眠りにつく
宿スミレに戻ってきたココノアは晶力式二輪車を止め、タイヤにチェーンを通す。
海水にたっぷりと浸かった髪には塩がまとわりつき、服の中はまだ乾いておらずべたべたと気持ちが悪い。
褐色の男と海へとダイブしたココノアはちょうど復路だった高速船にすぐに拾い上げられ、危惧していた着衣水泳はあまりせずにすんだ。
橋の上であったことについてはツィーネがおおよそ説明を終わらせてくれていたため、ココノアが海の道の入り口になんとか戻った時にはすっかり処理が終わっていた。ツィーネの証言が正しいことを確認し、それにサインを走らせただけでよかったのは助かった。
そんなココノアは共に落ちた男を治安部隊へ引き渡したところで、海の道の職員に「そんなびしょ濡れで仕事になるか」と笑われて半強制的に帰るはめになってしまったのだ。おかげで本日の稼ぎは予定の半分以下である。
「あれ、ココノア? ――って、お前さんどうしたんだい、ずぶ濡れじゃねえか」
二輪車の音が聞こえたのか宿スミレの主人ダイダが顔を出した。
ココノアは困ったように眉を下げ、顔を傾けた。
それから先程の出来事をかいつまんで説明すると、ダイダは豪快に笑ってからココノアの背中をばしばしと叩いてシャワーを勧めた。
ダイダに大笑いされたココノアは借りている三階の角部屋に上がり、靴の踵を踏んで脱いだ。ぺたぺたと濡れた足跡をつけながら洗面所へ向かい、後頭部の高い位置で縛っていた髪留めを解く。鮮やかな橙や緑の糸で編まれたものだが、今は塩を吹いていてなんとなく白っぽい。量の多い髪が肩の下まで落ち、ココノアは鬱陶しそうに茶色の髪を撫で付ける。
べたつく手でつなぎのボタンを外しながら浴槽の扉を開け、浴槽の栓を確認してからカランを回して湯を出した。聞いているだけですっきりしそうな水音を聞きながら、洗面所に戻って服を脱ぎ始める。
「今日は散々だ……。まさか海に落ちるとは……」
呻きながらつなぎから腕や足を引き抜いて。
「泳ぐにはいい季節だったよ、俺のココ。冬でなくてよかった」
ココノアが靴下を脱ぐ体勢から顔を上げた。洗面台の鏡には笑顔のツィーネが映っている。いつの間にクリスタル化したのかと首を傾げながら、苦いはにかみを浮かべた。
「ツィーネ。何度でも言うけれど、風呂に入る時には出てこないでほしいな」
何度目かも分からない苦言を、ツィーネは気にした様子もなく、ココノアの裸の背中にぺたりと手を触れさせた。
ココノアは人とは異なる感触から逃げるように体をよじって、彼を見上げた。きらきらとした、何を見ているか分からない瞳と目が合う。
「クアルツを使ったよ、俺のココ。補充しておこうよ、さっきのでかなり減ったんだから」
「風呂が先。それとも、気絶した僕を丁寧に洗って、服を着せて、髪を乾かして、ベッドまで優しく運んで、布団もかけて、ダイダさんに晩御飯のお願いをしてきてくれる?」
ココノアが人差し指を突きつけると、ツィーネはその細い指を優しく握る。
「俺のココがそうしてほしいならそうするよ、だから――」
「してほしいって思ってると思う?」
頬を膨らませたココノアがぴしゃんとツィーネを制した。
ツィーネはわざとらしく首を傾げて「分からないよ、俺のココ」と笑い、光となって霧散する。
「ツィーネ。人の風呂を覗くなんて、いい趣味じゃないなあ」
ココノアが湿気た下着を脱ぎ、洗濯籠へ落とした。
『俺はココの側にいるだけだよ』
見えない精霊の言い訳に、ココノアは弾けるように笑う。そして、浴槽の冷たいタイルへ踏み入れ、ちょうど浴槽に溜まった湯へとぷんと浸かった。
宿スミレの一階には共有の洗濯場があり、ココノアは濡れた服やタオルを晶力式洗濯機にごっそりと放り込んだ。
「おやまあ、それじゃあ大変だったじゃないか」
その洗濯機を止めるまでの時間、ココノアは同じく一階にある食堂でレモンと蜂蜜を溶かした水を目の前に置いていた。
マドラーでレモンをつつくココノアの正面に座っているのは、ダイダの妻であるレクトーナだ。
「泳ぐ練習になったよ。――ああ、そうだ。明日は起きてこないと思うけれど、心配しないで。いつもの」
