海の中と外




 ココノアは二輪車のブレーキをきつくかけて停止し、風でぼさついた前髪に指を通す。もう片手で二輪車のボディに埋め込まれた水晶に触れると、「いつでも走り出せるぞ」と張り切って震えていた二輪車が動きを止めた。

 止まった二輪車から降りて端に寄せたココノアはタイヤにチェーンをくるりと巻いてから駆け足で目の前の建屋に向かった。ココノアが地面を蹴るたびに腰にぶら下がった双剣が跳ねてぶつかって音を立てている。

 小さな建屋の中に入ると、すぐに受け付けのカウンターがあり、ココノアが大声で「すみませーん!」と声をかけると奥から野太い声と一緒に男が姿を現した。

「よう、ココ。時間ギリギリだぞ」

「こんにちは。いろいろ作っていたら時間のことを忘れてたんだ」

 男が差し出してきたクリップボードと紙とペンのセットを受け取り、ココノアは特に紙面を読むこともせず最後の空欄に雑なサインを走らせた。

「今度は何を作ってんだ」

「木の腕輪。この間特別に作ってほしいって注文があったんだ。すごく細かいデザインでね、彫るのはとても楽しいんだけど、結構な集中力が必要で――」

 ココノアが宿スミレの中庭で制作していたものを思い出して喋り始めると、男はそれを嫌がるように手を振った。ココノアがこの手の話題になると途端にお喋りになるのを知っているからだ。

 男の拒否にココノアは一瞬ぶすっと唇をすぼめたが、すぐに表情を切り替えた。クリップボードにペンを挟んで返し、受付に置かれている地図を覗き込む。

「今日はどこ担当?」

 地図にあるのはおおよそ南北に走る一本の細長い道だ。

 この国アメシストと、大きな湾の向こう側にある国リアルガーを結ぶ巨大な橋だ。それはと呼ばれる人の足でしか渡れない長い橋で、渡り切るのに三日はかかる。

 橋の管理はアメシストとリアルガー両国で行っており、国境ゲートは橋の入り口にそれぞれ置かれている。実際の国境は橋の中心に線で引かれているだけで、橋の管理は両国が共同で行うことになっていた。

「休憩地点より施設のほうがいいな」

 その海の道には幾つか宿泊が出来る簡易施設がぽこぽこと用意されており、他にも休憩地点として橋の幅を広くしてある箇所も多い。そして、簡易施設にはもちろん、細かに設置された休憩地点にも必ず緊急時用にスタッフが常駐している。

 出入国の手続き等の事務を行う職員は海の道の管理者として正式に雇われている者だが、休憩地点や施設の見張りも兼ねたスタッフのような簡単な仕事は日雇いの者も多い。

 そして、ココノアはその日雇い者の一人だ。

「ココの担当は――お、当たりだな。門番を頼むよ」

 男の太い指がアメシスト側の国境ゲートを兼ねた簡易施設をとんとんと叩く。

 ココノアは「分かった」と頷き、何かを釣り上げるように人差し指をくいっと動かした。フックのようになった指先に、紫に染められた革の腕輪が引っ掛けられる。

 橋で働く者――紫はアメシスト側、赤であればリアルガー側――の証だ。

「船は?」

「急げ急げ、じきに出るぜ。次は駆け込み乗船にならねえように出勤してこいよ」

 そんな男の言葉を背で受け、ココノアは手を上げるだけの返事をして外へ飛び出した。長い足をくるくると動かしながら腕輪を装着し、海へ繋がる石畳の階段を駆け、時には跳んで下っていく。

 すぐに見えてきた小さな桟橋では小型の船が今にも発進しそうな状態になっていた。

「出るぞー!」

 大声が走るココノアに届き、ココノアは「行け」と言うように右手をひらりと振った。それを受けて船がゆっくりと桟橋から離れていき、ココノアは離れていく船目掛けて思い切り飛んだ。

