「ありがとう。後の片付けは僕がするよ」と気を使うと、彼は「そんなもん構わねえよ」と父親のように柔らかい表情になった。

「そんなことより、まだ疲れた顔してるぞ。電話が来たら起こしてやっから、食ったらもう一眠りしておきな」

 父親の大きな手でわしわしと髪を撫でられたココノアは、目をぱちくりさせたあと「はい」と首肯してはにかんだ。

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