ココノアがぐるぐるとかき混ぜて氷とレモンをぶつけながら肩をすくめる。
「そんなにクアルツを使っちまったのかい」
「最近忙しくて、ずっと減ったままだったんだよ。明日と明後日は時間があるし、今のうちに補充しておかないとツィーネがうるさくって」
精霊ツィーネと契約をしているココノアは、彼が持つクアルツを体内に有している。それの残量が僅かになっており、再び代償を支払ってクアルツを注いでもらわなければいけないのだ。
ココノアは代償として生命力をツィーネに支払う。生命力は寿命とは違ってしっかり食べて寝れば回復する、比較的支払いやすいポピュラーな代償である。しかし、ココノアは食われた生命力以上に疲労が来るようで、大なり小なり代償を支払った後は眠ってしまうのだ。丸一日起き上がれないこともしばしばある。
「そうかい。そういやあ、契約して今年で何年目になるんだい」
レクトーナは客がいないのをいいことに、ココノアとのお喋りに本腰を入れ始めた。ココノアは頬杖をついて首を傾げる。結んでいない髪が肩をなぞり、背中を滑る。
「初めては十四の頃だったから……もう十年を越えた。そう思うと長いなあ」
『出会ったのはもっと前だったね、俺のココ』
うっとりしたツィーネの声が心に湧き、ココノアは同意するように微笑んだ。
レクトーナはそれを精霊との付き合いを懐かしむ微笑みだと思ったようで「付き合いが長いと情が湧くのは人間も精霊も変わらないねえ」と一人で満足気に頷いている。
「ここまでくれば幼馴染みたいなもんだね」
レクトーナが歯を見せて笑うと、どこか少年のような雰囲気がある。実際はココノアの倍近く年を重ねたグラマラスな女なのだが、彼女の笑みにはくすみがない。
「幼馴染?」
「子供の頃に近所で出会って、そのまま一緒に大人になったんだ。幼馴染みたいなもんだよ」
レクトーナが片肘を突き、ココノアのグラスを手にとった。たっぷりの氷で冷えたグラスが汗をかき、ひんやりとした水滴がレクトーナの細い指をつたう。
「大人になったって言っても、ツィーネは出会った時からずっと大人の姿だけれどね」
笑ったココノアがレクトーナに「それ、飲んでもいいよ」と勧めて立ち上がった。そろそろ洗濯機を止めなくてはいけない。いつまでも回し続けても仕方がない。
「晩御飯は食べないかもしれないけど、夜更けには起きるかもしれないから。食堂を閉める頃に夜食を持ってきてもらってもいい? 僕が起きてなくてもツィーネに受け取るよう言っておくよ」
「ああいいよ、ゆっくりおやすみ。暑いんだからしっかりと水分をとって眠りなね」
そういうレクトーナの手にはココノアの飲みかけがある。ココノアはけらけらと笑ってから「水をしっかり飲んでおくよ」と手を振りながら背を向けた。
夜食が備え付けの小さなキッチンに置かれていた。
ココノアは規則的な寝息をたて、寝室のベッドで眠り続けている。
ツィーネは枕元にゆっくりと腰掛けたが、彼が座った場所は全く沈まず、シーツに僅かな皺を作っただけだ。重さの調節も可能――双剣の時ならココノアが好む重量にしているように――で、今はココノアの安眠を考えた結果だ。
「幼馴染なんて素敵だね、俺のココ」
聞こえていないことは承知で、体を折り曲げて耳元で囁く。
「このまま一緒になってしまおうよ、俺のココ。俺のクアルツに溺れて、窒息して」
ココノアが僅かに身じろぎ、長い前髪がさらりと揺れた。
「俺のココはどうなるのかな、俺のクアルツを溢れるほど注いだら」
頬を撫で、そこへ唇をつける。そして、そこからクアルツを注ぎ込むと、ココノアが苦しさの混ざった息を吐いた。
「――中身が全部俺のクアルツになったら、ココは俺と同じになるのかな」
ツィーネは何事もなかったかのように唇を離し、姿勢を元に戻した。
追加で注がれたクアルツで許容量の限界になったからか、ココノアは溺れないよう必死に喘いでいる。
その苦しみを愛でるように、髪を撫でたツィーネはふわりと光となって霧散した。
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