 ひやっとした空気が足元から頭のてっぺんに駆け上がるが、なんとか甲板に着地した瞬間にその冷たい空気は消え去っていた。

 ちょうど同じ時間で交代するであろう同士たちの笑い声に迎えられ、ココノアは照れたようにはにかんで顔を傾けた。



 船が大きな橋の足元へ到着した。

 各持ち場に近い橋脚の中は階段になっており、それをぐるぐると登ればそれぞれの簡易施設や休憩地点に到着するようになっている。

 ココノアが船を降りて外階段から――橋脚の中に入るには少し登ったところの扉でないといけない――船を見下ろすと、先程まで乗っていた船はあっという間に去っていった。

 人の足では渡るのに三日かかるとされる橋の長さでも、あの専用の高速船であれば太陽が昇り始めてから真上に到達するまでの間に往復だって可能である。

『船が動くなら階段も動けばいいのに』

 ココノアがそんなことを思いながら番号式の鍵をあけて橋脚の中へ入る。ぐるぐると目の回るような階段をせっせと上り始める。

『この前ジェードで見たって騒いでいたやつのことかな? 動く階段っていうのは』

 心の奥底に浮かんできた質問に対して、ココノアは答えるように頷いた。

 アメシストがある小さな大陸――島と呼ぶには大きすぎる――は、まん丸の焼き菓子を一口かじったような形をしている。

 海の道はそのかじった跡――鯨の巣と呼ばれる大きな湾――に架かっている橋だ。

『まだ研究中だとかで数段しかなかったし、人が乗ると壊れるって言ってたけどね』

 その鯨の巣の底には水晶に覆われた、水中都市ジェードが存在する。

 名前の通り水中である海の底にある町であり、海を深く深く潜ればそこには宝石箱の中に――いや、宝石そのものの中に、町が見えるはずだ。人口は少ないものの立派に人が住んでおり、中では家も建っていれば草木も生えている。

 ココノアは階段を登りながら足元を見下ろす。ぐるぐると渦巻いた階段が地底へと誘っているような気がして、すぐに視線を正面に戻した。

『クアルツでどうにかなればいいのになあ』

 地上では当然のように扱われるクアルツとは、不可視の生命である精霊の源であり、またその精霊が操る力だ。ココノアが先程乗っていた二輪車も水晶に閉じ込めたクアルツを利用したもので、ココノアからすれば子供の頃から慣れ親しんでいる力である。

 水中都市ジェードでは精霊の力であるクアルツを使わずに文明を発達させた科学の町であり、クアルツに頼らないものが日々開発されている。

『クアルツを使って昇ってもいいよ、君がやりたいのなら』

 上手く付き合えば便利な力であるのに、水中都市ジェードではクアルツに頼らない動力やそれを利用した機械ばかりが動いている。最近はクアルツと科学を融合させたものも開発されているが、それでもまだまだ地上ではクアルツを用いたものが殆どだ。

 ココノアは水中都市ジェードで見た仕組みはさっぱり理解出来なかった動く階段を思い出しながら、橋脚の中を登り切る。

 そして、笑う。

「そんなどうでもいいことにクアルツなんて使わない。後で倍以上に疲れるしね」

 ココノアは心の奥底で行っていた会話の続きをあえて口に出した。それが終わりの合図か、心にそれ以上の会話は浮かんでこない。

 橋脚の中から出る扉を引いて開けると、潮風にやられて錆の浮いた蝶番が鳴いた。

「どうも」

 ココノアが顔を出すと「こんにちは」と笑った女が出迎えた。国境ゲートの事務員である彼女はココノアがつけている革の腕輪をちらと確認し、もう一枚ある檻のような扉の鍵を開ける。

「それじゃあ、今日もよろしくね」

「うん、よろしく。いい天気で良かった」

 ココノアが国境ゲートの建屋から外へ出る。

 強い日差しがココノアの肌を刺した。

 真っ青な空の下――遥か遠くに空に浮かぶ、天空都市ラズワードを見上げて、ココノアはぐっと伸びをした。

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